第二話 勇者の前に自称おかあさん登場 その3
「だから良かったぁ」
「えっ、わぁっ」
ギュッと、抱きしめられてしまった。温かくて柔らかくて、無意識にいい匂いを胸一杯に吸い込んでしまう。
「ユーちゃんが最悪の選択しないでくれて良かったぁ」
まるで我が子を慈しむかのように、頭を撫でてくる。
「おかあさん本当に嬉しいわ」
しなやかな指に撫でられるたびに、直ぐにでも消したいのに、油性マジックで書いた文字のように中々消えない嫌な記憶が薄れていくようだった。
ボクは「離れて」と口を動かそうとするが、身体が、その命令を拒否する。
素性も知らず、角が生えた女性に抱きつかれているのに、不思議と恐怖よりもずっとこうされたいと思ってしまうほど心地よかった。
柔らかい彼女の身体がボクから離れていく。
「さあ、ユーちゃん」
離れた彼女はパンと手を叩くと、少し首を傾けながら笑顔でこんな事を言ったんだ。
「お風呂に入りましょう」
「はい? お風呂に入る?」
彼女はニコニコしながら何度も頷いた。
「ええ。さあ行きましょう」
ボクの右腕を握って下に連れて行こうとする。
振りほどこうとしたが、そのほっそりとした腕からは想像もできない力で、抵抗は無意味だった。
「待てよ。なんで急にお風呂なんて言い出すんだよ」
こっちを振り向いた彼女の顔は、何だかとても言いにくそうな顔だ。
「……とっても言いにくいんだけどね」
そう言って顔を近づけてくる。ふんわりとした黒髪から、シャンプーのようなどこかで嗅いだことのある香りが漂ってきた。
「スンスン……」
何をするのかと思ったらボクの頭に顔を寄せて、匂いを嗅がれてる?
「もう長い事お風呂入ってないでしょ?」
その一言で察した。途端に頰が熱くなる。
「身体、綺麗にしましょ」
ボクは母親に手を引かれる幼児のように一緒に階段を降りていく。
恥ずかしすぎて、何も反論できなかった。
「お風呂場はここね」
彼女はボクの手を引いたまま、脱衣所の扉を開けた。
「あらまあ……これは」
そんな素っ頓狂な声をあげると、ボクの手を離して一人で大浴場の扉を開けて、
「あらあらまあ」
またそんな声が聞こえてきた。どうやら何かに驚いたりするとつい出てしまう口癖みたいのようだ。
そんな事を考えていると、彼女が困惑した顔でこっちに戻ってくる。
「困ったわ」
頬に手を当てながら「んー」と何か考え事をしているようだ。
「何が困ったんだよ?」
「それがね。お風呂が汚れちゃってて、このまま入ったらもっとばっちくなっちゃうわ。かといって今からお掃除するのもかなり時間がかかりそう。一刻も早くユーちゃんの身体を綺麗にしたいのに……」
風呂が汚い? そりゃそうだ。ボクがここに閉じ込められてから一度も利用してないし、ましてや洗った覚えなんてないからさぞ汚れまみれになってる事だろう。
こりゃ入らないで済みそうだな。
「そうだわ!」
彼女は何かを閃いたのか人差し指を立てる。
その頭上に光る電球が見えたのは気のせいだろうか。
「ユーちゃんこっちへ」
「ど、どこ行くんだよ」
ボクは再び手を引かれて階段を降りる。ここ以外にお風呂場なんてないんだけど。
相変わらず手を引かれながら、下層へ降りて行くと、黒い階段が白く染まっていることに気づく。
それと同時に風の唸りも大きくなってきた。
後、猛烈に寒いんだが……。
勇者の力を待ってしても寒いものは寒い。
白く染まった階段に足を乗せると、サクサクと小さな粒の塊を踏みしめるような音が聴こえる。
それは雪だ。
今のボクは素足なので、白い結晶の塊を踏むたびに、凍えるほどの冷たさが足から登って来る。
しかも階段だけではない。下層の床一面を雪が埋め尽くしているのだ。
見るとリビングのテーブルまで雪化粧しているじゃないか。
「どうしてこんなことに……」
「あらあらまあまあ! 大変、忘れてたわ」
彼女は大きく開けた口に手を当てている。今の状態を見てボクよりも驚いているようだ。
「ちょっと待てよ。扉がなくなってるけど」
ボクは外からの外気の侵入を防いでいた両開きの扉があったはずの場所を指差す。
片方の扉は無くなり、猛吹雪によって大量の雪が建物内になだれ込んでいたのだ。
「あんた一体何したんだよ!」
ボクはこの事態を引き起こしたであろう張本人を睨みつける。
「ごめんね。呼び鈴鳴らしても反応ないから、心配になって中に入ろうとしたら扉が開かなかったの」
彼女は両手を合わせて謝罪してきた。
そりゃそうだ。ボクが出られないように封じられていたはずだからな。
「だからちょっと力を込めたら鍵どころか、扉も外れちゃって……」
「はい?」
ちょっと力を込めたら扉って外れるものか……それよりも!
