雨宮瑞穂は宇宙人
「委員長、俺のスマホを返せ」
それを取られては呼吸ができないとでもいうような切羽詰まった顔だ。梅沢蒼吾はベンチから腰を上げ、級友を追った。
「駅のホームでスマホに夢中の生徒が、周りの迷惑になっています。ホームルームで注意されたばっかりじゃない。まさか梅沢くんが、そのひとりだったなんて。がっかり」
雨宮瑞穂はレイヤーカットの長髪を揺らし、水の中を泳ぐような滑らかさで逃げる。ホームで同じように電車を待つ、帰宅途中の生徒たちすらも難なく避けて見せた。
「ベンチに座って大人しくしてただろ。騒いでるわけでもないし、モタモタして電車に乗らないわけでもない。無害そのものだ」
「だけど、梅沢くんのせいでベンチに座れない人がいるかもしれないじゃない」
「わかった。明日からはベンチも使わない。だからスマホを返してくれ。もうすぐ、イベント・バトルが始まっちまうんだ」
「なにそれ?」
聞き慣れない言葉に、瑞穂の足が止まった。早いまばたきを繰り返し、丸メガネ越しに蒼吾を伺う。
「エメラルド・ドラゴンって知らない?」
「エメラル・ドドラゴン?」
「違う、違う。しかも、ちょっと可愛らしい感じの名前になっちゃってるじゃん」
「新種の恐竜かもね」
「残念だけど、スマホのゲームだから。大人気なんだぜ。百万人以上が遊んでんの」
「みんな、暇なの?」
「おい、すべてのゲームファンに謝れ。そのゲームには夢と冒険とロマンが詰まってるんだよ。退屈な日常を忘れさせてくれるぜ」
「危ない薬じゃないよね?」
「ゲームだって言っただろ」
「本当に? スマホ依存で、ドドラゴン病にかかってしまったのね。かわいそうに……尚更、返すわけにはいかないわ。委員長としての責任にかけて」
「強引に話を運ぶな。俺の話を聞けよ」
瑞穂のペースに巻き込まれていることに蒼吾は辟易した。そうして、彼女へ密かに付けられたアダ名の強さを思い知らされていた。
「今日から、期間限定のモンスターが配信されるんだよ。そいつに勝つと強力な装備と称号が手に入るんだ。この日のために課金して、主人公を鍛え上げたんだぜ。俺の苦労とリアルマネーを無駄にさせるつもりか?」
「課金って、お金をつぎ込んでるの?」
分厚いレンズのせいで大きく見える瑞穂の目が、一層見開かれている。
「まぁな」
「呆れた……で、いくら使ったの?」
「委員長。あなたは俺のお袋ですか?」
「お母さんのつもりで聞いています」
「つもりって何だよ。委員長はスマホを置いて、さっさと電車に乗ってくれ」
「無理ね。人生という名のレールから外れてしまった梅沢くんを、最果ての駅へ置き去りになんてできないわ」
「俺をダメ人間みたいに言うな。そこまで落ちこぼれた覚えはねぇよ」
蒼吾は困ったように頭を掻き、瑞穂の手に握られたままのスマホへ目を落とした。
「それにな、ゲームの世界には俺を待ってる仲間がいるんだ。一緒のチームで行動してるし、あいつらには俺がいないとダメなんだ」
「顔も知らない相手と盛り上がって、何が楽しいの? そのゲームが終わっちゃったら、梅宮くんには何も残らないじゃない」
「今が楽しけりゃ、それでいいんじゃね?」
「雨まで降って、空も泣いてるよ。高校一年の時は真面目だったのに。私と学年一位を争っていたあなたはどこに行っちゃったの」
「この鉛色をした梅雨空の彼方さ」
「だっさ……あなたの瞳が鉛色よ」
「それはそれで、格好よくね?」
「ぜんっぜん……それに、今の梅沢くんはイケてないし。眠そうな顔で、髪もぼさぼさ。前は身なりにも気を遣ってたと思うんだけど」
頭から足下までをまじまじと眺めてくる瑞穂の視線に耐えかね、蒼吾は反論を試みた。
「燃え尽き症候群かもな。目標の高校に入ったら、勉強するのが嫌になっちゃってさ」
「友達でも作って、青春を謳歌しなさいよ」
「周りは、お互いをライバルとしか思ってないような奴らばっかりだろ。ゲームの世界より殺伐としてるよ。友達なんてできっこねぇって。進学校なんて入るんじゃなかったわ」
蒼吾の頭には両親の顔が浮かんでいた。
