第二十六話:虚無と呼び声 2
エイミールは、傷の癒えた子犬をそっと抱き上げると、頬を寄せた。
それから、翠の瞳を閉じて、じっと子犬の心音に耳傾ける。
そうしてほうっと吐息をついて、目を開き「生きてる・・・」と呟いた。
久しぶりに耳にした嬢様の声だった。
か細くあがる悲鳴ではない。うなされ叫ぶ、声ではない。
まだか弱いが、しっかりした声だった。
揺れていた翠も、しっかりと前を向いていた。
そのことに柄でも無くほっとして、傍らのレミレアと時を合わせて止めていた息を吐き出した。
レミレアの黒の瞳と目を合わせ、目視で頷きあった。
・・・嬢様は、もう大丈夫だ。
そんな嬉しそうなふたりを、不思議そうに見上げて、エイミールはおずおずとレミレアの服の裾を引っ張った。
「? なに?ねえさん」
「・・・あの、レミレア、この方、どなた?・・・この子を癒してくださってありがとうございます。その、お名前を・・・」
レイを見上げて、そう言ったエイミールにレミレアがしばし固まった。
「・・・嬢様、この顔ではまだお会いした事がありませなんだ。レイ・テッドにございます」
にっこりと微笑んだレイの艶姿に固まったエイミールであった。
にこにこと見詰めてくるレイの眼差しに恥ずかしいのか顔を真っ赤に染め上げるエイミール。
「えっ?ええっ?だって、レイって・・・はじめてあったときのお顔は(思い出して気が遠くなる)・・・!!!」
そんな彼女を前に。孤高のゾンビは。
・・・っ!かっ・・・可愛いです!エイミール嬢様!そのはにかんだお顔!垂涎モノですな!その一瞬の恥じらいを瞼に焼き付けて措けるなんて・・・! あぁ、生きてて良かった・・・!!!
・・・悶えていた・・・。(もどってこーい!)
「さて。質問がありますでしょう?わかる範囲でお答えいたしますぞ」
ひとしきり、素顔に驚いた後でレイが改まってエイミールの前でそう言った。
エイミールは、ベッドの中で子犬を抱きしめ、レイとレミレアの顔を見上げた。
眉が寄せられ、瞳が苦痛に揺れる。けれども、エイミールは声を絞り出した。
「・・・にい、さまとねえさまは・・・私がいらなくなったの?」
「いいえ」
「ちがうっ!」
レイとレミレアが即答した。その声に押されるように、エイミールが更に続けた。
「・・・じゃ、なんで?いらない者を見る目だった。取るに足りないものを見る目だった・・・」
「魔王閣下と側近幹部の皆様は、記憶を喰われてしまったのです」
レイが淡々と話し始めた。エイミールの瞳が驚愕に見開かれた。
レミレアが後に続ける。
「夜の眷属の一員に、キリエと言う夢魔がいたんだ。そいつの術は、記憶を喰う」
「なぜ、キリエが魔王閣下を襲ったのか、わかりません。ですが、キリエは嬢様にまつわる記憶を全て食い尽くしたのです。・・・幸い、私はその時その場にいなかったので、記憶を喰われずに済んだのですが・・・あの時あの場にいたすべての者の記憶から嬢様の情報だけが抜け落ちているのでしょう」
「ねえさんが嫌いになったんじゃないんだよ。ねえさんと、会う前の彼らなんだ。不信がられて攻撃されても仕方が無かったんだ。だって・・・」
「「会った事もない者が、魔王執務室に入り込んだんだから」」
声が染み入るまで少し時間がかかった。
ぽつり、ぽつりとパズルが合わさって行く。
エイミールは握りしめた自分の手を見詰めていた。抱きしめた子犬は身動ぎひとつしないで大人しい。
ああ、そうか。
「・・・記憶に、残ってないの?私のこと、忘れてしまったの・・・」
にいさまも。ねえさまも。マクギーさんや、ガーランドさん。やさしい、やさしい、みんな・・・。
ああ、そうか。だから。
イラナイモノじゃなくて、認識すらされていなかった、のか・・・。
去来する、虚無感に囚われそうになったとき。レイの声がした。
