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そのとたん、さやかな光がいっぱいにさしこんできた。
星だ。
恐ろしくなるほどの、星空だった。巨大な天蓋の一面に、糠をまぶしたように星が瞬いている。天をよこぎる銀河は白く輝いて、濃い乳が流れているかのようだ。明るい星が密集しすぎて、ひとつひとつの星が見えない。銀河以外のところでさえ、星の数が多すぎて、星座を結ぶどころではなかった。
庭園では衛士に気を取られていたし、なにより木々が多くて空には注意を払っていなかった。しかし今、清照たちが足を踏み入れたのは、なにもない広場のような場所だ。おそらく丘の頂上だろう。絶塞周辺でもっとも高いところにあるので、建物や山に視界がさえぎられていなかった。しかもこの夜は、雲も月もない。自分を中心にした全天が、完全に星で埋まっている光景には、獰猛なほどの威圧感があった。
星々はあまりに美しく神秘的すぎて、もはや人の感動も想像力も、畏敬さえよせつけぬように思えた。トルクエタムに神々とその神話や伝承がないことも、この星空を見れば納得できる。星空は地上の卑小な想像や思惑から完全に自由で、無慈悲に下界を見おろしていた。
月季は圧倒されて、動けずにいた。
「……清照……」
月季は子供のように頼りない声で、清照の名を呼んだ。
「おそばにおります、公主。大丈夫ですよ」
「星があのようにまたたいて、目がくらみそうです……遠近感が……まるで星がすぐ手元にあるよう——」
そのとき、清照と月季のすぐそばを、淡い赤に光る球体がすっと横ぎっていった。
「え? ほ、星!?」
月季が思わずというように声をあげる。と同時に、今度は氷のように青白い球体が足下をかすめた。
「まさか、本当に星が?」
後ずさるが、またも球体がとんできて、身をすくめた。
「月季公主、足下にお気をつけて。それと声をお控えください」
「だ、大丈夫です。でもこれは、いったい」
見ればいかなる仕掛けによるものか、いくつもの小さな球体が、あたりの中空を飛びかっていた。まっすぐにではなく、大きな弧を描いて飛んでいるらしい。
大きさや飛ぶはやさはまちまちだ。それぞれの球体はぶつかるようで、けっしてぶつからない。いったい誰が、こんな絶妙な動きをそれぞれの球体にさせているのだろうか。
月季は呆けたように見入っていた。
「……いったい——」
そのとき、月季の目の前を緑色の球体がとびすぎようとした。あろうことか、月季は咄嗟に両手をのばして、球体を掌のあいだにとらえてしまう。
「——つかまえましたっ!」
虫取りかなにかのような、意気揚々とした声をあげた。
「公主!?」
(嘘だろ!?)
清照は大きな声をあげなかったが、それでも月季の行動には仰天した。気を惹かれたからといって、まず手をだすとはなにごとか。子供か。
「まあ、わたくしの手のなかで、まだ動いていますよ! 逃げようとしているのかしら? もしかしてこれは、トルクエタムの鳥か虫でしょうか、清照!」
念のために言えば、月季は一応、小さな声で言っている。しかしはずむような抑揚のためにおそろしく耳について、そんな配慮も台無しになっていた。
「いや、あの。どうかお静かに、公主——」
「何者だ!」
鋭い誰何の声に、月季ははっと身をすくめた。清照は月季をかばい、両手を広げて前に立ちはだかる。
暗がりからあらわれたのは、ヘリオスフィアと李冰陽だった。清照と月季を認めると、驚いて立ちどまる。
「杜清照!? それに月季公主も!」
「いったい、どうやってここへ?」
ヘリオスフィアは、清照と月季を厳しい視線で交互に見た。
「月季公主。ここがどこだか、わかっておられるのか。しかも、今のような時期に!」
ヘリオスフィアの言葉は、月季が毒殺され書けたことを意識してのものだったが、月季はそのことに気づいていない。
「あ、あの、わたくし」
うろたえて、口ごもっている。しかしヘリオスフィアは容赦しなかった。
「ここはオールト神殿の最上階、もっとも神聖な天文台だ。トルクエタムの民であろうとみだりに踏み入っていい場所ではないぞ」
「でも、下に衛士もいなかったので」
李冰陽は困ったように眉をひそめた。
