地獄の始まり
「じゃあ、来週は今日の講義の内容を踏まえてのディベートだから。今日の時間で準備できなかったグループは準備してこいよ。特に京谷、課題ができていないことが多い。このままじゃ、単位落としちまうぞ」
ゼミの講師は軽い口調で言っているが、結構深刻な問題だ。
ゼミは必修だ。つまり、単位を落とせば留年確定である。
「はい」
ミヤは興味なさげだ。
夜の大学に残ってまで真面目に取り組んでいたのが嘘のようだ。
あえて皆の前で警告してミヤに危機感を持たせようとした講師の作戦は失敗だな。
「たくっ。俺もできたら単位はやりたいからさぁ。けど未提出じゃ評価のしようがないからさ。頼むよ、本当。じゃあ、全員次回は頑張れよ」
講師が講義室を出た瞬間、ゲーセンにも負けないような喧騒が講義室を包む。
講義で溜まっていた会話できないストレスが解放されたからだ。
さて、ミヤには昨晩の話をもっと聞かせてもらわないといけない。
「なぁ、白洲このあと講義あるか?」
「ないけど、京谷さんに用事があるから遊びは無理」
「ちがうよ、しらっちゃん。次のゼミも近いからさ、ディベートの準備しないと」
四郎と政治の二人は今回のディベートでは同じメンバーだ。そしてミヤも。
「そっか。じゃあちょうどいいか」
いつもなら足早に教室を後にするミヤも今は座って本を読んでいる。急いで呼び止める必要もないだろう。
「あ! そうだ。さっきのリセマラの話で思い出した。リセマラ終わったの? ねぇ、終わった?」
四郎がにやにやしながら、俺に誇らしげにスマホの画面を見せてくる。そこにはアドミニストピアの呼び声の最高レアリティのアイテムが二枚映っていた。
「一応、終わったよ」
URのキャラ、イマンを当てられた。うれしさはある。しかし、昨晩の戦いぶりを思い出すとうれしいのか怖いのか複雑な気持ちだ。
「見せて見せて!」
「ちょっと待て」
カバンの中からスマホを取り出す。
「おい、なんだそれ?」
「え? スマホだけど」
「その金庫がか? いや、金庫に入ってるのは百歩譲っていいとして変なお札が大量に張られてたり鎖でぐるぐる巻きにされてるのはなんなんだよ?」
政治の顔が引きつっている。
ドン引きされるのは覚悟の上だ。
昨日スマホからあんなバケモノが出たんだ。このくらいの厳重封印は当然だ。
またバケモノが出てきたら危険だし。
「やっべ、今日のしらっちゃんはいつにも増してクレイジィだぜ」
「絶対着信音聞こえないだろ、それ。もはや携帯している意味がねぇ。すぐに取り出せないし」
なんとでも言え。
リスクに対する対策だったらとことんやるのが俺だ。
これだけは譲れない。
「よし、取り出せた」
スマホを手にするのは今朝、封印した時以来だ。
正直、今でもバケモノが出てくるのではないかと戦々恐々しているがいずれは確かめないといけない。
それに今朝からは全く音沙汰がないから、今は大丈夫だろう。もし、何かあったときは叩き割る。
「おい、その手に持ったハンマーはなんだよ?」
「一応念のために、ね」
「一体何が起こるっつぅんだよ」
政治が本気で怖がっているのを傍にスマホを起動する。
そして、アドミニストピアの呼び声を起動。
イマンを表示させる。
「あれ? イラストが表示されない」
ゲーム内でイマンは所持している。ステータスなどの詳細情報も出ている。
けど、イマンのイラストだけが空白だ。まるでそこにいないかのように。
バグか?
「うわ出たよ。これ困るからやめて欲しいね、全く」
「よくあることなのか?」
「よくなんてものじゃない。毎日だ。無料だったらわかるけど課金してるのにさぁ。課金分はサービスしっかりしてもらわないと」
「そんなに面白いのか?」
ゲーム自体はまだチュートリアルしかクリアしていないからまだ評価はできない。
昨夜の出来事がゲームの一環だとしたら正直面白いなんて言っていられない。
「僕もまだ初心者だから。けど、他のゲームとは一味ちがうね」
「あれだろ? クランの加入条件が毎日五時間プレイできて、特定の装備は絶対必須。リーダーの命令には絶対服従っていうやつだろ?」
クランっていうのはたしかゲーム内のチームみたいなものだったはず。
ていうか、何その軍隊。
嫌だよ。
「ははは。そんなの全然楽しくないし違うよ。このゲームはクランとかないし。まぁアイドルプレイヤーがいて、そのプレイヤーを信奉している集団とかならいるけど」
ファンクラブみたいなものか?
