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清照は近くの岩場にのぼり、絶塞のすぐ北側に流れるキュビワノ河を見おろした。
ヘリオスフィアも言っていたとおり、見た目はただの谷で、水はない。大地の裂け目のような急な谷の底に草が生え、木々が茂っている。
谷には吊り橋が架かっていた。上から見るかぎり、橋が壊れているようには見えないが、橋の中ほどでは人が集まって、なにやら作業をしている。補修工事でもしているのだろうか。
対岸には集落があり、その脇から谷底にくだる、ほそく急な階段がつづいていた。伏流水で谷底に水がないから、橋がなくても階段でくだり、また対岸にあがるという手段もとれるのだろう。
(だがあの階段はかなり狭い。あれでは大きな荷物や行列をわたすことはできないな)
月季はおもしろがるかもしれないが、官吏たちは体裁が悪いと嫌がりそうだ。
(ヘリオスフィア王子の言っていたことは、でまかせではなかったのか。——まあ、橋の補修も、偽装の可能性はあるが)
そのとき背後に気配を感じて、清照はふりかえった。
視線に応えるようにして、岩陰から男が三人、あらわれた。顔立ちも服装も、見るからにトルクエタム風、あるいは西方風である。前にいるふたりは、見るからに腕っぷしが売りというような、体の大きな男たちだったが、少し下がって立つ男は、それほど背が高くも、たくましくもなかった。ただし、雰囲気は不穏だ。
「あんたみたいな女が城外のこんなところにひとりでくるなんて、感心しないな」
先頭の男が、清照に近づきながら声をかけてきた。天香国の言葉だが、訛りがきつい。
「案内をしてやるよ。俺たちと一緒にこい。そのほうが安心だろう?」
もうひとりも、媚びるように清照に言う。
『なにを言っているのかわかりません。人違いでは?』
トルクエタム語で答えると、ふたりの男たちは下品な笑みを消し、動きをとめた。が、彼らが後ろをふりかえる前に、背後に控えた男が鋭く言った。
『宮殿からでてきたのは、間違いなくその女だ。目を離すんじゃない』
男たちが清照に注意を戻す。
だが清照は、前にいる男たちを無視して、彼らの背後にいる男だけを見据えていた。男も無言で清照を値踏みしている。
前のふたりが、ふたたび清照のほうへ踏みだしてきた。
清照は杖をにぎりなおした。そして、男たちがもっと近づいてくるのを待つ。
『女だからといって油断するな。かなりの使い手だぞ』
背後の男が、前のふたりに注意をうながした。
『わかってるさ、兄貴』
前の男は笑いながら、腰にさげた直剣を抜いた。もうひとりも、西方風の半月刀を抜く。
『役得だな。兄貴の仕事も、いつもこんなだったらいいんだが』
『まったくだ。傷をつけるのは惜しいよ』
「姐ちゃん、暴れるなよ? おとなしくしてたら、お互い楽しめるんだ」
清照は、ふらっと無造作に大きく踏みこんだ。傍目には誘いに応じたように見えて、男たちも戸惑ったように剣先を下ろしてしまった。
『おい——』
背後の男が警告しかけたときには、清照はすでに杖を鋭くくりだしていた。
清照が持っていたのは、羊飼いの杖だった。これは杖の梢、つまり上端が鉤状に湾曲しているのが特徴だが、なぜ鉤状にまがっているかというと、家畜の足や首にひっかけて、とらえるためなのである。
清照も鉤を男の足首にすばやく引っかけて、強く引いた。まったく予想していなかったのだろう、男はあっけなく姿勢を崩し、無様に仰向けに倒れる。清照はすばやく、男が握っていた剣を岩の隙間へと蹴りとばした。
倒れた男は、うしろにいた男を阻む障壁となってくれた。次の男がすすみあぐねているところへ、清照は倒れた男を踏みつけて飛びかかり、長い杖で襲う。
最初の梢での突きは紙一重でかわされたが、清照は返した杖の根元の把で、うしろの男の手首をしたたかに打った。
男はたまらず半月刀を取り落とした。清照はこれも遠くへ蹴ってしまう。
ふたりとも丸腰になったが、ここで手をゆるめる清照ではない。むしろ、相手の弱ったところを執拗にいたぶる意地の悪さこそが、蜂のごとしと怖れられる清照の持ち味だ。
息もつかせぬ勢いで、梢と把を交互にくりだし、ふたりを同時に攻める。岩だらけの足場の悪さなど、ものともしない。身体ごと回転させながらくりだす動きは、見る間に勢いを増していく。旋風のようだ。
仲間のふたりが一方的に清照にやられているあいだ、離れて立つ男は無表情のまま、身じろぎもしなかった。仲間の武器を拾って助けようというそぶりさえ見せない。
