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オールト宮は、ひとつの大きな建造物だけではなく、同じ敷地のいくつかの建物が集まって形成されている。さらにそれら建築物群は、政治を行う公的な場である外廷と、私的な生活空間である内廷に、大きくわかれていた。
素朴なまでの外観とはうってかわって、建物のなかは目をみはるほど壮麗だった。巨大な穹窿の天井にも壁にも、そして床にまで、美しく彩色された陶片で、隙間なく複雑な幾何学模様が描かれている。まるで万華鏡にかこまれているかのようだ。くりかえされる精緻な模様を目でたどっていると、あらゆる色があふれてでて、現実感を失うと思われた。
こまかな模様にかこまれているのに圧迫感もなく、むしろ広く明るく感じるのは、天香国の宮殿のように御簾や帳でかこまれていないせいだろうか。
廻廊でかこまれた中庭には木々や葡萄棚が爽やかな影を落としている。泉や噴水も涼やかな音を立て、ここが荒野のなかにある都市であることを忘れさせるようだった。
庭園のあちこちで群れる孔雀や鸚鵡が、彩りをさらにゆたかにしていた。
邸内でも、いたるところに薔薇などの花が植わった鉢や花瓶がおかれ、爽やかな芳香がたちこめている。窓辺では楽人が琵琶のようなかたちの楽器を弾きながら異国の歌をうたっていた。ヘリオスフィアや月季の列がそばを通りかかっても楽人は目礼するだけで、歌をやめることはなかった。紫微宮では考えられないことだ。
通された広間の中央には花園のような絨毯が敷かれ、数々の料理が並べられていた。そのまわりには、刺繍で飾った巨大な座牀(長椅子)が配置されている。
ヘリオスフィアと月季はむかいあって腰をおろし、清照は月季の、李冰陽はヘリオスフィアの背後にそれぞれ控える。当然、清照はヘリオスフィアと李冰陽に対峙するかたちになった。
「——あらためて、遠いところをよくお越しくださった、月季公主。心より歓迎申しあげる。慣れぬ荒野の道には、さぞ難儀されたことだろう」
ヘリオスフィアは月季とそのうしろに立つ清照を観察するように見つめ、つづける。
「トルクエタムは、ほんの数代前までは多くの小さな部族に別れていた新興の国。今でこそ都アンティキティラには七天宮殿がそびえているが、我が祖父も幼いころは、青天の下にある穹廬(幕家)でお育ちになったそうだ。雅やかな天香国の公主であられる月季殿には、今後、野蛮と驚かれることも多々あるだろう。しかし月季殿には、我が花嫁として、一日もはやくトルクエタムの風俗に慣れていただきたい。同時に、天香国の優れた文化を伝えていただければ幸いだ」
「もちろんでございますわ、王子。精一杯つとめます。どうか、何事もよろしくお導きくださいませ」
月季は熱心な口調で返す。ヘリオスフィアは感じいった様子もなくうなずいた。
「心ばかりの小宴をもうけたので、今宵はどうか心ゆくまで食べ、飲んで、疲れを癒してほしい」
一同はようやく、料理に手をつけはじめた。並ぶ料理は、串焼きや饅頭、肉や野菜をくわえた炊き込み飯などだ。見た目は天香国の料理と似たものもあるが、匂いはまったく違う。腸詰めや揚げ物となると、見たこともない珍しいものばかりだった。
好奇心の強い月季は興味深そうに、まずは手をのばして口に運んでいる。そしてそのたび驚いたり、目をみはったりしていた。いっぽう官吏には、顔をしかめている者や、泣きそうな表情をうかべている者も多い。葡萄酒ばかりあおっている者もいた。
「我が国の料理は、お口にあいませんか」
李冰陽が穏やかな声で、しかし単刀直入に尋ねた。甜瓜や杏、柘榴や無花果など果物ばかりをつまんでいた大衍が、あわてて言いつくろう。
