怠惰な二人だけの世界
静かだった。
物音ひとつ聞こえてこない静かな時間。テレビなど、もうどれくらい見ていないんだろう。スマホもだ。彼女に取り上げられてしまい、誰かに連絡を取ることすらおぼつかない。
もしかしてずっとこのままなのではないだろうかという、嫌な想像が頭を巡った。
早く、早く、誰か助けてほしい。
今すぐこの孤独から開放してくれ。
もうこの際誰でもいい。
たとえそれが――
ガチャリ
「ただいま、みーくん」
僕を監禁した、幼馴染だとしても
「いい子にしてた?みーくん」
「あ、やの…」
優しい顔をした僕の幼馴染、霧島綾乃がゆっくりこちらへと近づいてくる。
警戒心などまるでない、穏やかな足取りだ。
当然だろう、今も僕の両腕はきつく縛られているのだから。
抵抗する気力も、初日でとうに消え失せていた。
綾乃は僕の前で座り込み、目線をこちらに合わせてくる。その目は情欲に塗れ、淀んでいるように僕には思えた。
そのまま両手で僕の頬をつつみ、ゆっくりと顔を寄せてくる。
僕の瞳をじっと見つめたまま、いつものように唇が重なった。
「ん…ちゅっ……」
「んぐ…うぁ……」
「あっ…ぷはっ……ふふっ、いい子にしてたんだね、えらいえらい」
「はぁ、はぁ…」
いつもながら深いキスだ。舌も強引に絡ませてきて、息継ぎもさせてくれない。
それは綾乃も同じはずなのに、彼女はまるで辛そうな素振りを見せることがない。
綾乃は心の底から、嬉しそうに笑っていた。キスをしたことでひとまず満足したのか、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ今からご飯の準備するね。ちょっとだけ待ってて」
「あや…」
「すぐ戻ってくるから、みーくんはベッドの上で待っててね」
そう言って綾乃は僕の頭を撫でてきた。愛おしそうに、愛でるように。
「ふふっ、みーくん。かわいい…もう一度だけ…」
「んっ……」
「…ふー……ふー……ん、んんっ…ぷはっ……」
「う、あ…」
「好きだよ…みーくん…大好き……」
「ずっと…ずっと一緒だからね……」
なんでだろう。なんでこんなことになったんだろう。
霞がかった頭で僕は必死に思い出す。あれはそう、確か三日ほど前の、僕の誕生日の日に……僕は……。
私は幼馴染の水瀬湊くんのことが好きだ。
その自覚が芽生えたのはつい最近のことだけど、この気持ちは誰にも負けることはないと思っている。
だけどこの恋を実らせるには、ある障害があったのだ。
それは湊くん…みーくんには、既に彼女がいるということ。
高校生になってすぐに、彼は同級生の女の子と付き合い始めた。
そのときはすごく悲しかったけど、私はこの気持ちがなんなのか、まだ分からずにいたのだ。もうひとりの幼馴染の子に相談もして、みーくんに彼女ができたことは喜ばしいことなのだから祝福しようと結論を出し、その場ではなんとか自分を納得させた。
でも、それからある事件が起きて、私は自分の本当の気持ちに気付くことができたんだ。
それからは積極的にみーくんにアプローチをかけた。
自分からキスをして、強引にみーくんのファーストキスを奪ったり、女の子として意識させるように頑張ったりもしたのだ。
その反動か、私はみーくんとキスをすることが大好きになってしまった。
キスするだけで心が満たされる。とても心が暖かくなる。彼と繋がることができた気がする。
みーくんの彼女さんには悪いとは思う。良い子だとも思うし、綺麗な人だ。みーくんが好きだということは、彼女を見ていればよくわかる。
でも、私のほうが絶対にみーくんのことが好きだ。それにかわいさなら、絶対私のほうが上のはずだ。
だから、彼女が私に優っているところがあるとすれば、みーくんに先に告白したという、ただ一点のみ。
それだけでみーくんの彼女に収まった佐々木さんが、邪魔だった。
――学校が終わって、一緒に帰ることがなくなった。いつも一緒に帰っていたのは、私達なのに。
私と一緒にいない時間が、増えた。
――ゴールデンウィーク、佐々木さんとデートに出かけた。いつも一緒に出かけてたのは、私達なのに。
そのことを、私に教えてくれなかった。
