第十二章 下
振り返った少女はまだ子供っぽい顔立ちをしている。そして首からかけているのは一眼レフカメラ。
「新聞ぶ……」
「轟振子?」
新聞部の子? と聞こうとしたのだが、流ちゃんの素っ頓狂な声が割り込んできた。
「誰おまえ!」
澄子ちゃんは楽しそうに指を指している。
「知ってる子?」
僕は流ちゃんに尋ねる。
「新聞部部長よ。新部長は一年になったって」
一年なら澄子ちゃんは知っているはずでは。しかし当の本人は、首をかしげ、「こんな奴居たっけ」と小首をかしげている。
それにしても一年生が部長とは、うちの部と同じだ。実力がものをいう時代が来たらしい。
「あなたもしかして、あいつの敵討ちをしに……?」
あいつとは、おそらく、あの日僕らが殺したカメラ小僧の事だろう。カメラを持っている人間は写真クラブか新聞部しかいない。
「許さない――」
新聞部の部長は微かに呟いた。そして制服の上着を脱ぎ捨て、ブラウス姿になる。華奢で、小柄な割にはくびれがある。
「受けてみなさい。薬で強化された私の攻撃――」
拳を構える少女。迷いないそのポーズは、完全な臨戦態勢だ。
「うりゃあっ!」
右足を高く振り上げ、内履きのつま先が僕の眼前に迫る。この子は、唯一の男である僕を狙ってきた。か弱そうな女の子から狙うのが普通だろうが、そうしなかった。それは、かなり腕に自信があるからだろう。
残念ながら僕は、素手で戦うのは得意ではない。その代わり――
「あれっ? 包丁持ってくるの忘れた!」
「ばかっ」
ともちゃんの的確なツッコミが飛んでくる。
スローモーションで、少女のつま先が迫ってくる。
避けれない。包丁がなければ、僕はただ料理が得意なナヨナヨ男にしかならない。
覚悟を決めて、目をつぶる。
「わあっ?」
どんっ!
鈍い音が響いた。
静かに目を開けてみる。
少女は、地面に尻餅をついていた。
原因はおそらく、このワックスがけされていない床だ。この特別棟には、もう何十年と掃除されていない。去年の大掃除の時も、新しい普通棟だけワックスをかけ、特別棟は掃き掃除さえしなかった。
つるつるの床に次わりこんだまま、少女は立ち上がろうとしない。仕舞いには泣き出してしまった。
「痛い……痛いよぉ……ふぇ」
めそめそしている少女に、澄子ちゃんは近寄る。
「大丈夫? 泣かないで――」
机に置いてあったガムテープで、彼女をぐるぐる巻いていく。べりべり、ぐるぐる。べりー、ぐるぐる。
「ふぁ?」
腕動かないように一緒に捲きつけて、とうとうガムテープを切り取った。
澄子ちゃんは、ふぅっと、額の汗をぬぐう。
「できた!」
「よくやった!」
「さすが……!」
僕らは澄子ちゃんの行いを褒め称えた。
一方少女は、縛られたまま、バタついている。
「なんで!あんなにいっぱい飲んだのに、どうして強くならないの?」
なんかよく分からないが、まあそれにしても――――
「おいしそう……」
よだれが止まらない。
もうまる二日、何も食べていない。そもそも僕は、人肉以外食べられない。食べる気が起きないのだ。
二日間ずっと、牛や豚の肉を食べてみたり、鯨の肉を試してみたりした。けれどやっぱり、もう一口とはいかなかった。
そして今日やっと、ご飯が食べられる。
体が勝手に、少女に引き寄せられていった。
「へ? な、なんですか? いやぁっ! おいしくありません! 私、おいしくありませんよ!」
美味しそうな二の腕に噛り付こうとする僕を、全身で押し返そうとしてくる。しかしだるま状態になっているその姿では、身動きが取れていない。
「わあ、お嫁に行けなくなります! ていうか、三途の川に行ってしまいますー!」
暴れながら転がるそれは、マトリョーシカにも見える。
「うっ!」
突然獲物が、苦しみ始めた。顔を歪め、涼しいのに汗をかいている。
僕らはその様を、きょとんとしてみていた。発作か? 何か、持病でもあるのだろうか。それなら薬を与えないと。ここで死なれたら、せっかくのエサが、新鮮じゃなくなる。踊り食いのチャンスなのに。
「くすり……、くすり……」
口をパクパクさせている。
「薬、持ち歩いてる? 何処にあるの?」
暴れ始めた少女。もはや、質問に答えられる状態ではない。
すると、振り乱した少女の胸ポケットから、錠剤が飛び出してきた。
しかし想像していたのと違う形状をしていた。その錠剤は、とてもカラフルな色をしているのだ。決して、病院で処方されるタイプのものではない。
――――ドラッグか。
明らかに、法で認められていない品だ。
なぜ、という疑問は置いておいて――――さて、どうしたものか。
こんなものを摂取している人間、食べて大丈夫なのだろうか。
ドラッグを摂取すると、内臓がボロボロになるっていうじゃないか。
茶色いスカスカの内臓を肝臓を想像したら、食欲が失せてきた。
