第二十話:義兄さんにんと義妹 3
執務室はいつになく緊張感が漂っていた。
・・・いつになく?いや、違う。いつもこうだったではないか。
魔王軍最高幹部の一員であるマクギーは、頭の隅の違和感を打ち消した。
魔王閣下の御為に、智略を尽くし、粉骨砕身お勤めするのが我が仕事!
・・・だが、なんだろう。この喪失感は。
この、胸にぽっかりと空いた、寂寥感はなんなのだろう・・・。
そんなマクギーの葛藤を知ってか知らずか、アマレッティが声をかけた。
「・・・マクギー。あの夜の眷族の子供が言っていた、キリエとやらを探し出して来い」
藍色の瞳が険呑な色を載せてこちらを覗いていた。
それにぞっとして、またいつもの事だと打ち消した。そうだ。獣族の長は強く気高く静謐なお方だった。
・・・だった?
自分の中に浮かんだ答えに、ふと違和感を抱く。そうだっただろうか。アマレッティ様はこんなに冷たい眼差しで我等を見ただろうか・・・?
だが、一瞬の逡巡も、主の為にかき消して、マクギーは恭順な仕草で命を受けた。
「・・・キリエとやらを追うのですな?あの小娘ではなく?」
獣族の長は、厳しい眼差しで鷲を見つめた。その眼差しに失言を悟る。
「・・・夜の眷属だ。追う者を間違えるな」
「は!申し訳ありませぬ」
慌てて平伏しながら鷲な男前はなぜ、今、こんなことを口に乗せたのだと自分を責めた。
命令遵守が当たり前なのに!
・・・だが、どうしても。
マクギーは、空を駆けていった彼らの方が。
・・・気になったのだ。
頭の中が熱い。痛い。
苛立ちは際限なく押し寄せる。ちっ!と舌打ちをして、アマレッティは回りを見渡した。
執務室は凄惨な有様だった。
大きく崩れた窓から、外が見える。そのはるか彼方を目でおっている自分に気付き、また苛立った。
・・・なんなのだ、一体!
目を逸らすその一瞬に、目の端に捕えた血だまり。
それを目にしてまた背中があわ立った。動揺する自分に、動揺する。
だが、これを悟られてはいけない。あんな小娘一人、傷付いたからどうだと言うのだ。
生きようが死のうが関係ないではないか!
名前も知らない。顔も知らない。言葉を交わした覚えもない。
取るに足りないただの迷い子。傷付いて血を流そうが、息絶えようが、関係はないのだ!
・・・なのに、心のどこかが急を叫ぶのだ。
・・・追いすがり、怪我を確かめ、それから・・・?
「・・・忌々しい!」
なんなのだ。この心の揺らぎは。
いったい何なのだ!
軽く頭を振って、執務室の次の間を目に入れた。
今日の仕事は、ここでは無理だ。
今日から暫く次の間で決済をするか。
そう思い至って足を向けた。
それが更なる動揺をもたらせるとは知らずに。
管理責任者の欄に、エイミール・リルメルと名があった。それは別に良い。誰だろうが別に良い。
問題は、それを記した文字が・・・自分の筆跡だという事。
そして、記憶力には絶大な自信があるアマレッティにとって、書いた覚えがない事実が、彼に自己の揺るがぬ記憶を疑わせる一歩となる。
リアナージャ・ナーガはすらりとした痩身で、そこに在った。
腕を組み、周りを見渡す。
酷い有様だった。
大きく崩れた窓。引き裂かれたドレスの切れ端。
そこから滴る、血。
それを見て胸がざわめく。血だまりなど、見飽きたはずなのに。
なぜこの色に、ここまで動揺するのだ?
それに柳眉をきゅっと吊り上げて、側近らを見渡した。眼差しが細く尖り、一人の男を睨みつける。
アルファーレン・カルバーンは孤高の魔王の呼び名の通り、静謐な面持ちでそこにいる。
その彼は、開け放たれた窓枠から、外を見ていた。
かすかに歪む眉が魔王の苛立ちを露にしていた。
アルファーレンも、言い知れぬ苛立ちを抱えているのか。そう思い至って、リアナージャはおのれの全身に魔力を走らせた。
身体のどこにも異常はない。断言できる。
だが、記憶は?・・・喰われて困る記憶などない、と言い切れる。
だが、そう思う事さえも、何か事をなした輩の思うツボだったら?