(こいつ……)
『くそ、この女!』
『ふたりで同時に女をつかまえるんだ! お前はそっちから行け!』
無手の男ふたりは、両側から清照を挟みこんでつかまえようとした。清照はぎりぎりまで相手をひきつけ、するりと身をかわした。そして勢いで正面からぶつかった男たちを、ふたりまとめて打ちすえてしまう。
「……う……」
男たちは小さくうめいて、抱きあうように地面に崩れ落ちた。そんなふたりを無視して、清照は残った男をにらみつける。
短剣を握るこの男は、終始安全な場所で争いを見物していた。それが清照にははなはだしく気に入らなかった。
怒りでうわずりそうになる声を抑え、杖を男に突きつけて言い放つ。
「次はお前だ。武器をかまえろ」
だが男は、思ってもみなかった行動にでた。やにわに身をひるがえしたのだ。仲間を見捨てて逃げるつもりらしい。
「逃がすか!」
清照は叫ぶと、手甲のあいだから鏢を抜きだし、男の背中にむけて投げつけた。
「——あっ!」
そのとき、べつの方向から若い男の焦った声がしたかと思うと、飛んできたなにかが鏢とぶつかり、もろともに地面に落ちた。見れば、柄に玉をはめこんだ刀子だ。
この隙に、短剣の男は岩のあいだをすりぬけ、のりこえていた。
清照は急いで追いかけたが、男は周到にも岩の下に馬を用意していた。岩から飛びうつるようにして鞍にまたがると、馬は待ちかまえていたように走りだす。
「待て!」
清照は鏢を投げようとしたが、岩が邪魔になって狙えない。
そのとき風が強く吹いたかと思うと、鋭い音を立てて、清照のすぐ横を矢が飛んでいった。
翠色の矢羽根だ。
弧を描いて飛ぶはずの矢が、ありえない動きで岩のあいだをかいくぐり、馬にのった男に追いすがった。そしていきなり浮きあがったかと思うと、男の背に迫る。
しかし男もかなりの使い手だった。馬上で体をひねると、短剣の一閃で矢をはじきとばす。そしてたちまち、岩山のむこうへと逃げてしまった。
清照は舌打ちすると、邪魔をした者のほうへふりかえった。
若者が岩陰からあらわれた。手には短弓を持っている。
「ヘリオスフィア王子」
「……まさか刀子と鏢が空中でぶつかるとはな」
頭の布を背にはねのけると、清照に歩みよってきた。
「同じところを狙ったからだろう。それより、なぜこんなところにあなたがいる」
「それは俺の台詞だ!」
ヘリオスフィアは髪をふりみだす勢いで清照につめよった。
「貴様、女官のひとりを気絶させただろう!」
清照は思わず、口の端をあげた。
「衣を脱がせたとは言わないんだな」
「お前な!」
「すぐに人を呼ばれると困るので、全裸にしたんだが、見たか?」
意外や、ヘリオスフィアは真っ赤になった。肌が白いから目立つのかもしれない。
「だいたい、昨日も今日も、どうやって離宮から抜けでたんだ」
「言うわけないだろう。次からその経路が使えなくなるじゃないか」
「ふざけるな!!」
青灰色の目をむくヘリオスフィアの前で、清照は悠然と鏢を手甲に戻した。
それから、まだ倒れたままのごろつきたちを足先で指し示す。
「念のために聞くが、こいつらは王子の差し金で私を襲ったんじゃないよな?」
ヘリオスフィアは顔色をあらため、眉をひそめた。
「当たり前だ。昨夜の今日で、こんなことをするものか。しかも逃げた奴はともかく、こんな明らかにお前より弱い奴を」
不機嫌そうに言った。兵士が清照に痛めつけられたことを、かなり気に病んでいるようだ。今も供さえつけずに清照を追ってきたのは、家臣をまきこまないためだろうか。
ヘリオスフィアは、倒れた男たちのほうへあごをしゃくった。
「お前のほうは、この男たちに心当たりはないのか」
「見覚えはない」
「たまたま、狙われたということは——」
「それはない。どう見ても、ふだんトルクエタム語で喋っているとおぼしき奴らが、わざわざ訛りのある天香国の言葉で私に話しかけてきたからな。どうやら宮殿を脱けだすところを見られたようだが、そのときも女官の衣装を着ていたし、今だってトルクエタム人に見えるはずなのに。少なくとも、天香国の人間であることを知った上で、襲ってきた」
ヘリオスフィアは、はじめて気づいたというように清照のトルクエタム風の格好を見つめ、うなずいた。
「たしかに。よく化けたな」
「着付けや着こなしを教わったおかげだ」
清照は肩にかかった髪を、背のほうへはらった。
「それと、逃げた男は、こちらがまだなにもしていないうちから褒めてくれたぞ」