「また、会えばいいのです」
俯いて真っ黒な空間を見ていたエイミールの心に、レイの声が突き刺さった。
顔を上げると、レイの黒い瞳が目の前にあった。吸い込まれてしまうくらい黒い、力強い瞳。
「・・・嬢様。忘れているのなら、覚えてもらえばいいのです。正々堂々彼らの前へ進み出て、自己紹介をしましょう。幸い、嬢様は前魔王の娘児。無視は出来ますまい?・・・魔法力を身につけて精霊達を味方にして、彼らが無視できない実力をつけて、魔界に名を轟かせれば良いのです。強ければ強いほど、向こうから、打診してまいりますよ」
レイはそう言って、目を細めた。まるでそうなるのが当たり前だと言いたげな顔で。
エイミールの目を見据えたまま。言い切ったのだ・・・。
無視できないほどの実力をつけて、魔界に還る。
レイは簡単そうに言うけれど、それがどれほど大変か。魔王の側にいた少女には判る。彼らの力は途轍もなく大きく、偉大だった。
・・・でも。
それでも、なお。
逢いたいと、思うのだ。
だから。
エイミールは真っ直ぐにレイを見詰めた。揺るがない眼差し。
翠の瞳が己を捕らえた事に、歓喜するゾンビも、目の前の翠から黒い瞳を逸らさなかった。
「・・・また、会えるかな・・・?」
「ええ。必ず」
レイのその言葉に、エイミールは頷いたのだった。
・・・また、逢うのだ。
懐かしい彼らに。愛して止まない彼らに。
そのために、できる事をしようと、エイミールは誓った。
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・・・この虚無に身を任せてしまえば、或いは楽なのかもしれない。
喪ったものに取りすがり、ホシイと嘆く自分を許せなかった。
喪ったものの存在さえあやふやなのに。
それが、何なのかすら分からないのに。
・・・あの夜を境に、アルファーレンは自室へ行かなくなっていた。
執務室に簡易寝台を運ばせ、そこで休んでいる。
自室には結界を張り巡らせ、魔王でなければ入れないようにした。
空気すら入れ替わらぬように、注意深く結界で閉じ込める。
なぜそこまでする必要が在るのかと自問しても、判らないままだった。ただ、そうしたいからする。 誰かの面影を閉じ込めているのだという事に、彼は気付いてさえいない。
そうして、淡々と日々を過ごした。
いつものように執務をこなす。
空虚な抜け殻である事に気付く者はいない。
居並ぶ幹部達も、言葉に出来ない寂寥感に苛まされていたから。
慌しいのは彼らの周りだ。
・・・魔王の世話係の女達が、日替わりで魔王の寝台に侍る。
気が向けば抱き、気が向かねば殺す。
一夜を共にしても次の日の朝に冷たくなっている女達。
だが、魔族の中でも地位のある女達は、命かけて魔王の気を引こうとしていた。
妖艶な肢体の女が今宵も寝台に侍る。自分を後押しする一族の思惑を背負い。
・・・そして、今宵も恍惚のまま魔王に引き裂かれて女が息絶える。
その血潮を浴びて、なお、秀麗な魔王は顔をしかめた。
こんな香りではない。
こんな濁った色でもない。
もっと甘く、とろりとした色だった。
甘く脳髄を蕩かす香りだった。
・・・そうだ。あの時あの小娘が流した血のような。
魔王はかつて傷つけた娘の姿を思い返した。あの時、あの小娘が流した血。
甘く香る、鮮やかな色合いの、麗しの雫だった。
あの色、あの香りでなければ。
・・・私の渇きは癒せない。
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・・・あの日からアマレッティは、キリエを捜して魔界人界を彷徨うようになった。
目の前で霧散はしたが本当に死んだか判らない事に苛立ちを募らせる。
追いかけて、追い詰めたと思ったのに!