「ああ、いや、明日からはまた厳しい荒野を旅するわけですから、あまり食べすぎたり飲みすぎたりしますと、道中きつくなると思いまして」
大衍の答えに、ヘリオスフィアがひょいと眉をあげた。
「明日から?」
大衍も驚いたようにほそい目をみはった。
「そうです。アンティキティラの都に出立しなければならないでしょう? 一日もはやくヘリオスフィア王子と月季公主の婚礼をあげ、我が天香国とトルクエタムの友好を盤石のものとせねばなりませぬ」
「ああ、そのことだが」
ヘリオスフィアはちらと、背後の李冰陽と視線を交わした。
「実は、このオールトのすぐ近くにあるキュビワノ河の橋が壊れて、わたれなくなっている。したがって公主やおそばの方々には、橋が修理されるまでのあいだ、このオールトで休息して、力を取りもどしていただきたい。アンティキティラへの漠北街道は、慣れぬ方々には険しい道だし、ちょうどよいだろう」
大衍たち官吏は、焦ったようにいっせいに顔を見あわせたが、月季だけはべつのことに驚いて声をあげた。
「キュビワノ河? まあ、このあたりに河がありますの?」
ヘリオスフィアは肩をすくめた。
「伏流水だ。深い谷になっており、谷底には木々や草が茂っている。一見したところ地上には水はないが、地下に流れがあるのだ。天香国の方々にとっては川とは言えないかもしれないが、橋をわたるという点では同じだな」
「なんておもしろいのでしょう!」
「おもしろい?」
月季は子供のようにうなずいた。その反応が思いがけなかったのか、ヘリオスフィアはやや困惑した様子だった。
大衍はいらだちもあらわに身をのりだす。
「おそれながら、そのような大事なことは、我々にも知らせていただかなければ……。公主のご行程は、天香国へもくわしく報告しているのですから」
「あなた方は、既にトルクエタムの領土の内にある。トルクエタムでのことは、すべてこちらが采配しご案内するゆえ、黙ってしたがっていればよい」
ヘリオスフィアは冷ややかな口調で切り返した。大衍はじめ、官吏たちはいっせいに黙りこむ。それを見て、ヘリオスフィアはやや口調を和らげた。
「例の、ご一行を襲った盗賊のこともある。残念ながら、オールト周辺の荒野にはああした盗賊がきわめて多いのだ。この機に奴らを徹底的に討伐しようと考え、配下の兵に命じ、足取りを追わせている。アンティキティラへ出立するのは、それからでもいいだろう。こちらとしても公主ご一行のために万全を期したいからな」
(どうだか)
清照は心のなかで毒づく。
盗賊の討伐がいつ終わるのか、そもそもヘリオスフィアたちに終えるつもりがあるのか、わかったものではなかった。
宴のあと、天香国の一行は迎賓殿に案内されたが、月季とその侍女はべつの場所にある離宮へと通された。
美しい、瀟洒な離宮だった。幾何学模様で埋めつくされているのはほかの部屋と同じだが、こちらは淡い薔薇色と黄金を基調にしてある。ほかにも、ややほそめの柱や扉の優美な彫刻など、いかにも若い乙女の部屋にふさわしい可憐な趣があった。
座牀や寝台は天香国の上質の絹で覆われていたが、寝台の天蓋からたれる透かし模様の布は、西方のものらしい。こまかな織りには、誰もが感嘆した。ある戸棚には天香国の白磁の椀や西方の玻璃の杯が用意され、べつの戸棚にはさまざまな楽器がしまわれていた。
「お気に召したでしょうか」
案内してきた李冰陽が尋ねると、月季ははしゃいだ声で答えた。
「ええ、もちろんですわ、李冰陽! なんとすばらしいお部屋でしょう」
「代々の太守の、姫君たちのお住まいになっていた離宮です。先の戦でもほとんど被害はなく、無傷でした」
「代々の太守の——そうでしたのね」
月季は興味深そうに、あたりを見てまわる。