――私の知らない顔をするみーくんがいた。いつも一緒にいたのは、私達だったのに。
今日も佐々木さんと一緒にいて、楽しそうに笑っていた。
胸が苦しかった。その痛みの理由がわからなくて辛かった。
みーくんの気持ちが離れて行く気がして、嫌だった。
だから私は行動を起こした。
幼馴染の関係から、踏み出そうとした。
たとえそれが、みーくんから嫌われることになったとしても、私は彼との関係を変えたかったのだ。
そして私たちの関係は、実際に変わることができた。
みーくんは私のことを意識してくれるようになったのだ。そのことがただ、嬉しかった。
だけど、すぐに思ってしまう。
―――足りないと。
もっと彼に意識されたい。彼からもっと愛されたいと、そう思った。
私は自分が思っていたよりもずっと、欲深い人間だったようだ。
佐々木さんがとにかく邪魔だった。
みーくんは、私のものなのに。
そんな気持ちを抱えたまま時間が過ぎたある日。
たまたま佐々木さんとみーくんのデート現場に居合わせた私は、二人の邪魔をすることにした。
二人共気弱な性格で、断れない人たちであったというのもあるだろう。
デート中、常に二人に付きまとい、二人きりの時間を作らせなかった。
帰り際に恨めしそうな目を、佐々木さんはしていた。
嫌な女だなと自分でも思う。
だけど、胸がすく思いがしたのも確かだった。
本当にどうしようもない。
だけど、この恋だけは譲れなかったのだ。
佐々木さんは美人だ。
きっとすぐに新しい恋人も見つかるだろう。彼との恋も、きっとすぐ思い出に変わるはずだ。
だから、ねぇいいでしょう?
私にみーくんをください。
お願いだから。他のものならなんでもあげるから。
みーくんだけは、私から取らないでください
日増しに彼への想いが募っていく。
止められない、止めようのない気持ちだけが重なっていく。
もっともっとみーくんと一緒にいたかった。
ようやく二人きりになれたことで浮かれていた私は、そのまま彼の家にまで一緒に帰ることになる。途中で買い物までして、ちょっとしたデート気分でもあった。
佐々木さんのことは、完全に頭から追い出していた。
そんな舞い上がっていた私には、すぐに罰が下ることになる。
もうひとりの幼馴染が、私の前に立ちはだかったのだ。
その女の子―月野渚ちゃんもまた、みーくんを好きだと私に告白してきたときは、頭を殴られたような衝撃を受けた。
絶対に勝てないと、私の中で思っていた子だった。
とても綺麗な金色の髪と大きな胸に抜群のスタイル。誰とでもすぐ仲良くなれる天性の明るさと魅力。顔だってすごく綺麗。実際に芸能事務所にもスカウトされたことのある、華のある女の子。
―――そしてなにより、大切なもののためならどんなことでもできる怖さ。大切なものと別のなにかを天秤にかけ、後者を切り捨てることのできる子だった。
それでも、負けたくなかった。譲れないと思った。
幸い、彼女はまだ動いてはいない。私のほうがリードしている。私のほうが、彼から意識されている。
そう自分に言い聞かせて、誤魔化しながら過ごしていたある日。
私は見た。見てしまった。
渚ちゃんが、みーくんとキスをしている瞬間を。
―――なんで?
そんなの、おかしいよ。
だって、渚ちゃんなにもしてないんだよ。私はみーくんに意識してもらおうと、みーくんに嫌われる覚悟をして、頑張ってキスもしたのに。
―――なんでなにもしてない渚ちゃんが、みーくんからキスをされようとしているの?
二人の顔が近づいていく。
私はその顔に触れるためになけなしの勇気を出したのに。
踏み出すことすらしていない渚ちゃんが、みーくんから触れられようとしている。
―――そんなの、許せない
許せないのに、私にはもう止められない。
やがて二人の鼻先が触れ合って、顔を赤らめていた渚ちゃんが受け入れるように目を閉じた。
みーくんのピンク色をした唇が、渚ちゃんの唇にもうすぐ重なろうとしていた。
その唇の柔らかさを知っているのは、世界で私だけなのに。
―――やめて
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてよっ!