「もしや、庭園の小堂から入ってきたのですか? 基本、神殿は誰でも受けいれる場所ですから、そうした場所に衛士は起きませんが……しかし、離宮をでるには衛士の前をとおらなければならなかったはずですよ。抜けだされたのですか」
「無礼は幾重にもお詫び申しあげます、ヘリオスフィア王子、李冰陽。たしかにわたくしたちが軽率でしたわ。ですが、聖なるものを貶めるつもりはございませんでしたの。どうか……」
額づかんばかりの月季をとどめて、清照が前にでた。
「私が公主を夜の散歩にお誘いしたのです、ヘリオスフィア王子」
「下がりなさい、清照! これはわたくしの落度です!」
だがヘリオスフィアはぐっと眉根をよせて、清照を睨んだ。
「また貴様か。杜清照」
手こそださなかったが、清照にかみつかんばかりに近づいた。
「散歩だと? ふざけたことを言うな! 公主はともかく、お前は事態を把握しているはずだぞ!」
「ヘリオスフィア王子、どうか清照をお咎めにならないで。主のわたくしが——」
月季はまだ、とらえた球体を掌のあいだにとどめていた。指のあいだからもれる淡い光を、李冰陽が見とがめた。
「失礼。公主、それは?」
「あ、ええ。飛んでいたので、咄嗟につかまえてしまいましたの」
掌を薄く開けて、ヘリオスフィアと李冰陽に見せる。ヘリオスフィアと李冰陽は月季の手のなかを見て、一瞬の絶句のあと、同時に血相を変えて叫びだした。
「星玉を——嘘だろう!? 飛んでるからって、触ろうとするか、ふつう?」
「そんな、信じられない!」
「申し訳ない。返す言葉もない。本当に申し訳ない」
清照は素直に頭をさげた。一方、月季はとまどって手を開く。
「え? あの」
玉は鳥が飛び立つように、ふわりと月季の手を離れてまた飛んでいこうとした。それをヘリオスフィアが身をのりだして、はっしとつかまえる。
「待て! 軌道に戻すなら、ちゃんと計算してからだ!」
「計算?」
ヘリオスフィアにおされるかたちで、月季は後ずさった。そこでまた、足下をとおりすぎる水色の玉を蹴りとばしてしまう。
ふらりとそれた玉が石敷きの床にぶつかって、玲瓏として澄んだ美しい音を立てたが、ヘリオスフィアも李冰陽も動転して、妙なる音を聞くどころではなさそうだった。
「動くな、蹴るな! ちゃんとまわりを見ろ! ほら、また近くを星玉が飛ぶぞ!」
「お、王子こそ、わたくしの足を触ったりなさらないで!」
「してない!」
「とにかく、公主は動かないでください!」
李冰陽はなんとか水色の玉を拾いあげて、しっかりと胸元に確保している。
「……三人とも、少し落ちついて。とにかく、ここからちょっと離れましょう。また星玉とやらが飛んできます」
清照は月季を引きずるようにして、階段のある小部屋に戻った。ヘリオスフィアと李冰陽もついてくる。
「それで、今のはなんでしたの?」
月季はようやく息を落ちつかせて、尋ねた。
「ご覧くださいませ、公主」
清照は吊り燭台から灯りをとり、外を照らした。
先刻は星にばかり気を取られて、見ていなかった床やその周囲を、月季はここではじめて目にしたようだ。音を立てて息をのんだ。
「あれは……!」
灯りに照らされた広い石床には、無数の直線や曲線が描かれていた。線上にはところどころ、玉が埋めこまれている。広場の中心には、大きな渾天儀が据えつけられていた。
そして渾天儀のまわりの空間を、きらめく玉が楕円を描いて飛んでいた。
飛んでいる玉はいずれも、内側からほのかに光っていた。ちらちらと瞬いて、動いていなければ天の星にまぎれてしまいそうだ。しかし床に埋めこまれている玉は、光を放っていない。
「ヘリオスフィア王子、李冰陽。あれはいったいなんですの?」
ヘリオスフィアと李冰陽は顔を見あわせ、返答をためらった。
かわりに清照が答えた。
「あれらはもしや、崑崙の玉ではないでしょうか。公主の婚礼のお道具のなかにも、同じようなものがいくつかございます」
「翠泉玉ですね!」
月季は説明のために、ヘリオスフィアと李冰陽のほうをむいた。
「水霊が宿って、玉のなかで魚が泳いでいますのよ。仙境の清浄な玉ですから、精霊と相性がよいのです。ほかにも、花妖が入りこんで芳香をただよわせる香魂玉とか、風伯が封じられて天候によって色が変わる銀松玉とか、ほかにもいろいろありますわ」
「ここにある玉は、たしかに崑崙の玉だが、そうした観賞用のものではない」
ヘリオスフィアがやや憤然として答えた。