頭の中に熱がこもる。重く熱く、じんとした。
これをよこした奴等を許しはしない。
わらわに対し成した罪は、贖わねばならん。
「・・・アルファーレンよ。わらわはキリエとやらを探し出すぞ。それから、キリエの後ろにいる奴を炙り出す。いかなる事も容赦ならん。我らに害なくとも我等に対して行った物事の見極めは必要じゃ。よいな?」
「・・・好きにすればよい」
ただじっと窓の外を見つめている魔王に、竜族の長はふんと鼻を鳴らし、言い放った。
「・・・貴様も、気になるのなら、追えば良いではないか!軌跡を目で追うのも限度があろう」
その問いに、わずらわしげな眼差しをよこして魔王が口を開いた。
「・・・別に、気になどなっていない。死のうが生きようが・・・どうでも良い」
「・・・ふん。追いかけたいと思うておると見たは、まちがいかの?」
嘲るような声音でそう告げられて、アルファーレンは険呑な光を目に浮かべた。
睨みあうふたり。
それに詰まらなそうな眼差しを送ったリアナージャが声を出した。
「・・・アルファーレン。先にも言うたが・・・わらわに喰われて困る記憶などない。無いが、それでも、わらわの記憶じゃ。誰にもやらんと決めた!竜族の長の記憶を喰らった輩、見つけ出して八つ裂きにしてくれる。アルファーレン、ガーランドを貸せ」
その言葉に、冷めた眼差しで答えるは、魔王。
「・・・好きにしろ」
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男はキリエを前に小躍りしそうな様子だった。
「よくやったぞ!よくやった!キリエ!」
満面の笑みで、高揚する意識のままキリエを褒め称える。
「良し!次だ・・・!」
そう呟く男を尻目に、キリエは虚ろな眼差しで虚空を見つめていた。
・・・レミレアだった。
間違いない。会いたくて仕方が無かった、けれど会えなかった人。
黒髪も黒の瞳も、いたずらっ子の眼差しも、かつて見た彼と違わない。
少し大人に近付いたのか?
レミレア。
・・・私はなぜ、貴方からあの娘の記憶を喰えなかったのだろう?
誰より、貴方の記憶からこそ、あの娘の記憶を喰い尽してやりたかったのに。
キリエは自問する。それが遠い昔に自ら課した枷だとも知らず。
キリエは無意識に大切な、唯一、共有した記憶の持ち主を、守ったのだ。
レミレアを慈しむあまりに、レミレアからだけは、記憶が喰えなくなっていたことに、キリエは気付かなかった。
唯一残った暖かな記憶。
キリエに残された、それはたった一つの希望だったのだ。
「キリエ!次は、魔王閣下の御為に、魔軍を鼓舞して行くぞ!」
魔軍の中でも結構な地位にある男にとって、この間の人間による魔界侵攻は許せるものではなかった。
圧倒的な力の差を見せつけて勝利に終わった今も、男にとってそれはヌルイ手でしかなかった。
「魔王閣下は、魔界のみならず人界も掌握すべきなのだ!」
おこがましくも希代の魔軍師である、魔王閣下に歯向かった人間達。
無秩序なイキモノは統制されなければならない。
人間の知識、力が如何ほどでも、魔王閣下の足元にも及ばないのは明白。
ならば、人間は人間による統治などすべきではないのだ。
魔界を統べるアルファーレン・カルバーン閣下。
彼の絶対的統治の元に「生産する家畜」であれば。
人間にとっても、それは良い事だろうから。
「魔軍幹部を焚き付けて、人界掌握の第一声をあげてもらうのだ・・・!」
魔王閣下に慈愛や優しさなど必要ない。あの小娘のもたらす甘やかな微笑みなど、魔軍を率いる魔王閣下には不必要なのだ。
ましてや、今までなら、侵攻してきた人間の遺骸を送り返すなど有りもしなかったのに。
戦に破れ、倒れた遺体は、魔獣のえさとなるが、常であったのに。
魔王閣下は、あの小娘の一言で、遺骸を返す事を決めたと言うではないか!
忌々しかった。
魔王閣下の心を占めるあの娘が、心底忌々しいと感じた。
我が敬愛する魔王閣下の側に、そんな腑抜けた輩がいることが。
冷徹で冷酷な、孤高の魔王閣下を、ただの男にしてしまう小娘が。
脅威だったのだ。
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夜も更けて、アルファーレン・カルバーンは自室へ戻った。
別に執務室で仮眠をとっても良かったのだが、なぜか、足が向いたのだ。
そっと扉を開け、静かな暗闇に目を凝らす。
夜目にも白い夜具が浮かんだ。大きなベッド。
足音もなく近付いて、そっと掌を夜具に滑らした。
滑らかな手触りは、今は冷たく。けれどもそれに違和感を覚える。
・・・いつもなら・・・
・・・いつもなら、何だというのだ!
ふと浮かんだ言葉をすかさず打ち消し、夜具に滑り込んだ。
体の右側が、寒かった。
とても寒かったのに、彼は、無理やり目を閉じた。
安らかな眠りは期待できないことくらい。
・・・アルファーレンには分かっていた。