だけど私の叫びはあの二人には届かない。そもそも私は口を開くことすらできなかった。
私の心は抱き合った二人を見て、とっくに砕け散っていた。
動けない私は、ただ二人の影が重なるのを、涙を流して見つめることしかできなかった。
―――許さない
その感情だけが、私に残ったものだった。
それから少し経って、ある機会が訪れる。
私はその機会を逃すつもりはなかった。だから実行した。彼を自分のものにするためには、もうこの手段しかないと思ったのだ。
なぎさちゃんには絶対に負けたくない、佐々木さんにも譲れない。
そうだ。みんな邪魔だ。邪魔なんだ。
みーくんには私だけを見て欲しい。その唇の柔らかさを知っているのは、私だけでいい。そうだ、今思えばみんな邪魔だった。
みーくんには私が、私だけがいればいいのだ。
みーくんの誕生日の日。私は彼を監禁した
仄暗い満足感と愉悦が、そこにあった
綾乃はあの日、僕を縛り付けた。
僕の部屋まで強引に連れていかれた後、家にあったロープで両手の手首と足首を拘束され、ベッドの上に転ばされて今に至る。
彼女が外出する時などは椅子に縛られ、口にガムテープまでされる念の入れようだ。スマホは早々に取り上げられて、連絡は僕に成り代わって綾乃が全て行っている。部活や友人関係も差し押さえられ、どうにもできない。
合鍵の場所も聞き出され、外部からの手助けも期待できそうになかった。
鉢植えの下という、ある意味分かりやすい場所においていたのだがこうなっては無理だろう。
初日に強引に僕をねじ伏せ、泣きながら拘束してきた綾乃のことを思い出す。
今思えば全力で抵抗したら、振り切れていたかもしれない。だが、あの時の綾乃には鬼気迫るものがあった。追い詰められた人間の凄みがあったのだ。
縛り付けた僕にごめんなさいと謝りながらも離そうとしない彼女に、僕は聞いたのだ。そんなに僕が好きなのかと。彼女は無言で頷いた。
また僕は聞いた。こんなことをしたらもう元には戻れない、全部捨てることになってもいいのかと。彼女はまた頷いた。もうどうにもならないのだと、僕は悟った。
「…わからないよ」
僕は呟いた。なんでこんなとこになった。
綾乃とはいろいろあったけど、遊んだり、冗談を言い合ったりできる幼馴染として、これまで接してきたつもりだ。
確かに綾乃のことは大事だと、そう思ってる。だけど、なんでこんなことになるんだよ…
「一週間…」
「え…」
「夏休みが終わるまでなんて言わない、この一週間だけでいいから…」
「私だけのみーくんに、なってよ」
それだけ言って、綾乃は僕の唇を奪った。
どことなく塩のような味がする。涙の味だ。
「ん…」
舌舐めずりの湿った音と熱気の籠った荒い吐息を、僕に押し付けるように、そして貪るように彼女はキスをし続ける。
「ぷはぁ…えへへ」
ようやく終わると綾乃は僕と目を合わせ、幸せそうに微笑んだ。これ以外の幸福なんて忘れ去ったかのように、空っぽで満たされた笑みだった。
それを見て、僕は抵抗するのを辞めた。もうどうしようもないことを、僕は悟った。
「えへへ…ご飯美味しかった?みーくん」
「…ああ」
あれからずっと綾乃は僕に抱きついてきた。ベッドでふたり寝転がるようにずっと怠惰な時間を過ごしている。
たまに部屋から出て行っても、戻ってきたらまた僕に抱きついてくる。
「みーくん…キスしよ…」
「ん、んぅっ…」
そして始終キスを求められる。舌を入れられて貪られるように、体を押しつけられながら唇を奪われる。
だけどそれ以上の行為はまだしていない。それだけが救いだった。
ご飯時になれば食事を用意され、綾乃が僕の口へと料理を運ぶ。調理以外の時間で家にいるときは、片時も僕の傍から離れようとしなかった。
そして夕ご飯が終われば濡れタオルで体を拭かれ、綾乃が僕と同じベッドに入り就寝する。そんな日を、もう二日程続けていた。
綾乃は家には時折帰っているようだが、僕の家に泊まっていると彼女の両親には説明しているようだった。長年築き上げてきた信頼が、今はただ恨めしい。
「ぷはぁ…えへへ、気持ちよかったね」