「あれらの玉は星の聖なる光を集め、その力を封じるためのものだ」
「星?」
首をかしげた月季に、李冰陽が引きついで説明する。
「そうです、月季公主。床に線が引かれているでしょう? あれらは星の軌道をあらわしています。そして埋めこまれた玉は、星をあらわしています。ああやって、対応する星の聖なる力を集め、封じているのですよ。星の力が充分に満ちれば、星玉はおのずからうかびあがり、自分の軌道を移動するようになるのです」
「そのようなことが、できるのですか!」
月季は驚嘆の声をあげた。
ヘリオスフィアは答えるかわりに天をあおぎ、次いで床を指し示した。
「天のはるか高みにあり、地上の我々からはあまりに遠い。またその力はあまりに偉大かつ深遠で、人には理解しがたい——だから、こうして地上に天を再現し、星の分身たる聖なる玉をつくりあげるんだ。星玉はいわば、遠い天の星々と、地上の人をつなぐもの。人は星玉があってはじめて、大いなる星の力を少しばかり借りて、使うことができる」
「方士が使役する、精霊のようなものでしょうか」
月季は、星玉を仔細に眺めながら問うた。
「そうかもしれない。だが星玉は、精霊のように自分の意志を持っていない。まして天香国の土地神のように、人間が代々祀ることで祖霊と一体化できるものでもない。あくまで、ただの力だ。しかもその力はつねに、天の意志の大きな流れにそおうとしている。人の思いどおりには使えないし、無理にまげて使うとあとで大きなしっぺ返しがくる、そんな力だ。使役などできないぞ」
李冰陽もうなずいた。
「星玉をつくるためには、星図をできるだけ正確に再現しなくてはなりません。天体を観察し、軌道や周期を計算することは、神官のもっとも重要な役目です。この神殿には、トルクエタムで最大の象限儀もあるのですよ」
清照は小部屋の外を見やった。
「だから、星図が描かれたこの場所が重要なのですね」
「そうだ。ここオールトは、トルクエタムでもきわめて雨が少なく、空気が澄んだ土地。天の観測には最適の土地だ。玉も存分に星の光をあびることができる。この神殿で星の光をいっぱいに集めた星玉は、守護星として各地の神殿や部族の祭祀場に送られ、祀られて、その地を見守るんだ」
月季は夜目にも蒼白になった。
「わ、わたくし、そんな大切な玉をつかまえたり、床に落としてしまって……!」
うろたえる月季を、李冰陽が苦笑しつつなぐさめる。
「大丈夫ですよ、月季公主。星玉は安定したものですから。いちど決まった星と対応してしまえば、簡単には変化いたしません。各地の神殿や祭祀場に祀られた星玉も、数十年あるいは数百年にいちど、このオールトの天文台に戻って、星の光をためなおすのです。少しばかり軌道からはずれて転がったところで、影響はありませんよ」
「そうなのですか?」
「ええ。公主がお持ちの翠泉玉とやらも、天香国から離れた今も、魚は元気に泳いでいるでしょう? トルクエタムに百年もおいておけば、やがて干あがるかもしれませんが、天香国へつれてかえって水をかけてやれば、もとに戻るはず。それと同じです」
月季はほっと肩を落とした。
「それを聞いて安堵いたしました」
「だからといって、足蹴にしていいものではないぞ。神聖なものなんだからな」
ヘリオスフィアが子供をたしなめるように言った。
「星玉をもとの軌道に戻すのも、ちゃんと周期を計算してからだ。星の光が充分に満ちていれば、玉自身の力で宙に浮き、自然に正しい軌道に戻るが、まだ日の浅い玉はずれがちで、下手をすると他の星玉とぶつかってしまう——冰陽、計算を手伝え」
「はい」
ふたりは小部屋の棚から、厚い帳面と計算尺を取りだす。月季があわてて申しでた。
「お仕事をされるのでしたら、そのあいだ、わたくしどもがその星玉をおあずかりしますわ。大丈夫、誓って大切に扱います」
ヘリオスフィアと李冰陽はやや迷ったようだが、玉を持ったままでは作業ができないので、けっきょく月季の申しでにしたがった。李冰陽は月季に、ヘリオスフィアは清照に、それぞれ星玉をわたす。
清照は両手で星玉を包んだ。
星玉は、ひやりと冷たかった。これが夜空の冷たさだろうかと、ふと想像する。両手に包んでいるのに、星玉が人肌にぬくもることはありそうになく、清照はたしかに星と人との距離の遠さを感じた。
