雪解け
妖精女王は、その日、ひどくご機嫌でありました。
女王の育てている綿毛キノコが、ようやく苗床から胞子をひとつ吐き出したのです。気難し屋で繊細な性格の、おんみずから大事に世話をしてきたキノコでありました。
これで、立派な綿毛ソファができるわ。
女王はにんまり笑って、朝から散歩に出かけることにしました。
女王の庭はとても広大です。いうなれば、この星の大地すべてが女王の庭といっても、過言ではありません。
町はずれの老夫婦が住む家の植え込みをてくてく進み、帝都騎士団の厩をふわふわと抜け、村々の畑をぶーんと飛び、森を越え砂漠を越え、誰も住まなくなった北の半島を周り、西の古木のふもとでおやつの蜜を飲みました。
彼女がその異変に気が付いたのは、そんなときでありました。
事象軸のたてた鈍い共鳴が、地脈から古木の根を伝わって、彼女を揺らしました。
女王の耳に届いたそれは、人間同士の戦争ではもう遥か昔に聞かれなくなった、古い調律の魔法でありました。
「どこから聞こえてくるのかしら。この懐かしいこえは。」
妖精女王の羽が、興味と関心でぴくぴくと動きます。
遠くで、大地に突き刺さるように、古代の魔法がいくつも顕現しているのがわかります。
「今の時代に、この地上で神々たちが喧嘩しているわけでもないでしょうに。【 風よ風、わたしのもとにあなたが見た光景を運んでちょうだい。 】」
魔法の言葉で命じると、女王のめのまえに鏡のような、遠くの景色が見える魔法の窓があらわれました。
それを覗いた女王はびっくりして、思わず叫びました。
「まさか。不死鳥の君でないこと! なんてまあ、脆弱な姿に生まれ変わっているのかしら。」
窓にうつしだされたのは、クオンとカリン、そして、将軍と黒狼でありました。
彼女が驚くのも、無理からぬことでありました。クオンたちはほとんど虫の息といった様子です。
ふたりは将軍たちの襲撃に持ちこたえられなかったのでしょう。カリンは肩からの出血でほとんど意識を失っているようでした。クオンは右手を失っており、毒の魔法を受けたのか、左足が腐りかけています。
『ああ、情けない。仮にも鳳凰であったのに、あんな獣ごときに。』
将軍と黒狼のほうも、無傷というわけではありません。
特に、将軍のほうは唇を青くして、今にも倒れそうな様子です。
クオンが張った氷結界は、広範囲を巻き込んで周囲の生き物から生命力を奪う、禁術でありました。クオンの懸命の抵抗によって、辛うじてではありますが、将軍と黒狼はクオンたちを仕留めあぐねていたのです。
しかし、瀕死のクオンたちと違い、将軍の表情にはまだ活力がありました。
「たしかに、目の前の小僧の不気味な魔法によって、生命力を奪われはしている。だがこの程度であれば、致命的なものではない。」と、彼の目は語っているかのようでした。
ほとんど前も見えないほどの吹雪の中、将軍はクオンたちに向け、剣を振り下ろします。
同時に、狼は朦朧としているカリンを狙いました。
カウンターとしてクオンが放った魔法の氷弾が、呆気なく将軍たちに回避されました。もはやそこは、魔法ではなく剣の間合いでした。
クオンは決死の形相で、カリンと自分に向けて防御の魔法を張ります。
『変わらない方ね。いつもどおり、力任せで、技巧もなにもないわ。』
将軍の刃と、狼の牙が、防御の魔法とぶつかりました。
巨大な翼のような形状の防壁が、二人を守ろうとして、たわみました。
そして、あっけなくクオンの防壁は破られました。事象軸が羽毛のようにまき散らされ、あたりに音を立てて還元されてゆきます。
『でも、悔しいけどあの方の羽は、いつ見ても本当にきれい。』
二人の子供が狙っていたのは、まさにそのタイミングでした。
確実なとどめを刺すとき。それがいちばん、無防備になるタイミングでした。
もはや彼我の間合いはナイフ一本分しかありません。
カリンの投じた炎の槍と、クオンの放った氷の刃が、将軍の首元へ、狼の心臓へ、これ以上ないタイミングで襲いかかりました。
∞
ぼとり。ぼとり。
枝から雪が落ちました。
魔術が生んだ熱量の残滓と、あちこちに顕れた事象軸のほころびを、北からの風が吹き散らしてゆきます。
「なぜだ。」
地に倒れた狼が、恨めしげに言葉を吐き出します。
「なぜ、そのなりで、まだ生きていられる。なぜ、立っていられるのだ。」
狼の見つめる先、クオンは満身創痍でありました。
軍服はぼろぼろで、いたるところから出血しています。右のわき腹からは、本来見えてはいけないはずの、人間の内側の部分がはみ出ています。
右の二の腕と、左の太ももから先は、食いちぎられて失っています。