キスが終わると綾乃は僕の目を見つめ、幸せそうに微笑んだ。最近はキスをすると、ずっとこうだ。
「んふふ…みーくん…私だけのみーくんだ…」
そして顔を胸に埋めるようにすりつけ抱きついてくる。縄張り意識のようなものだろうか。正直この行為に嫌悪感は沸かない。それどころか、悪くないとすら思えるようになってきていた…僕もこの異常な状況に置かれて、おかしくなってきているのかもしれない。
だけど、この状況が異常だと思えるだけの判断力は、まだ残されているのだ。
それだけが救いだった。
「ねぇ綾乃」
「なに、みーくん?あ、もう一回する?」
「…いや、違う」
「じゃあ、お腹すいたの?ご飯足りなかった?なにか持ってこようか?」
「それも、違う」
「?じゃあなに?」
綾乃は首をかしげている。その仕草をかわいいとすら思えるようになってきてるあたり、既にまずいかもしれない。僕は少し下手にでてみることにした。
「あのさ、僕そろそろ外に出たいんだけど」
「…いいじゃない、別に。もっと二人きりでいようよ」
「でもさ、体にも悪いし…渚や夏葉さんもきっと心配して――んぐっ」
言葉を続けようとした僕を、強引に綾乃が唇で塞ぐことでせき止めた。
そのまま口内へと舌を差し込んでくる。
「ちゅっ…んん…」
「つっ…ぷはっ…あ、綾乃」
「……今はその二人の名前、言わないで」
「え…?」
「ここにいるのは私とみーくんだけなんだから。他の子の話はしないで」
そう言って綾乃は僕を睨んでくる。その瞳には、嫉妬の炎が見え隠れしていた。
「今みーくんは私だけのものなの…そして私も、みーくんだけのもの」
「だから、今は他の子の話なんてしないで」
「綾乃…」
この二日間もなんとか綾乃を説得を試みていた。だけど全て徒労に終わったのだ。今回もそうなるらしい。
うちひしがられる僕を見て、綾乃は悲しそうな顔をして謝ってくる。
「…ごめんなさい」
「…今更だよ」
そうだね、と綾乃は小さく呟いた。
「……もう一度、キスしようよ。みーくん」
「……」
「お願い…」
今にも泣きそうな顔をする綾乃を見て、僕は小さく頷いた。
そしてまたキスが再開される。この行為が何度目になるのか、もう覚えてもいない。
「…いなくならないでね、みーくん…私だけの…」
僕は舌先から伝わる感覚と、切り離された頭の片隅で、二人への言い訳をどうしようかなどと、まるで今の状況を他人事のように扱いながらどうにもならない考え事をしていた。
そしてもう一方でいつもより少し幼く感じてしまうような、こんな不安定な綾乃を見捨てられるのかという考えも、頭の片隅で芽吹いていた。
「ん…みーくん…」
今綾乃は、僕にもたれ掛りながら眠っていた。僕の体から腕を離さないようにしながら、強く腕を組んでいる。
初日で徹夜したのがたたったのか、綾乃は夜中に眠り昼手前に起きるようになっていた。僕もそれに合わせて、というより合わせなければならないので同じ時間に眠っている。
だけど、この縛られているという状況下でストレスでも溜まっているのか、あまり長時間眠る事は出来なかった。
そのため、綾乃よりも早く起き、どうしようかと考えたり、綾乃の無邪気な寝顔を見て時間を潰すようになっていた…そしてこの時間が、僕を一番狂わせている。
起きている間は否応無しに綾乃は僕を求めるのに、寝ている間はそんな事を忘れてしまう程無垢な顔で眠るのだ。その顔はどこか、小さかった頃の綾乃を思い出させるものだった。
そんな姿を見ると…不思議と嫌いだとかおかしいだとか、そういう感情は湧かなくなってしまった。
僕の事が形振り構わず好きで、全てを捨てることになっても僕を求めてくる姿が、可愛らしく感じるようになってきている。
情が移りかけているのだと思う。元々ずっと同じ時間を過ごしてきた幼馴染だ。性格もよく知っている。実際悪い気はしなかったし、何より今までの綾乃の行動すら肯定し始めていた。こんな事をする程、僕が好きなのだと。それが……嬉しくもあったから。
「あ…おはよう、みーくん」
「おはよう、綾乃」
「うん…えへへ、みーくんがこんなに近くにいる…」