何だかんだ考えているうちに、少女は目に見えておかしくなってきた。「かおり――」と呟きながら、中空に手を差し伸べているのだ。時々何かに怯え、手で追い払うような仕草をする。
完全に、ドラッグの禁断症状だ。しかし薬物となると、同情の余地もない。勝手に苦しんでいろといったところだ。
「待ってね、今あげるからねー」
残り七粒ほどある錠剤をすべて取り出し、少女の口に押し込む。それを少女は、ぼりぼりと噛み砕いて食べた。ラムネ菓子を食べる要領で、一気に完食したようだ。
「ぐあぁ――!」
おかしい。全く収まらない。
ドラッグは、摂取していくごとに、その用量がどんどん増えていく。
あの量を食っても収まらないとなると、かなり薬物に溺れているらしい。最近手を出したばかりという訳ではないようだ。
少女の胸ポケットに手を突っ込む。もう一つ出てきたが、それは全てカラだった。
「そろそろ、ヤバいんじゃないの」
流ちゃんが言った。その通りだった。果たしてこれが、何の薬かはわからない。僕らは殺人犯であっても、薬物密売者ではないからだ。ドラッグの話なんて、保健体育の教科書でしか見たことがない。
しかしこのまま放っておいて、厳格で舌を噛みちぎって死ぬというのもあり得る。
目の前の少女に声を掛けられないでいるうちに、澄子ちゃんは突拍子もない事を言った。
「もう、帰ろうか」
「へっ?」
僕が振り返るのと同時に、流ちゃんも同じように振り返った。
「これ……、放っておくの?」
「うん、だって、この様子じゃ殺しても楽しくないでしょ。それに、こんなもの美味しくなさそうだし」
僕と流ちゃんはまた同時に頷いた。
確かにそうだ。興味が失せた。急に呼び出されたから、何があるのかと期待してしまった。それなのに現れたのは薬物中毒者ときたもんだ。
「そうだね、帰ろうか」
立ち上がって、膝の埃を払う。窓の外からは、煌々と輝く街並みが見えていた。都会はいいな。咄嗟に、そう思ってしまった。
僕は、田舎から来た。それも過疎化が進んでいて、教育機関は一つもないところ。そこで僕が思い出すのは、澄んだ空気でも、美しい田園風景でもない。あの、地獄と化した景色。唯一僕だけが知らなかった、あの村の、秘密の景色。そして僕の、食人の始まり。
急に眩暈に襲われた。もしかしたら、ただの立ちくらみかもしれない。ただ、引いていく血潮に、どうするもなく立ち竦んだ。
「どうしたの、晴ちゃん」
澄子ちゃんが、僕の顔の前で手を振っていた。流ちゃんも不思議そうに見上げていた。
「ううん、なんてことないよ」
よし行こうか、そう僕たちがあの少女に背を向けた時。
「ぐうう……許さない……、ユルザナイ――――うぐあああああ」
急な咆哮に、振り返る。
ぶちぶちっ、とガムテープを破り去って、両手足が自由になった。
僕らは、何が起こったか分からず、動くことができない。
その際にも、豹変した少女は、一番近くにいた流ちゃんに向かって、迫っていた。
「シネ…………!」
少女のストレートパンチは、流ちゃん愛用の小刀に側面からぶち当たった。
バリンッ!
高い金属音と共に、小刀は根元数ミリから折れた。大きく目を見開いた流ちゃんに、次なる拳が飛ぶ。
「ぐぅっ――――!」
潰れたような声と共に、流ちゃんは廊下側の壁まで飛んで行き、動かなくなった。
「「流ちゃん!!」」
僕らの声に、流ちゃんの反応は無い。
なんだ、この力は! 鋼を折り、小柄な少女とはいえ人間を、数メートル飛ばした。果たしてこれは、女子高生の力だろうか。いや、人間の力なのだろうか。
流ちゃん、生きてるよね? 湫先生のところに連れて行かないと。手遅れになるかもしれない。
流ちゃんに駆けよる暇は、許されなかった。三つ目の攻撃は、真っ直ぐ僕の鳩尾へ向かってきたのだ。
気が動揺していた僕は、あっさり吹き飛ばされた。そして床に叩きつけられる。やばい、内臓が……。
ぐちょっという音がした。内臓がどこか潰れているのだろう。どうすればいいんだ。まあ、湫先生なら何でも治せるからなぁ。あの人は医師免許を持っているし、手術くらい保健室でやってくれるかもしれない。
それにしても失敗した。何かの罠かもしれないとは、頭の隅に入れていた。そもそも僕らは、端からそのつもりでここまで来た。けれど、僕らより強くて狂っている人間がいるとは、思ってもいなかったんだ。
『殺人部』は最強そして最狂。そう信じ込んでいた。傲りだったというのか。
無理に顔を上げると、そこでは澄子ちゃんと少女が向かい合っていた。怒りに顔をゆがませている少女と、表情を消す澄子。空気が張り詰める。
勿論、澄子ちゃんが勝つだろう。だって、彼女は僕らのうち誰よりも強いから。彼女が負けるところなんて、想像もつかない。
けれどそれは、あっさり裏切られた。
「悪い奴ハ……、死んデ当然です…………」
澄子ちゃんは、負けてしまった。