「いい大学に行って、いい会社に就職しろって。子どもに過度な期待をしすぎなんだよ。俺の生き方は俺が決める」
「御両親に養ってもらっている身で、生意気なこと言わないの。そういうことは自分でお金を稼ぐようになってから言うものよ」
「説教はいいから。俺に構わないでくれ。ここは俺に任せて、おまえは先に行け」
「それ、ゲームのセリフか何か? 言ったでしょ。最果ての駅へ置き去りにされた梅沢くんを、引っ張ってでも連れて行くから」
「なんでそこまでするんだよ」
蒼吾の顔には拒絶の色がありありと浮かんでいる。瑞穂はそれに気付かないのか、あっけらかんとした調子で口を開いた。
「好きで勉強してるわけじゃないのは私も一緒だから。競う相手がいないと、私もやる気を保てないのよ」
「それなら他を当たってくれ」
「だから、一番を争っていた梅沢くんが打って付けなの。委員長パワーで任命します」
「あのな。委員長がそんなに偉いのか? 教室を出たら、ただの高校生だからな」
一刻も早く厄介払いしたいと思いつつ、蒼吾は頭の片隅で違うことを考えていた。
「だったらこうしよう。委員長が俺にこだわるなら、俺の頼みを聞いてくれ」
「頼みって?」
「来月の期末テストの学年順位で勝負しよう。俺が負けたら、家の外では絶対にエメラルド・ドラゴンをやらない。で、俺が勝ったら、プールに遊びに行こう。どうよ?」
「プール? 水着ってこと?」
「もちろん。嫌なら断ってよ。俺はスマホを返してもらえればそれでいいから」
蒼吾は心の中でほくそ笑んだ。
掴み所のない彼女だが、男子生徒には人気がある。水着姿をスマホに収めることができれば、普段はギスギスした同級生でも食い付いてくるはずだ。そんな奴らに水着写真を販売し、小遣いを稼ごうと思い立ったのだ。
提案を断られても、スマホとこれまでの日常が戻ってくるだけ。蒼吾には一切のデメリットがない完璧な作戦だった。
「いいわよ。できないクラスメイトを助けるのも委員長の務めですから」
「できないんじゃなくて、やらないだけだからな。そこを履き違えるなよ」
「だったら私からも提案。一方的に叩きのめしてもつまらないし、週に二回でいいから一緒に勉強しようよ」
「自身満々だな……俺の本気を見せてやる」
「そんなに私の水着姿が見たいの?」
「アホか。勘違いすんな。プールはあれだ。テストが終わったら、夏を感じたいだけだ」
そうして、テスト対策は着々と進んだ。
週に二回の合同勉強会は月曜と木曜に決めた。校内の自習室や駅近くの図書館は私語厳禁のため、瑞穂の提案でカラオケボックスを利用することにした。ドリンク飲み放題で防音。集中するには打って付けの場所だった。
「マジで勉強がはかどるよな……知識を詰め込んで自分がレベルアップしていく感覚。しばらく忘れてたわ」
「いいことじゃない。私も刺激になる。そういえば、ドドラゴンはどうしたの? 最近、スマホを触ってる姿を見てないけど」
「それが自分でも不思議なんだけどさ、興味が薄れてきたんだよ。何日もゲームを起動してないから、仲間からのメッセージがたくさん溜まってるかもしれねぇわ」
「大丈夫? 禁断症状とか出てない?」
「だから、危ない薬じゃねぇし」
蒼吾の返しに、瑞穂は楽しそうに笑った。コップを取り、ストローを咥えてレモン・スカッシュを飲んでいる。
瑞穂に炭酸飲料というイメージがなかった蒼吾は、意外な組み合わせに興味津々だった。彼女が言うには、炭酸の刺激が頭をスッキリさせるのだという。
勉強への熱意が戻ったこともさることながら、蒼吾は瑞穂と過ごす時間が楽しいと思い始めていた。
あと五分、あと五分だけ。部屋の利用時間が迫る度、そう願わずにいられなかった。
※ ※ ※
「お疲れさま〜」
蒼吾の手にはアイスコーヒ―。瑞穂はクリームソーダ。ふたつのグラスが打ち鳴らされ、涼やかな硝子の音が響いた。
「ファミレスで打ち上げ。贅沢だよな」
「やっとテストが終わったんだし、ご褒美ってことでいいじゃない」
「俺、勉強会と打ち上げで、お年玉をほとんど使い切ったかも」
「じゃあ、プールに行くお金もないよね。敗北宣言ってことでいいの?」