挨拶を返すと、何が面白いのかわからないが綾乃は笑う。幸せそうにしながら、体を僕に擦り付けてきた。
「みーくん、おはようのキスをしよう」
そう言ってまたキスをせがむ。そろそろ口臭などが気になってくる頃だったが、言えなかった。僕はただこの子の行為を受け入れるだけだ。
今日もゆっくりと唇が重なった。
「ぷはっ……じゃあ朝ご飯作るね。すぐ戻るから待ってて」
そう言って綾乃はベッドから起き上がろうとするが、その時遠くからインターフォンの音が聞こえてきた。その音に綾乃はすっと目を細め、立ち上がる。
僕はぼんやりとしたまま、その姿を見送っていた。
実をいえばうちのインターフォンが鳴るのは昨日今日のことではない。
初日から何度か鳴っており、その度に綾乃が対応していたのだ。
その時はガムテープで口を塞がれており、声を出せなかったが、慌てていたのか今日の僕は口が聞ける状態だ。体力は落ちているが、叫ぶくらいはできるだろう。
そうして助けを求めれば、きっとこの状況が終わり、僕は開放される。されるけど。
(そうしたら、綾乃はどうなる…?)
きっと警察に捕まるだろう。そして学校も退学になり、彼女の人生も終わる。
犯罪を犯したものの、分かりきった末路だった。
綾乃に、そんな未来への引導を、僕が渡すのか
急に心臓がバクバクし始める。どうやら僕にはまだ正気な部分が残っていたらしい。結論が出せず、結局僕は声をあげることができなかった。
「はい、みーくん。あーんして」
「…あーん」
僕は綾乃が作ったパンケーキを頬張った。それを見て彼女はまた嬉しそうに微笑む。元々世話好きではあったが、綾乃にこういう事をされるというのが未だに慣れない。いつもとのギャップというか…何がここまで綾乃を変えたのかと疑問を抱かずにはいられないのだ。
まぁ、僕が変えたんだろうけど。
「美味しい?みーくん。飲み物も飲む?」
「あ、うん」
そう言ってストローを通したオレンジジュースを飲ませてくる。甲斐甲斐しいというのか何と言うか…本当に介護されているみたいな気分だった。
「じゃあもっと食べようね。はいどうぞ」
…やっぱり分からない。
綾乃の不安定な笑顔から、濁り、淀み始めた瞳から…僕はどんどん目が離せなくありつつある。
僕は、どうすればいいんだろうか。
食事が終わった僕らは、またベッドで横になる。チラリと見た窓の外は曇り空だ、
また退廃的な時間が流れようとしていた。この時間はどうも時間の流れがゆっくりなように感じてしまう。
考え事をしていると、綾乃は僕の胸に顔を擦り付けてきた。ちょっとくすぐったい。
「…なにしてるの?」
「うん…みーくんの匂いを嗅いでるの…嫌だった?」
「嫌というか…お風呂入ってないし、夏だし。臭いでしょ」
体臭に関しては自分ではイマイチ分かっていない。寝る前に体を拭かれはいるが、今は夏だ。汗だってかいている。だが、構わないとでもいうように、綾乃はなお僕の胸に顔を埋めてきた。
「ううん、この匂い。とっても落ち着くんだ…」
「そっか…」
「うん…」
ポツポツと雨音が聞こえてきた。どうやら本格的に雨が降りつつあるらしい。
「ねぇ、みーくん」
「ん?」
「みーくんは、私の匂い好き?」
「…良い匂いだと思うよ」
「そっか…えへへ」
僕が褒めると綾乃は無邪気に笑う。それだけで笑ってくれるし、僕に甘えるように擦り寄ってくれる。好意を全面に押し出し、子供のように無防備だ。
それを悪くないと思ってしまう。
いや、嬉しいと思うように、なってしまっている。
「みーくん、温かい…」
今も幸せそうに笑う、彼女のことを。
窓の外で、雨が強く降り始めていた。
…この一週間が終わったら、僕らはどうなるんだろう。
分からない。分からないけど、綾乃が何処か遠くに消えてしまいそうな気がする。二度と会えないんじゃないかって、そんな気がする。
僕が綾乃から離れたその瞬間、この子は萎れて枯れてしまうんじゃないか。そんな風に思ってしまう。
どうすれば良いんだよ。
綾乃を現実に引き戻すのか? それとも、このまま綾乃を受け入れれば良いのか?