また、顔の左半分はほとんど炭化し、首から肩にかけて焼けた皮膚が露わになっておりました。
「ふふん。残念だったね。」
クオンは、鉄の味がする口の中をもごもごと動かし、応えます。
「ぼくは、不死身なんだ。なにせ、伝説の、不死鳥の、生き残りだからね。」
瀕死の狼には、その言葉は理解できないようでした。
あるいは、理解したうえで、ただの強がりと思ったかもしれません。クオンの顔面は蒼白で、生気を失っている様子でした。
「その娘は死ぬぞ。」
と、狼は苦しそうに言いました。
見つめる先に、カリンが倒れています。こちらもクオンと同じくらい重症で、特に肩の傷が深刻でした。
「その娘も死ぬ。おまえも死ぬ。我が毒を注ぎ込んだからな。そればかりではない。この地もやがて死ぬ。大地を冒し、水脈を汚染し、疾病を風に流し、我の血でこの国を穢してくれよう。」
首だけになった狼は、それだけを言い残して、目を閉じました。
「させないよ。」
クオンはつぶやきました。
もはや黒狼は息絶えていました。狼が倒れた場所から、真っ黒いしみが、大地を、雪原を染めてゆきます。狼がその身にため込んだ呪いの属性が、まるで粘菌のように、はいずり、広がってゆこうとしているようでした。
「カリン……。」
二三歩進んだところでクオンの膝は力尽きたように折れ、雪の上に崩れ落ちました。
「あれ……あはは、まいったな……。」
クオンは、自分がもはや自力で立ち上がることができないであろうことを悟りました。
這うようにしてカリンのそばに近づき、その躰へと手を伸ばします。まだ、カリンの体は細く、脈を打っておりました。
「よかった……これなら、きっと大丈夫。」
クオンは自分の歯で、唇をかみちぎりました。
そこから流れ出す自分の血を、カリンの肩の傷口から注いでゆきます。自分に残されたわずかな命を、分け与えるための術式でありました。
「ごめん、カリン。怒らないでくれると、うれしいな。」
同時に、あたりに白い霜が生まれました。
それは狼の呪いを凍らせ、その力を奪っていきます。
「それから、安心してくれ。ぼくのからだと引き換えに、ここ一帯の毒は解除していくから。
駐屯地には、きっと、影響は出ないはずさ。……隊のみんなには、よろしく言っておいてくれ。」
気絶したカリンの顔を見て、さみしそうに笑い、
「ああ……もしかすると、これが『寒い』ってことなのか。カリン、ぼくはね、はじめて……。」
クオンの口から、その先の言葉は紡がれませんでした。。
彼が倒れた先から、氷の結晶が広がってゆきます。広範囲の熱量を奪う、クオンお得意の結界です。
汚染された事象軸のひとつひとつが、ぱきん、ぱきんと音を立てて、魔法によって調律されてゆきます。
やがて、氷の結晶は役目を終え、ひび割れて、どこへともなく舞い散りはじめました。ここで戦闘があった痕跡ごと、なにひとつとしてのこりません。
北風が通り過ぎてゆきます。
∞
「まったくもう。」
妖精女王はおかんむりでした。
今朝の機嫌などどこかへ行ってしまったかのように、むっつりとつぶやきます。
「あきれるわ。」
そこにあるのは、地に倒れている少女。そして少女を守るように周りに広がる、クオンの体だったもの。
まるで人間の肉体を捨ててしまったかのように、クオンの体は純粋な氷だけになっていました。
凍ってしまった体は、陽光にとけて、今はもう液体になりかけています。
「あなた、そんなすがたになってまで、その女を護りたかったのね。」
水が、波紋をうちました。
まるで、クオンの意志がまだ、そこに残っているかのように。
「そう。そうなの。わたしにはどうにもできないこと。けれど、青の賢者様なら、なんとかしてくださるかもしれないわ。氷の君。どうなさって?」
ためらうように二三度、さざ波が立ちました。
妖精女王は納得したように頷いて、
「ああ、あなたはかの賢者様のことを知らなかったのかしら。なら仕方ありません。道案内だけは、わたくし自らしてさしあげるわ。」
そして彼女は魔法を紡ぎます。
古い古い呪文。人間がまだあらわれていない頃、この世界のほとんどが、目に見えないつながりで結びつきあっていたころの魔法でした。
「せいぜい、旅路を楽しむといいわ。わたくしが送ってさしあげるのは、途中までですからね。」
∞
カリンが目を覚ますと、そこにはすっかり溶けた雪と、自分を中心に広がる、大きな水たまりだけがありました。
しかし、行動を共にしていた相方の姿は、どこにもありません。
まるで、雪景色に溶けてしまったように、クオンはいなくなっておりました。