「勝手に終わらせんな。それに、ほとんどって言ったんだ。ないわけじゃねぇから」
「なに、その必死な顔」
瑞穂は瞳に涙を浮かべて笑い、注文したタラコパスタにフォークを絡めた。
「委員長。テストは終わったっていうのに、今日も炭酸飲料なんだな」
蒼吾はマリゲリータピザを頬張りながら、エメラルド・グリーンの飲み物に目を留めた。
「あぁ。これ?」
グラスから頭を出したバニラアイス。それをスプーンでつつき、瑞穂は照れ笑いをした。
「クリームソーダって、私には特別な飲み物なの。毎月一回、家族でレストランに行くのが雨宮家の贅沢だったのね。必ずこれを頼んでたんだけど、その特別感が抜けなくて」
「今日も、テストが終わったから特別なご褒美ってわけか」
「うん。でも、それだけじゃないんだけどね」
「ん? どういうこと?」
「なんでわかんないかなぁ」
瑞穂は唇を尖らせ、バニラアイスへ不満を向けた。スプーンの先で何度もつつかれた乳白色の塊は、せわしなく上下運動を繰り返す。
澄んだエメラルド・グリーンの海が、次第にクリーム色へと移り変わってゆく。透明度を失ったクリームソーダが、今日の曇り空と重なって見えた。
「委員長は混ぜる派?」
「え?」
「クリームソーダって、アイスを先に食べる人と、そうやって混ぜる人に分かれると思うんだよね。委員長は混ぜる派か」
「それって重要なこと?」
先程までの不満を忘れ、瑞穂は吹き出した。
「いや、知識として蓄えてるんだ。委員長はクリームソーダを混ぜる派、と」
「ムダ知識」
「いや。ムダなことなんてないよ」
「梅沢くんの脳内を、私のムダ知識で埋め尽くすことになったとしても?」
「後悔はないね」
ふたりは声を上げて笑った。午後のファミレスに、クリームソーダの甘い香りと、優しい空気が満ちてゆく。
「クリームソーダって凄く美味しいけど、困ることもあるんだよね」
瑞穂は複雑な顔で、エメラルド・グリ―ンの海をかき混ぜる。その中に沈んでしまった、幼き日の思い出を探しているかのようだ。
「何が困るの?」
蒼吾が不思議に思って訪ねると、瑞穂は恥じらいながらもチラリと舌先を覗かせた。
「舌が緑色になっちゃうでしょ。子どもの頃は良く、宇宙人だぞ〜、って遊んでた」
「その頃から、宇宙人だったんだ」
「その頃『から』って、どういう意味?」
「あ……何でもない。忘れて」
「何でもないわけないでしょ」
蒼吾は己の迂闊さを呪ったが、既に手遅れだ。瑞穂の機嫌は急変し、誤魔化すこともできないと覚悟を決めた。
「うん。強度遠視って大変だと思うんだ。でも、分厚いレンズのせいで目が大きく見えるじゃん? おまけに掴み所がない不思議な性格をしてるっていうんで、クラスの奴らは宇宙人なんてアダ名を……」
次第に重苦しい空気に包まれていることを蒼吾は肌で感じた。肩を落とした瑞穂はうつむき、取り外した丸メガネに視線を落としている。
「やっぱりこれか……目が大きく見えるのは自分でも嫌なの。でも、コンタクトを入れるのは怖いし……それにしたって、宇宙人って酷くない?」
「いや、悪い意味じゃないから。不思議な所が可愛いって言ってる男子は多いし。ここだけの話、委員長って結構人気あるんだぜ」
「なんか嬉しくない。梅沢くんも私のことを、宇宙人って思ってるってことだよね?」
瑞穂はレイヤーカットの髪を両手でとかし、顔を隠すような仕草を続けている。
それを目の当たりにした蒼吾は、胸の中の痛みに気付いた。同時に、自分の想いが隠しきれないほどに膨れ上がっていると自覚させられてしまった。
クリームのような甘い未来か。ソーダの泡のように弾けて消えるか。一か八かの勝負だ。
「俺は、委員長を可愛いと思ってる方のひとりだけど。宇宙人だなんて思わないよ」
「本当に?」
はじかれたように顔を上げた瑞穂。
初めて目にした彼女の素顔に、蒼吾は目を奪われた。そして人間を超越したようなこの美しさこそ、噂の根源だと確信した。
雨宮瑞穂は宇宙人。
曇り空の隙間から薄明かりが差し込んできた。その光は蒼吾の心の内までも照らしているかのようだ。
ふたりの夏はすぐそこまで来ている。