…どっちを選んでも同じだ。こんな風になって元に戻れる訳ないんだ。もう仲の良かった幼馴染には、戻れないんだ。
ここから出た外の世界で以前のように、綾乃が僕の傍にいてくれる…そんな光景が全く思い描けない。
この部屋の中で、目を覚ましている間はキスをして、そうじゃない時は僕を見てただ微笑んでいる。それだけしか、もう思い描けなくなっていた。
どうすれば良かったんだ。
どこで僕は、間違ったんだ。
「…くん。みーくん、どうしたの?」
「……」
「みーくん!」
「っ…あ、ごめん、綾乃。ちょっと考え事してた」
思考の渦にハマりつつあったところで、僕は強引に現実へと引き戻された。
綾乃の頬は膨れている。機嫌を悪くしてしまったようだ。
「…なに、考えてたの?」
「え、と…それは…」
僕を訝しがる時の目も、不安で濁って見える。あの二人の事を考えてるのではと邪推でもしてるのだろうか。今の綾乃は不安定過ぎるように思えた。
ずっと傍にいるのに、彼女との距離がとても遠く感じてしまう。この子が一体誰なのかわからなくなってくる。
本当にこの子は、僕とずっと一緒に過ごしてきた幼馴染なのだろうか?
いつも優しく、穏やかな顔で微笑んでいた少女が、僕のせいでこうなってしまったのか?
僕が綾乃を壊してしまったのか?
……頭がおかしくなりそうだ。考える時間だけはいくらでもあるのに、もうなにも分からない。
「なんでも、ないんだ…なんでも…」
「そう…でも、いいよ。みーくんはずっとそばにいるものね」
綾乃は笑った。だけど、その笑顔が僕にはもう、全て痛々しく見えて仕方なかった。
僕は、もう―――
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン
また遠くでチャイムの音が聞こえた。この一時間ほど、ずっと家の中で鳴り響いている。
だけど、それをかき消すような雨音と、僕らの口内で淫らに絡み合う唾液の粘膜が奏でる音が、この空間を支配していた。
「んぐっ、ぷはっ」
「はぁ、はぁ…ふぅ…」
もう何回したのかも分からないキス。
ずっと続く胸の痛み、綾乃との思い出。綾乃の笑顔、綾乃の目。
綾乃、綾乃。
なんでだろう。なんで綾乃を見るだけで、こんなに切ない気持ちになるのだろう。
綾乃は、僕にとって、こんなにも…
「みーくん」
「…なに?」
「ううん…えへへ、名前呼んでみただけ。ちょっと憧れてたんだ…」
「そっか…」
綾乃がすごく可愛く見えた。その全てが、愛おしく思えた。
「綾乃…」
「なに?」
「僕も、呼んでみただけだよ」
「…ありがとう、すごく嬉しい…」
…そうだ、綾乃だ。この子は僕の知っている綾乃。とてもかわいい、ずっと一緒にいた幼馴染だ。
だから、どうしてもしたいことがある。そのためには、この縄が邪魔だ。
僕は綾乃にお願いをすることにした。
「綾乃、ちょっといいかな?」
「ん?どうしたの、トイレ?」
「この縄を、解いてくれないかな」
綾乃はすっと目を細める。またそれかという目だ。僕を信じきれていない目。
大切な子からそんな目で見られることに、僕は耐え切れなかった。
「逃げたりなんてしない。絶対離れたりなんてしない。誓うよ」
「…嫌だ」
「お願いだから。これを解いてくれないと、おかしくなりそうなんだ。僕は今綾乃を抱きしめたくて、たまらないんだ」
綾乃はなにも言わずに考えこんでいる。そんな綾乃を、僕は信じることしかできない。
僕は綾乃を見つめ続ける。やがて彼女はゆっくりと口を開いた。
「…本当に、逃げたりしない?」
「うん」
「どこかに行ったりしない?本当に私を抱きしめてくれるの?」
「うん」
「本当に?」
綾乃は濁った瞳で僕の目を覗き込んでくる。
僕を信じたい、でも信じきれない。そんな不安が見て取れた。
