帰るところ
「無理はしないほうがいい。身体がつらいならば、里へ帰るがよかろう。」
ライアが泣いていることに気づいた朝から、トワは彼女の様子に気を配るようになりました。
するとすぐに不死鳥は、ライアがじつは、毎朝のように泣いていたのだ、ということに気づきました。
いつも、日が昇る二、三刻前。
夢から目覚める直前の時間帯に、毎日彼女は声もなく、静かに涙を流していたのでした。
しかしそのことを指摘すると、彼女は辛そうに笑って、トワの言葉を否定するのでした。
「無理など、しておりませんわ。」
女はそう言って、不死鳥の翼を撫ぜます。
そうすることで、氷の羽毛の一枚一枚が、まるで薄くて軽い金の板を並べたように、さらさらと歌うのです。ライアはことさらこれが大好きで、ひまを見つけてはトワの翼を櫛で梳き、手入れを繰り返すのが常でした。
「わたくしは今、幸せなのですもの。」
ライアはそう言い張りますが、化粧で隠してはいるものの、よく見れば頬はやつれ、肌はぼろぼろで、とても平気そうな様子ではありません。
トワもそろそろ察しておりました。冷たい不死鳥が治めるこの一帯は、いくら符術で結界を張れるとはいえ、人間には厳しすぎるのだと。
一番の問題は、トワの身体そのものでした。毎日この不死鳥の体に触れ、身を寄せ、キスをするたび、ライアの身体は極寒を魔力を浴びて、知らず知らずのうちに衰弱していたのです。
「わたしには、そうは思えない。」
不死鳥は、彼女が浮かべた表情を見て、案じるように言います。
じっさいこのころには、ライアは不死鳥にとって、失いがたいと思える存在になっていました。
もし、彼女の身に何かあれば、トワはそのことに責任を感じてしまうでしょう。そのことをもう、トワ自身理解してしまっていたのです。
「なんといわれても、ここを離れません。わたくしは望んでここへ来たのですから。」
「なぜおまえはそこまでするのだ。」
トワは、あきれたように言います。
「だって、わたくしはあなた様の、妻にしていただきに来たのですもの。」
ライアは強情にも言い張ります。
その青い瞳に、正体不明の炎が灯っているようにも見えます。
トワはそれを見ると、それ以上なんと言えばいいのかわからなくなってしまいます。なぜなら、彼には、どうしてライアがここまで不死鳥に執着するのか、その本当の理由すらわかっていなかったのですから。
「だが、おまえの体は、ここで生きてゆくようにはできていない。」
トワはそれでも、数日間、真摯に説得を繰り返しました。
「あなた様がわたくしを案じてくれるのは、とてもうれしく思います。それでも、わたくしはあなた様のそばを、離れたくはないのです。」
「わたしがおまえを拒むわけではない。ひとの国では、住処を移したあとであっても、里帰りというものを行うそうではないか。今のお前に必要なのは、きっとそれなのだ。」
トワの真摯な態度に、少しずつ、ライアも耳を傾けるようになりました。
「本当に、いつでも帰ってきてよいのですね。」
「ああ、お前が来たいと思ったら、いつでもここへ訪れるがよい。」
この極寒の地は、女ひとりで旅をするにはあまりに過酷です。
トワにもそれはわかっていたので、トワは自分の羽毛を一枚引き抜いて、彼女に渡してやりました。
「これを護符として使うがよい。この地を行き来する場合、ありとあらゆる災魔から、そなたを遠ざけるであろう。」
「ありがとうございます。わが愛しの君。」
彼女は嬉しそうにそれを抱き、不死鳥に抱きつきました。
「きっと、少し体調を崩しただけですわ。春になったら必ず、戻ってまいりますので」
そうして半島の端へ送られた彼女は、何度も振り返りながら、不死鳥のもとを去っていったのでした。
∞
彼は待ち続けました。
約束の春はとうに過ぎ、短い夏が訪れ、じき秋が差し迫ってきました。
しかし、やってくるのは風ばかりです。
それでも、幾日も、幾日も。彼は待ち続けました。雪の中でまどろみ、ライアのことを思います。夢うつつに、彼女がトワに触れる指の感触や、彼女が歌う声を思い出しては、目覚めて傍らに誰もいないことを寂しく思うのでした。
ある日、ぴしり、という小さな物音が聞こえました。
なんだろうとおもってトワが自分の体を覗き込むと、冷たい氷の体、ちょうど心臓のあたりに、小さな亀裂が入っていました。
「信じているとも。」
彼は地平の果てを見やり、つぶやきました。
声はすぐに熱を失って、雪の上にぼとりと落ちて、それっきりでした。
∞
三年後の、ある日のことでした。