まぁ、俺には縁のないものだな。
「まぁ、とにかくリセマラ終了おめでとう。イマンは強いし、かわいいからうらやましいよ。わからないことがあったらいつでも聞いていいから。僕も初心者だから力になれるかはわからないけどね」
これではっきりした。このイマンがいることで昨晩の出来事が夢じゃないと証明された。
ゲームのキャラクターが現実に出てきて化け物と戦っていた、なんて二人に言ったら笑われるだろうな。
「そんなに面白いのか。俺もやるかぁ」
「いや、やめたほうがいいと思う」
正直、このアプリは得体が知れない。
四郎のアプリは普通のゲームのようだ。もし、俺と同じ目に合ってるなら平然となどしていられないだろう。
だからといって政治が俺と同じ目に合わないという確証はない。
「俺だけ仲間外れかよっ。だったら尚更やらねぇとなぁ。俺はお前とは違って運はいい方だからな。リセマラなんてやらずに一発勝負だぜ」
「そうだよ、皆で一緒にやったほうが絶対楽しいから。なんだったら、京ちゃんも誘おうよ! おーい京ちゃーん!」
四郎はコミュニケーション能力が高く、だれとでも仲良くなってしまう。
まぁ、唯一の例外がミヤなのだが。
「うらやましいな」
ミヤを親し気に呼んでいる四郎を見て思った。
そうこうしてるうちにミヤが四郎に呼ばれてやってきた。
「何?」
「京ちゃんも一緒にやらない? アドミニストピアの呼び声っていうゲームなんだけど?」
「やらない。話はそれだけ? なら私は次の講義の準備があるから」
ミヤはそっけない態度を取る。
正直、皆にこんな態度を取っていて声をかけるのが怖かった。今まで声を掛けられなかったのはそういう理由もある。
俺にだけは昔のよしみでまともな態度を取ってくれているようだけど。
「おい、待てよ。この後、ディベートの準備するからお前も来いよ」
どうせ断られる。政治の投げやりな口調はそう物語っていた。
「……白洲くんは来るの?」
「ああ、行くつもり。だけどこの後講義があるなら別の日でもーー」
「だったら行くわ」
即答だった。
有無を言わせない迫力に政治と四郎も黙ってしまった。
「えと、本当にいいのか?」
「行く、絶対に」
ミヤの大きな瞳に見据えられて呆気にとられた。
四郎と政治もミヤの態度にぽかんと口を開ける。いつもすべてのことに興味なさげなミヤが見せる強い執着心。
本来なら、ミヤが俺に興味を持ってくれていると喜ぶところだ。
けど、中学の時のことを思い出すと怖い。無視されているミヤを助けようとさえしなかった。それは友達として許されないことだろう。
ミヤは俺のことを許してくれたと言う。けどその言葉が信じられない。
「そうか。じゃあ、ここにいてもしょうがない。図書館にでも行こうか」
全員、荷物をまとめに席に戻っていく。
俺も準備を始める。
今は何時だろう、ふとスマホを見た時だった。
『チュートリアルイベントが開始されますーークリア条件:イベントボスの討伐』
画面にはそう表示されていた。
その時、
「ーーーーーー」
言葉にならない悲鳴。周りは誰も気づいていない。
人や動物じゃない。なんといえばいいかわからない。けど確かに聞こえた。
そして次の瞬間、大きな揺れが講義室を、大学全体を襲う。
「地震か?」
誰かの言葉を皮切りに悲鳴が上がった。
講義室から逃げたり、混乱してその場で動けない人がいたり。
俺は咄嗟に机の下に隠れた。
「揺れが大きい! 怖い、怖い怖い怖い」
窓はミシミシと音を立てて歪み、窓ガラスは割れる。
遠くでは何か物が落ちて割れる騒音が絶え間ない。
俺が隠れている机も地面に固定されているはずなのに、外れそうな程歪な音を立てた。
あちこちからの大きな音に怯えながら、俺は机の脚にしがみついて耐えることしかできない。
程なくして揺れは収まった。
「ミヤは、他の皆は大丈夫か?」
地震は一回収まっただけでは安心できない。机の隙間から周りを伺った。
「い、いやぁぁぁぁぁ!」
その悲鳴の元は俺が覗いた先にあった。
居たのではない。あったのだ。
化け物に襲われる女子生徒。全身が赤で塗りつぶされた異様な風体。形だけで見るなら巨大な犬だ。ただし、獰猛で異常に発達した牙がついている。
襲われた女子生徒はすでに物言わぬ躯となっていた。俺の目の前で。
化け物と目が合った。
「ひっ」
反射的に机の下から出てバケモノから逃れようとする。
「化け物がいっぱい……」
いつのまにか、姿かたちは違えども同じように全身を赤で塗りつぶされたバケモノたちが複数講義室に現れていた。
何の前触れもなく、唐突に。