それでも清照は、星玉をそっと握らずにはいられなかった。荒れた手のなかに、広大無辺の夜が凝縮されている。だがその想像はなんの感動もうみださず、ただ自分がひどく小さなものに思われただけで、ひどく切なかった。
「どうかしたのか」
顔をあげると、ヘリオスフィアが清照を見ていた。
「いえ。——ふと思ったのですが、星玉の数が少ないように感じるのですが、違うでしょうか? 天香国の天文学でさえ、北極に九曜、二十八宿などのきわだって明るく、重要な星々がありますのに、ここには、十あまりの星玉があるばかりです。もちろん、どれも美しい玉ですが、天とくらべて少なすぎる気がします」
清照が指摘すると、ヘリオスフィアは驚きに目をみはり、次いで表情をこわばらせた。
「いや、お前の見たとおりだ。以前はもっと星玉があったのだが、天香国との戦のときに、多くが失われた」
月季が表情をこわばらせ、手をにぎりしめた。戦をしかけた天香国の公主として、少なからず責任を感じたのだろう。
「もちろん、城が落とされる前に避難させて、無事だったものもあるが、壊れたり、失われたものも多い。このオールトの守護星である明けの明星の玉も、行方不明のままだ。……古の聖者が最初につくりだした星玉で、三百年の星の光を集めた、トルクエタムの至宝でもあったのだが」
「ヘリオスフィア王子。新しい星玉をつくることはできませんの?」
月季が尋ねた。
「無論、できればそうしたい。だが星の光を封じるのにふさわしい玉は稀だ。清浄に澄んだ、かたい玉でなければならないからな。色も、星と同じであることが望ましい」
「わたくしが持っている崑崙の玉では、お役に立たないでしょうか……?」
ヘリオスフィアは月季を見た。月季は息をつめて、ヘリオスフィアの返答を待っている。その顔を目にして、ヘリオスフィアもわずかに表情を動かした。
おそらくヘリオスフィアは、このときはじめて月季を、心を持つひとりの少女をして見たのではないか——そんなふうに感じられる表情の変化だった。もちろん、真意の程はわからないが、少なくとも、厳しい鋼色の瞳がやや和んで見えたのはたしかだった。
「あなたがお持ちの玉は、すばらしい玉に違いない。月季公主。だが、お心遣いはありがたいが、どれも既に精霊を宿しているのだろう。今から星の光を集めなおすのはむずかしいし、できたとしても、先に玉に封じられていた精霊が気の毒だ」
口調も心なしかやわらかくなったように、清照には感じられた。
しかし月季は、残念そうに顔を伏せる。
「そうですか」
そのとき、ヘリオスフィアと月季を見守っていた李冰陽が、口を開いた。
「月季公主がお気に病まれることはありません」
「ですが」
「本当に、お気になさらないでください。オールトの守護星の星玉が失われたのも、城市が落とされたのも、オールト内部に裏切り者がいたからだと見られています。でなければ、トルクエタムが負けるはずがありません」
「……裏切り者ですって?」
ヘリオスフィアがさっと顔をあげた。
「冰陽。やめろ」
聞こえたはずなのに、李冰陽はヘリオスフィアの言葉を無視してつづける。
「トルクエタムでは、多くの者がそう考えております。星玉がありさえすれば、先の太守であるアリダード様はその力を使い、天香国の軍を退けることができたのですから。あの方は星玉の力を引きだすことに長けておられました。敵味方双方に、死者をひとりもださず戦を終わらせることもできたでしょう」
宙を飛ぶ星玉へと目をむける。
「しかし実際には、星玉の力が使われた形跡すらありませんでした。天香国が攻めてくるより前に、既にオールトの星玉が失われていたとしか考えられません」
李冰陽の口調には、月季への慰めよりも、トルクエタムは天香国に負けるはずではなかったという強い矜恃と、そして裏切り者への怒りが強くにじんでいた。月季はうろたえて、そんな李冰陽を見ている。
「やめろと言っている、冰陽! 公主にお聞かせする話ではない」
厳しい叱責に、李冰陽はやっと口をつぐんだ。
「失礼いたしました。——公主にも、不快な話をお聞かせして、申しわけありませんでした。お許しください」
「わ、わたくしはなにも」
ヘリオスフィアはため息のかわりとでもいうように髪をかきあげ、ため息をついた。
「月季公主。もうお戻りになるがいい。杜清照も、これ以上問題を起こすな。——そして冰陽、お前も宮殿に戻れ。星玉は俺が戻しておく」