第十章 前半
「おい、もうテレビ消して、お前も早く寝ろよ」
テレビに食いつく澄子の背中に、声をかける。
「今いいところ~、もうちょっと起きてるー」
飴玉を口に含みながら、振り返りもせずに返事を返される。
深夜アニメに食いついて、一向に寝ようとしない。こちらとしても澄子の笑い声で、寝られたもんじゃない。
結局澄子は、本当にうちに泊まりに来た。きちんとお泊りセットを持って。
普段保健室で寝泊まりしている澄子は、何年ぶりにテレビを見たとかで、ずっとテレビの前から離れようとしない。
家に上がってすぐにバラエティー番組にくぎ付けになり、その後夕飯を食いながらクイズ番組に没頭、風呂上りから今まで、パジャマ姿でアニメに熱中。
「あー、はいはい、おしまい」
リモコンでテレビの電源をオフにする。
「わ―――っ! 次回予告見るんだったのに―!」
「夜更かしすると、成長しなくなるぞーって、お前もう成長する必要ないか」
アニマル柄パジャマから長い脚をバタつかせる澄子に、ため息をつく。
これ以上成長したら、パリのランウェイだって歩けるかもしれない。
「ちゃんと歯磨いて寝ろよ、甘いもんばっか食ったんだから」
持参したお泊りセットの中には、チョコレートが沢山入っていた。湫先生が持たせてくれたらしい。澄子は彼女をお母さん代わりと言っていたが、澄子に対する甘やかせようは、まるでお婆ちゃんだ。
ブーブーと五月蠅い澄子を放って、寝室に戻る。
すっかり眠っているみうちゃんと同じ布団にもぐる。こうして一緒に寝ると、安心する。
澄子には仕方なく、母さんたちのベッドを貸すことにした。キングサイズだから、いくら寝相が悪い澄子でも、落っこちることは無いだろう。
みうちゃんを起こしてしまったらしい。寝ぼけ眼を擦った彼女は、頬にお休みのキスをして、もう一度眠りについた。
すっかり騒音が聞こえなくなった。俺はゆっくりと微睡に落ちていった。
目が覚めたのは、丑三つ時だった。
物音で起こされてしまったのだ。携帯の時計を見て、うんざりする。
「くっそ、澄子め……。これだから、寝る前にオレンジジュース一気飲みしちゃダメっていったのに……」
二リットルの○っちゃんのボトルに直に口をつけ、腰に手を当てながらぐびぐび飲んでいた澄子を、今更ながら殴りたい。
もう一度寝ようと試みるが、どうも目が冴えてしまった。
起き上がるのも億劫だな……。このままじっとしていれば、いつか眠れるだろ。
ギイィ……
扉が開く音と共に、隙間から明かりが入ってきた。
「なんだよ、澄子……。まさか、一人でトイレ行けないとか言うんじゃないよな」
しかめっ面で振り返る。
「っ―――――! 誰だっ!」
何か、獣のようなものが、這いつくばっている。獣特有の呼吸音と、四足歩行の足音が聞こえる。
それにもう一つ、扉から手だけが覗いている。誰かが様子を窺っている。
「なんだ! 返事しろっ!」
布団を跳ね除け、飛び起きる。
まず、電気をつけなければ。けれどもスイッチは扉の隣。何か分からぬ者たちに、近づかなければならない。
なるべく壁を伝い、じりじりと歩みを進める。
スイッチに付いている赤いランプが、その居場所を教えてくれる。
あと数センチ……。
カチッ。
部屋が明るくなると共に、侵入者へ顔を向ける。
そいつはもう、こちらへ跳躍していた。
「がるるっ!」
「ぐわあああっ!」
脛に噛り付かれる。くそ……。
「晴先輩っ!?」
俺の脚に噛り付いているのは、くせ毛の茶髪。獣のように両手をついて、口の端から俺の血を垂らしている。
「な、なにしてるん、ですか……っ!」
無理やり引きはがそうとするが、晴先輩の犬歯が深く突き刺さっているようだ。引っ張るたびに、足の肉が持っていかれそうに痛い。
突然、扉の向こうの奴まで、部屋に入ってくる。
「晴先輩だけ、ずるい……!」
ゾンビのように、長い髪を垂らし、おぼつかない足取りで襲い掛かってくる。
「とも先輩っ!?」
手に握られた銀の刃。それは一気に肩口に喰い込む。
「ぐっ……!」
咄嗟にかばった左手を、短刀が貫通した。おかげで肩の傷は、浅くて済んだようだ。
とも先輩はそれを俺の肩から引き抜こうと、柄を掻き混ぜるように動かす。
「ぐああ……! ぅぐああぁあ……!」
ぐちゃっ、と音を立てて抜けた短刀には、たっぷりと俺の肉片がついている。
「あそぼぉ、あそぼぉよぉー」
血濡れた刃先を、また俺に振り下ろしてくる。
「うわあっ!」
刃を躱そうと仰け反ると、片足を取られているせいで転倒する。
ぶちぶちっ。
かみつかれていた脛が、自分から離れていく感覚。
思わず足の方を見てしまう。晴先輩が、にちゃにちゃと俺の肉を食していた。
「ぎゃああああぁぁぁああぁああぁあ――――っ!」
ああ、脚が。ああ……、でも、……まあいいか、どうせ、運動なんかしないしなあ。
大量に出血した所為か、どんどん意識が遠のいていく。
どうして、どうしてこんな事になっているのだろう。ああ、そうか。俺の所為か。俺が、関わった所為か。
先輩たちは、こんなに、人とも思えない姿に成り果ててしまった。
また、俺の所為で。俺は、性懲りもなく、何度も傷つけてしまうんだ。
「今度は、仲良くしてもいいのかと……思ったのになぁ……」
涙が、頬を伝った。そこらじゅう痛いはずなのに、今はそんなに痛くない。この、心の痛みに比べたら、こんなのどうってことない――――
「――静まれっ!!」
凄みのある声が飛んできた。
『…………!』
俺の体から、重みが消えていく。
「う、ん……?」
霞む眼の先には、クマさんのパジャマを着て仁王立ちする、澄子がいた。
「お前らは帰れ!」
このとてつもない剣幕に、先輩たちは脱兎のごとく去っていく。
「どうしたんだよ澄子……、そんなに怖い顔して……らしくない……」
そのまま、記憶は途絶えた。
ただ一つ覚えているのは、誰かの背中の温もりと、肌寒い外の空気だった。