「なんだよ、これはっ!」
大学が、安全だと思っていた日常が阿鼻叫喚の地獄という名の非日常に変わった瞬間だった。
「ははっ。やっぱり昨日のことは夢じゃなかったんだ」
「危ないっ。白洲!」
突然突き飛ばされる。
政治がクマのようなバケモノから俺を庇ってくれたのだ。
「政治!」
「逃げろ!」
目の前で政治がクマ型のバケモノに押し倒されて下敷きになる。俺を庇って。
スマホだ。昨夜の力を使えればこんなバケモノは雑魚だ。
ポケットのスマホに手をかけようとした時、手首を掴まれた。
ミヤだ。
「一緒に逃げよう! 早く!」
「けど政治を、他の皆を助けないと」
俺には力がある。だったら得体のしれない力だろうとなんだろうと使うべきだ。
「他なんてどうでもいい。白洲くんさえ助かれば後はどうなろうが構わない」
そのあまりの物言いに絶句した。
ぐちゃという嫌な音がする。見ると政治がバケモノに頭部を踏みつぶされたのだ。
「あ、ああ! 政治っ」
「政ちゃん!」
四郎の声もする。政治が殺される瞬間を見てしまったのだろう。
バケモノと目が合う。バケモノ口元がにやっと三日月のように歪んで笑った気がした。
「食われる」
ミヤが強引に俺の手を引いた。
化け物と得体のしれない力を使うことへの恐怖で迷っている俺には、迷いのないミヤの手を振りほどくことはできなかった。
俺とミヤは講義室を駆け抜ける。
バケモノに襲われている皆を見捨てて。
運がいいのか悪いのか、講義室の外にはあっさりとたどり着いた。
「とにかく外へ逃げよう。白洲くん、大丈夫?」
「だい、じょうぶ。行ける」
後悔しても遅い。もう皆を見捨ててしまった。後ろを振り返ったらきっと俺も死ぬ。
死ぬのは嫌だ。
とにかく外に出ないといけない。経済学部棟は建物としては広いが中に居たら逃げ場がない。幸い廊下にはバケモノがいない。他の講義室から命からがら出てきた生徒が多くいた。
今、外に出るには大教室棟に行く必要がある。
大教室棟への道は人で溢れていた。
このままでは、講義室内にいるバケモノが獲物を求めて出てきたら逃げ場がない。
困ったことになった。
「階段で下に降りよ」
「確かに人は少ないけど、外に出られない」
「ここは五階だから無理だけど下に行ったら窓から逃げられる。それに一階の入り口は工事をしているだけだから強引に外に出られるわ」
ミヤは驚くほど冷静で機転が利いていた。
対する俺は言われるがまま逃げるしかない。友達を見捨てることしかできない自分に腹が立った。
「わかった。行こう!」
「それはそうとして、このままじゃ逃げられないよ」
「え? どうして?」
「手」
ミヤが恥ずかしそうに俯く。
俺は不安と恐怖から無意識にミヤの手を強く握ってしまっていたようだ。
「ご、ごめん!」
慌てて手を離した。
情けない。さっきから助けられっぱなしだ。
「いいよ、こんな状況だもの。仕方ないわ」
少し名残惜しそうにしているのは気のせいだろうか。
いや、今はそれどころじゃない。
「急ごう」
「うん」
階段は大教室棟よりは人はいないが、それでも二階までたどり着いた時には人で溢れていた。
急ぎすぎて階段を踏み外したのだろう。
踊り場で痛みに顔を歪めながらうずくまったり、恐怖で腰が抜けてその場で座り込んでいる生徒もいた。
そんな混乱の中ではとてもじゃないが一階には降りられそうにない。待っていたらいつバケモノに襲われるかわかったものじゃないし。
「窓から逃げよう。二階からなら降りられるはずだ。大丈夫?」
ミヤの右足に巻かれたハンカチが血に染まっている。走っている内に昨夜の傷が開いたのだろう。
「大丈夫だよ」
気丈にもミヤは笑顔を浮かべる。なんとしてもミヤだけは助けないと。
今度は逆にミヤの手を引いて先導した。窓はすぐそこ。幸い、階段のような渋滞はない。窓はすでに開かれていた。同じ考えをした生徒がすでに使ったのだろう。
これでとりあえずは外に出られる。そう思った時だった。
「白洲くん、先に窓から降りて」
「え?」
後ろを振り返るとそこには血塗られたゴリラのようなシルエットをしたバケモノがいた。
窓は講義室の扉のすぐ傍にある。その扉からは続々とバケモノたちが出てきていた。
中の獲物を狩りつくしたからとうとう外に出てきたのだろう。
「だめだ。ミヤが先にーー」
「ごめんね」
言い終わる前にミヤが俺を突き飛ばした。
落ちる寸前に見えたのは、バケモノに飛び掛かられているミヤの姿だった。
「ミヤー!」
成す術もなく落ちていく。
こうして俺の地獄のような非日常が幕を開けた。