「褒めた? なにを?」
「私を、手練れだと。どこで見たのか、あるいは誰かから聞いたのか」
「ふむ」
ヘリオスフィアは眉をひそめ、腕を組む。その顔を、清照は横目でにらんだ。
「逃げたあの男は、あきらかに騎馬の民だった。そして私が騎馬の民の前で技を披露したのは、二度。盗賊に襲われたときと——昨夜だ」
ヘリオスフィアは黙っている。だが傲慢に無視しているというふうではない。むしろ深刻に懊悩しているように見えた。清照はにらむのをやめたが、彼は気づかなかっただろう。
「……まあ、今の男が天香国に雇われているとすれば、私の腕を知っていてふしぎではないが」
ヘリオスフィアは眉間のしわをゆるめて、呆れたように清照を見た。
「おい。仮にもお前は天香国の宮女だろう」
「国みたいなややこしいものは、私は知らん。私はただひとり、月季公主にお仕えしている。あの方はいいぞ。単純で」
ますます呆れたように、天を仰ぐ。清照は笑った。
「それより、先ほど矢が奇妙な動きで飛んだのはあなたの力か、ヘリオスフィア王子? 天を操るという、渾天教の神官の力だな」
ヘリオスフィアは返答をいちど飲みこむような間をおいて、ちらと清照を見やった。
「……そうだ。俺も冰陽と一緒に神官の修行を受けたからな。少し心得がある」
そこでヘリオスフィアは、声を大きくした。
「だが先刻のような術を使うことは、神官の本来のつとめではない。人が天を操るなど、おこがましいにも程がある! 偉大なる天のご意志ははかりがたく、太陽や月、星々の動きの霊妙な秩序すら、我々人の理解をはるかに超えたものだ。星々がめぐり、季節が移り、雲が流れて風が吹く——人はその働きを学び、天のご意志を推測する。魔を退けたり、風を操るといった術はそうした探求の派生的なものだし、操れるのも、せいぜい地表の風の流れを少しそらせる程度だ。しかし本来目をむけるべきは、至高なる天空なんだ」
熱い口調で力説され、清照は思わず目をむいた。このままでは天の教えを説教されてかねないとみて、話の流れを戻す。
「それでも、あれだけ自在に矢の動きを操れるとなれば、使いどころは多いだろう。人の役に立つこともあるはずだ」
「正確には矢を操るんじゃない、風を起こしているんだ。人がつくった風に矢をのせて飛ばすのは、かなりの修練がいる。自分の風だからなんとかできることで、思うほど役には立たないぞ。せっかくの狙いもそれるし、矢の向きを変えれば、勢いはかなり弱まるしな。敵兵や馬が驚くことが、実はいちばん効果があるくらいだ」
「なるほど」
「戦場ではむしろ、他の兵の邪魔になりかねない。軽く追い風をつくるくらいなら役に立つが、それも風のない日くらいだな。人がつくった風が天の風とぶつかると、かえって空気の流れが乱れるから」
清照はうなずいた。
ヘリオスフィアは腕を組んだ。
「さて。そろそろこいつらを起こして宮殿につれていくか」
「そうだな。逃げた男のことも、こいつらに尋ねればある程度わかるだろう。以前から知り合いだったようだ」
ごろつきの腕を引こうとして、ヘリオスフィアははっと手をとめた。
「……おい。死んでるぞ」
「まさか!?」
清照は飛びつくように、男たちのそばに膝をつく。たしかに、ふたりとも息をしておらず、胸の鼓動もとだえていた。瞳孔も開いている。
「そんな——そんなはずは」
動転しながらも、ヘリオスフィアと一緒に男たちを調べると、首筋に皮膚の色の変わったところがあった。変色した部分をよく見れば、虫に刺されたような小さな跡がある。
「おそらく、毒だな。吹矢かなにかじゃないか。どこか岩の隙間に、落ちているかもしれん。気をつけろ」
清照は衝撃で、動けずにいた。あの男は、仲間ふたりが清照と戦っているさなかに、吹き矢を放ったというのか。劣勢だったのを助けようともせず、そればかりか、毒をしこんで殺すとは。
(最初から、なにかあれば仲間を始末するつもりでいたのか)
いや、そんなものは仲間とは言わない。
このふたりは、男を『兄貴』と呼んでいたのに。
「あいつ……!」
清照は唇を噛む。
ヘリオスフィアは清照になにか言いたそうにしていたが、けっきょくなにも言わずに男たちの死体に目を移した。
「毒で殺された死体を城内に入れるわけにはいかない。あとで人をよこそう」
ため息をついて言った。
「お前にもくわしい話を聞かねばならん。宮殿に戻るぞ」
だが宮殿に戻っても、清照がヘリオスフィアにくわしい話をする時間はなかった。
清照のいないあいだに、月季に毒が盛られたのである。