苛立ちのまま情報を欲し、精査しては、また探す。
有益な情報をもたらす者は厚遇し、そうでなければ爪で引き裂いた。
気まぐれに女を抱き、思うさま足の間を抉りながらその喉元に牙を立て食いちぎる。
長く鋭い爪は容易く女をミンチに変える。
その血潮を浴びながら、これじゃない、と思うのだ。
浴びたいのはこんな、濁った不味い血潮ではない。
えもいわれぬ香りを思い出す。甘く香る、血の匂い。
あの時、あの娘が流した血の色は、他のどんな女の色より美しかった。
あの時、どうして俺は追わなかったのだろう?
追って、捕えて、味わえばよかったものを!
あの時心を襲った動揺は、きっと間違いだったのだ。
追いかけ捕えて、貪れと・・・頭のどこかで言っていたのに。
何を勘違いしたのだろう、と憤る。
・・・その思いのままに、彼は今宵も女を引き裂く。
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・・・あの日からリアナージャは魔界人界を彷徨った。
キリエを捜し、行方をたどる。
人界の隅々まで魔力を走らせ、意識を読んだ。
人間の目玉をくりぬき、それが見てきた記憶をさかのぼる。
だが、キリエの行方はつかめなかった。
・・・まさか、本当に霧散したのか?
忌々しくも夢魔如きに遅れを取った、その事実。
腹立たしくてまたイキモノを引き裂いた。
気まぐれに男を誘い、よがり狂わせて絞め殺す。
気まぐれに女を拾い、目玉抉って舌先で味わう。
身をあわせ、震える女を官能に引き落とすのは楽しかった。
だが、媚びるような眼差しが気に入らなくて何人の目玉をくりぬいたか、何人食い殺したか。
もう、数さえ覚えていない。
その血潮を浴びて、リアナージャは自問する。
もっともっと、綺麗な色だった。もっともっと、良い香りだった。
甘くとろりと滴った、彼の娘の流した血潮は・・・。
こんな濁った色ではない。
こんな生臭い香りじゃない。
あの娘のような、色と香りの血を味わえたなら。
この胸のむかつきも、いやされるのだろうか・・・?
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エイミールが現実を認め、一歩踏み出してくれた事に安堵したレイとレミレアだったが。
・・・心配事がひとつだけあった。
エイミールの手から、食事の時間だと称して攫ってきた子犬。
前を向くきっかけをくれたのは、この子犬のおかげだという事は重々承知している。
目の前の高さに抱え上げて目を合わせる。お世辞にも尻尾を振る気配すらない。エイミールに見せる愛想のよさと、われらに向けるこの眼差しの違いはなんだ。
どこから見てもただの子犬だ。だが、ふたりは、子犬の存在に厳しい目をむけずに入られなかった。
自負がある。
自身がかけた結界術を抜けてきたのだ。目を眇めずにはいられない。
偶然などありえない。このレイ・テッドの術にまさかは無い。
自負がある。
自分の敷いた探索網に引っかかりもしなかったこの子犬。
屋敷に張り巡らせた、網の目を潜り抜けてくるなんて。
偶然であるはずが無い。このレミレア・パルナスの夜の目に、映らぬ影があるなんて。
「「貴様、いったい何者だ?」」
そんな厳しい眼差しを一身に受ける子犬は、ふん、と鼻を鳴らしてふたりを睨みつけた。
さ、治那さま。ご一緒にどうぞ。
「おばかさあああん!!!」
はい。別の女に手を・・・のところで、マジ焦りました。予知能力者?
ええ、閣下の言い訳としましては。
虚無を埋めるために女に男を埋め(げーふげーふ)ていたわけですが、情もへったくれもありません。顔も名前も覚えてません!って言うか、一言も交わさずコトに及んで、しかも引き裂いてます。生き残ってる女はいません!・・・なので、置いていかないでー!