「寒い! 寒いんだけど!」
ボクはたった数分で頭に積もった雪を振り払う。
「 待ってて。今おかあさんがなんとかするから。ね」
彼女は小走りで玄関まで駆け寄ると、雪で積もった床に手を突っ込む。
「あったわ」
探していたのは、自分で破壊した扉のようだ。
何をしようとしているのか。それを持って開けっ放しの玄関に近づいて、
「えい!」
そんな掛け声と共に扉を壁に押し付ける。
ミシミシと何か軋むような音がして、蝶番の部分が壁にめり込み、雪と風を防ぐ。
「ふう。応急処置はこれでいいかしらね」
一応外の雪は入らなくなったが、蝶番がそんなに壁にめり込んでいたら、扉としてはもう使い物にならないのでは?
「後は、部屋の雪をなんとかしないと……でもその前に」
自称おかあさんは、ボクの方に近づいて顔を覗き込んで来た。
「な、何だよ」
「先にお風呂を作らないといけないわね」
ボクの頰を、卵を扱うかのように、そっと両手で包み込んできた。
「こんなに冷えちゃって、風邪ひいてしまうわ」
不思議だ。さっき触られた時はあんなにひんやりしてたはずなのに、今はぬくぬくと温かい。
「ボクは風邪引かないから、風呂なんて入らなくて――」
「駄目です」
あっさりとボクの反論は止められてしまった。
「いくら勇者の力を持っていても、身体がばっちいままは駄目です。それに身体がすごい冷たいわ。今すぐにでも温めないと」
身体が冷たいのはあなたのせいだと思うのですが。
彼女はまたボクの手を引いて歩きだす。今度はどこに行くのかと思いきや、ついさっきまで顎が外れたように大きく口を開けていた玄関だ。
「えっ外出るの?」
玄関のわずかに空いた隙間からは雪が中に飛び込み、人を簡単に吹き飛ばせそうな風の音が建物の中なのに轟々と聞こえてくる。
「そうよ」
「まさか……」
殺す気か? とは怖くて聞けなかった。
「大丈夫、寒いのは一瞬よ」
彼女は壊れた方では無く、まだ使える扉のノブに手を掛け、躊躇わずに開く。
「ぶひゃ」
激しい風圧と雪が容赦なくボクの全身に襲いかかってきた。
隣を見ると彼女は笑顔だった。その笑顔に風はひれ伏すかのように避け、雪は触れる寸前で溶けていく。
まるで太陽のような笑顔だ。
「あらまあ、頭にいっぱい積もってるわよ」
視線に気づいたのか、彼女はこちらを優しい視線を送り「すぐ温かくなるからね」と言いながら頭についた雪を払ってくれる。
「あったかくなるってどういうことだよ」
激しい風に負けないようにボクが大声で尋ねると、彼女は「見てて」と微笑みながら自分の口元に手を添えた。
「ふう〜〜〜〜」
何するのかと思ったら息を吹いている。
風神じゃないんだから、そんなことしても無意味だろ……って、嘘だろ!
ボクの見ている前で、風は裂け、舞い散る粉雪は次々と消滅していく。
視線を下に向けると、降り積もって硬くなっていた雪が見る見るうちに溶けていくじゃないか。
ボクの手を握ったまま、彼女は文字通り片手間に雪を溶かして道を作ってしまったのだ。
「これで通路は完成ね。ちょっとここで待っててね」




