ショート日本の歴史物語 藤原道長
「この世をば、我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思えば」
この歌は藤原道長が祝宴の時 即行で作った歌といわれています。
現代風に言えば この世は、私のためにあるようなものだ。
満月のようになにも 足りないものはない」と訳されます
が、後世、この歌だけが独り歩きをしてしまい、
藤原道長は高慢な権勢家としての悪いイメージが付きまとってしまいました。
時代は平安時代 生まれは万寿4年 西暦966年
藤原北家 摂政 関白 太政大臣 藤原兼家の五男として生まれます
頂点を極める道長ですが、五番目の男子ということで、
将来は適度な高級官僚で一生を終えるはずでした。
この平安貴族の時代。実力より家柄、および長子社会でもあり
長男が一族を束ねるのが常識でした。 もしこの一般的な常識が覆るとしたら
兄たちが、死亡する というこの一択しかありません。
更にその長男や次男に子供がいれば出世の優先順位は兄の後を継いだ子供が優先されます。
また更に、この時代、妻は一人ではなく、正妻の他に何名かの妻が存在し、
やはり正妻の息子が優先されます。
また、道長にとっての奇跡が続き、高級公卿になったとしても最後の難関、
道長の娘が天皇に嫁ぎ、次期天皇を生み、その生まれた子供が天皇になり
外祖父となり、摂政となって初めて頂点を極められるのです。
さてこの五男坊の道長 父、兼家が摂政になり権力を握ると栄達はしますが、
道隆、道兼という有力な兄がいたためあまり目立たない存在でした。
この時点では、正妻の三番目の息子ということで、まずまずのスタートを切ります。
しかし、他の家の公卿も上席にいますので殿上の公卿では末席レベルです。
道長の父、藤原兼家は当時、一条天皇の外祖父。
つまりは、娘を天皇に嫁がせ、その子供が天皇に即位したことにより
摂生関白太政大臣という頂点を極めた地位にいました。
父、道兼の死後。道長の一番上の兄、道隆が、後を継いで関白、摂生となり、
道長より8歳年下の道隆の息子伊周を道長より上席の内大臣に強引に据えます
この時道長は大きな挫折を余儀なくされています。
ところが、兄の道隆は酒の飲みすぎがたたり、糖尿病が悪化、重病に陥ります。
道隆は強引に息子の伊周を後任に据えようと画策しましたが、
これが当時の公卿や一条天皇の不興をかってしまい、のちに響いてきます。
反対に道長にとってはそのことが功を呼び込むのですが。
その大酒のみで体を壊した道隆が死去し、次の兄、三男の道兼が関白、藤原氏の長者に就きます。
ところが、なんとこの道隆、この時すでに病魔に侵されており、子もないまま就任して7日後に死んでしまいます。ここで初めて幸か不幸か、道長に道が開けてきます。
しかしライバルである道兼の息子、伊周との政争が繰り広げられることになります。
平安貴族は武家のように戦いで決するものではなく、重要になってくるのが
一条天皇の判断です。が、今回は一条天皇の母であり、道長の姉の東三条院が
半ば強引に弟の道長を押し、遂に一条天皇も道長の登用を決めるに至りました。
たぶん道長本人もまさか自分が と驚いていたのではないでしょうか。
この時弱気の道長に対し、姉東三条院が背中を押したようです。
道長にとっては、超奇跡の三連続というところでしょうか。
その後も道長と伊周の争いは続きます。 殿上、公卿たちを前にしての激しく口論になったりと和解はならず、焦った伊周の従者が都で乱闘騒ぎを起こす事件が発生。
一条天皇はとうとう伊周をあきらめ、道長に内覧を許し
次いで右大臣、藤原の長者となります。
さらに、伊周とその弟隆家が女性問題で花山法皇に矢を射かけるという重大事件を起こし
とうとう左遷され失脚してしまいます。
長徳2年西暦996年7月 とうとう廟堂の頂点である左大臣に昇進します。
次席の右大臣は藤原顕光、無能者として知られ朝廷の儀式においても失敗を何度も繰り返して、嘲笑を浴びていました。
しかし道長が左大臣の間は長年にわたりナンバー2として置いておきました。
なぜだと思いますか? 所説ありますが、私が思うには、
優秀な人物がすぐ下にいるといつ抜かれるかと心配が絶えないこと、
さらに、天皇や皇太子に娘を入れる場合も順位があり、顕光がいることにより
他のライバル公卿たちが二人を差し置いて出せないことが重要だったと考察します。
さて、あとは道長の娘を、天皇の后として皇室に送ることが重要になります。
道長の正室は源のマサザネの娘 倫子または、みちこ
源のマサザネは倫子を花山天皇の后にすることを強く望んでいましたが、道長の兄である
道兼の策動により退位してしまい、皇太子とは年が合わず迷っていたところに、道長が
求婚してきます。 マサザネは実力者の兄が二人もいて将来性がないと断ろうとしますが
妻の穆子またはあつこに相談すると、ここはもう女の感というのでしょうか、マサザネの反対を押し切り、強引に嫁がせてしまいます。
この正妻である倫子が産んだ娘たちが皇室に后として入り、将来の後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇を生みます。
すべての幸運を掴んだ男、藤原の道長 道長が政務を取っていた時代は一条天皇との対立や三条天皇との確執が言われますが、道長は決して一人で独裁政治をしたことはなく、
天皇、皇后、大臣、公卿とうまく連合して政治にあたっていたというのが事実に近いそうです。
寛仁カンニン元年 西暦1017年 3月 道長は摂政と藤原氏長者を嫡男である頼道に譲り後継体制を固めます。12月には従一位太政大臣に任ぜられ位人臣を極めますが、すぐにこれを辞退します。
栄華を極めた道長ですが、万寿4年西暦1028年1月 背中の腫物が原因で病没します。
享年62歳でした。最後は法成寺の阿弥陀如来の手と自分の手を糸でつなぎ、念仏を口ずさみながら往生しました。
最後に、初めの紹介した道長が速攻で歌を作った場面に戻ります。
ちょっと劇風に語ってみます。
ねえねえ、藤原のサネスケさん ちょっとちょっと こんな歌をつくっちゃったんだけど どうかな~サネスケさん 返歌をお願いできないかな でもちょっとこの歌でははずかしいかな
うわーなんだこの歌、こんなおぴらげな恥ずかしい歌に返歌なてはずかしくてできるかい でもな、面と向かっては言えんしなー
よーし こうなったら
道長様 これは素晴らしい あまりの素晴らしい歌でお返しの歌などわたしめには無理でございます。 いっそ お公卿の皆様方 道長様のこの素晴らしい歌を唱和いたしましょう さああ 皆様 行きますよ
うわー サネスケさん やめてくれ~ お^恥ずかしい
「この世をば、我が世とぞ思ふ 望月の はい!
かけたることも なしと思えば」