ふとトワが顔を起こすと、そこにライアがおりました。
「ただいま帰りました、わが君。」
ライアは、トワに向かって優しく笑いかけました。
「なぜ戻って来たのだ。」
トワは、不思議と安心するような気持ちで、ライアに問いかけます。
「なぜ戻って来たのだ。おまえには、もうわたしの羽をくれてやっただろう。」
「やはり、知っていたのですね。」
ライアは、視線を落とします。その手元には、トワが渡したはずの羽は、どこにもありません。
「わが君。わが愛しの君。やさしき冬の王よ。すでにお察しのことと存じます。わたくしがここに戻ってきたのは、あなた様に罰を頂戴するため。この命をもって償うためですわ。」
「その必要などどこにもない。」
「いいえ!」
ライアは、首を振って、トワの言葉を否定しました。
「いいえ、いいえ! わたくしは、許されぬことをいたしました。あなた様のやさしさを、あなた様の寛容さを、あなた様の諦めを利用したのです。」
「わが妻、わが伴侶、わが恋人よ。おまえが、わたしの不死性を狙っていたことは、知っていたとも。」
トワは優しく、落ち着いた声でライアに告げます。
「最初から知っていた。おまえにはわたし以外に、愛する者がちゃんといることも。わたしの羽は、ちゃんと効力を発揮しただろうか。」
「わたくしにはあなた様以外に夫がおります。つい先ごろまで重い病を患っておりましたが、トワ様のお情けにより一命をとりとめることができました。」
「なるほど。」
不死鳥は安心したように笑いました。
「わたくしは、夫がいる身でありながら、あなた様と結婚をしようとしました。不義の……不貞の責任を取らねばなりません。」
「もう、代償は払っているだろう。」
不死鳥は宥めるような口調で言います。
「わたしの魔力に晒されながら、おまえは決して弱音を吐かなかった。見上げたものだ。」
「あなた様のことは、お慕いしております。わが君。わが愛しの君。どうか、わたしの罪はわたしの命だけで。」
「夫のためを思ってのことなのだろう。愛する者がありながら、わたしのことを夫と扱わねばならないのは、どれだけつらかったか。」
ライアが流す涙は、あっという間に凍ってしまいます。眼球を傷つけないように、トワはそれを魔法で取り払ってやります。
「おまえは、わたしにいろいろなことを教えてくれた。王都の噂。スープの味。星の物語。そしてなにより、誰かにやさしくすることを。」
だから、と不死鳥は言います。だから、もういいのだ、と。
ビシリ、とトワの胸のあたりが、大きな音をたてました。
ライアが驚いて見上げると、そこに大きなひびが入っていました。
「わが君。」
亀裂は次第に広がり、トワの体がぼろぼろと崩れていきます。
「わが君!」
「どうやら、これで私の寿命も終わりらしい。おまえが来るまでは、なんとかもたせることができたな。」
不死鳥は、諦めたように笑います。
「氷のようにどこにも進めぬ、諦めに満ちた我が人生の、最後の恋人がそなたでよかった。」
「そんな。」
「残されたものは、そなたが持っていくといい。きっと、ひと財産にはなるだろう?」
「そんな。わが君! どうして。」
「最後におまえに会えてうれしかったよ。来てくれてありがとう。わが妻。」
それが、不死鳥の最後の一言でした。
トワの身体はばらばらに崩れてゆきました。
「そんな……わが君! わが君!」
ライアは嘆き、トワの身体があった場所に近寄りました。
トワの名残はほとんど残っていません。あの巨大なくちばしも、美しい羽毛も、すべて小さな氷の欠片になって、粉々に砕けてしまっていました。
しかし、ただひとつ。
氷の欠片の中に、ひときわ大きなものが残っていました。それは、トワの胸のあたり。ちょうど、心臓にあたる部分に。
大きくて、つやつやと丸い、それは氷でできた卵のように、ライアには見えました。
「わが君……」
ライアは卵を抱き、泣きくずれました。
不思議なことに、彼女が流した涙は凍りませんでした。主がいなくなったことを嘆くように大風が吹きすさぶ中、彼女は長いことそこにうずくまり、その氷の塊を抱いて、不死鳥を想い泣き続けました。
そうしてしばらく経ってようやく、彼女は卵を抱えて、その地を後にしたのでした。
一人で。
∞
翌年。
ある帝国の家で、卵に罅が入りました。
家の住人である夫婦が見守る中、卵は二つに割れました。
中から生まれたのは一人の、かわいらしい人間の男の子でした。彼は外気に体を震わせて、おぎゃあと産声をあげました。