僕は力強く頷く。その時彼女の瞳に映った僕の瞳も、濁っているように思えた。
「頼むよ、綾乃」
「…わかった、信じるよ」
そう言って綾乃は拘束を外しにかかる。数分もしないうちに足首が解かれ、手首も自由になる。
僕はそのまま自由になった腕を広げ、綾乃のことを抱きしめた。
もう離さないよう、強く、強く。
「…みーくん?」
「綾乃、だよね」
「えっ?」
「ここにいるのは、僕の知ってる綾乃だよね?」
僕の声は震えていた。泣いていたかもしれない。
そんな僕を綾乃は抱き返してくれて、背中を優しく撫でてくれる。
「うん、私だよ。みーくんの知ってる霧島綾乃だよ」
「そっか…そうだよね。綾乃は、ここにいるんだ」
そうだ。この子は綾乃だ。
僕と今まで一緒に歩いてきてくれた子。僕のもっとも大事な人。
僕の、好きなひとなんだ。
僕はもう一度強く綾乃を抱きしめた。
「もっと強く抱きしめてくれていいんだよ…」
「うん…」
綾乃は優しくそう言ってくれる。穏やかな声で、そう言ってくれる。
「私はずっとみーくんと一緒にいるから。これまでも、これからも、ずっと一緒だよ」
「うん、僕らはずっと一緒だ」
綾乃はここにいる。優しく僕を受け入れてくれる。
僕らは全てさらけ出し、肌を重ね、やがてひとつになっていく。
雨音ももう聞こえない。ここは僕らだけの世界だった。
でも…
綾乃はここにいるけど、僕はどこにいるんだろう
溶けていく思考の中で、何故か僕はそんなことを思ったが、その考えも綾乃の嬌声でかき消され、やがてゆっくりと消えていった
「湊!綾乃!いるんでしょ!でてきてよ!」
あたしは必死に湊の家の玄関を叩いていた。
誕生日の日からふたりにもう何日も会えていない。
あの日湊から風邪を引いたと連絡があったため、残念に思いながらもおとなしく引き下がったが、あの日から綾乃とも連絡が取れなくなったのだ。
最近はいろいろあったためそういうこともあるかと思っていたが、どうにもおかしい。
何度かお見舞いに訪れたし、スマホで連絡もしたのだがまるで返事がなかった。
隣にいる夏葉も、心配そうに声をかけてくる。
「やっぱり、どこかに出かけているんじゃないでしょうか。ここまでしてなんの反応もないのは変ですよ」
「…いるよ。絶対に」
いつも鉢植えの下に置いてある合鍵がないのがその証拠だ。
この前確認したが、その時既に置いてなかった。間違いなく誰かが回収したのだ。
その人物の心当たりは、ひとりしかいない。
「綾乃…!」
あたしは歯が砕けんばかりに噛み締める。
やられた。強攻策に出たのだ。ここまで強引な手を使うとは思わなかった。
なにが彼女をそうさせたのか、心当たりがない。
夏葉にもないようだったが、間違いなく綾乃は湊とともこの家の中にいる。
連絡が取れなくなってもう一週間が経つ。
その間二人がずっと同じ空間で過ごしたのだとしたら。
「返せ…」
そんな想像をしてしまい、あたしは発狂寸前まで追い込まれる。
それを強引に誤魔化すように、玄関を叩きはじめた。
「綾乃っ!湊を、返せっ!!」
殴りつけるようにドアを叩くあたしを見て、夏葉は仰天しているが、もはや構っていられない。
「な、なにしてるんですか渚さん!血もでてますし、やめましょうよ!」
「止めないで!」
「きゃっ!」
止めようとしてくる夏葉を撥ね退け、あたしはドアを叩き続ける。
みなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとみなとっ!!
湊はあんたのものじゃない、あたしのものだ。
あたしの湊だ。だから
「返せっ!」
絶対に、取り戻す
綾乃バッドエンドルートです
長くなったので短編として投稿しました
ゆっくり堕ちていくのも好きです
ヤンデレ書くのって難しいですね