清照も部屋を見わたした。ただし、月季よりも抜け目なく、身を隠すならどこか、迎えうつならどう動くかということを考えながらだ。
さまざまな状況での動線を想定していると、こちらを観察していたらしい李冰陽と目があった。
いらぬ挑発は無意味だと思いながらも、清照は李冰陽を見つめ返す。李冰陽はヘリオスフィアのように露骨に眉をひそめたりはしなかったが、無難に目を伏せるような真似もしなかった。まっすぐに、清照を見返してくる。その緑の瞳は静かだった。あやうさはないが強靱で、これはヘリオスフィアより手強いかもしれないと清照は思った。
「——では李冰陽殿。月季公主のご寝所を浄め、結界を張りたいと思いますので、我が国の方士どもにこちらへまいるよう、ことづけていただけますか」
声をかけてきたのは、侍女のなかでは最年長の、梅花という女だった。月季の乳母子で、妹ふたりとともに月季に仕えている。
李冰陽は清照から目をそらして、梅花へむきなおった。悠然とした態度はどこか威圧的でもあり、梅花がわずかにひるんだ様子を見せた。
「天香国の方士は必要ありません。こちらの離宮は、天の教えに従って、高貴なる方にふさわしい清浄な場として浄めてあります」
「……なんですって?」
梅花は唖然として、二の句が継げずにいる。
その隙に、月季が無邪気に口をはさんだ。
「トルクエタムにも、場を浄める結界の術があるのですね」
「結界と申しますか、魔除けです。この壁に描かれている紋様は——」
李冰陽は、手で壁を指し示した。
「これらはすべて、星の紋様です。我がトルクエタムでは神聖な紋様とされており、悪しきものを遠ざけるのです」
「これが? 薔薇か蓮の紋様と思っていました。星が魔除けになるのですか」
月季は興味津々だ。
「はい。太陽、月などの星々は天上にあり、その美しい光と霊妙な動きで、我々に偉大なる天のご意思を示してくれます。いわば天からの使者。この部屋の壁の意匠は早朝の空を再現しており、東の壁に描かれているひときわ大きな金色の紋様が明けの明星——このオールトの守護星です」
梅花がようやく我に返って、口をはさんだ。
「こんな紋様などで、高貴な公主を悪鬼や邪霊から守れるはずはありません! 天香国の公主は、天香国の神と天子の血の御霊がひとつになった神霊により守られるのです。なんとしても方士たちを呼んでいただきます!」
だが擁護してくれるはずの月季が首をかしげた。
「ですがここは絶塞。方士の使役する天香国の精霊も、この地では充分に力を発揮することはできないのではないでしょうか。先日、清照もそう言っていました。そうでしょう、清照?」
思わぬところで話をふられた。李冰陽が興味深げに、梅花は恨めしげに清照を見る。清照はしかたなく、月季に同意を示して頭をさげた。
「……そうですね。やはり祭礼は、その土地で編みだされたものがもっともよいかと。公主も、それに慣れていかれることが肝要かと存じます」
月季は大きくうなずいた。
「わたくし、トルクエタムの術のありようを自分の目で見たいと思っていましたの。願ってもないことですわ。それにここは、先の戦でも被害を受けなかった建物という話ではありませんか。安心して休めます」
清照は思わず、月季を見た。しかし月季は壁の紋様を熱心に見つめていて、清照の視線にはもちろん、梅花の訴えるまなざしにも気づいていない様子だった。
李冰陽はうやうやしく月季に礼を取る。
「もちろんです、賢明なる月季公主。高貴にして清らかな明けの明星が、かならずや太守の妃となる公主をお守りくださるでしょう」
李冰陽の口調は自然な信念に満ちていた。トルクエタムの教えが、完全に身についているのだ。
清照は李冰陽に問うた。
「李冰陽殿は名も天香国風ですし、祖父君も天香国の出と聞きましたが、渾天教の教えに帰依しているのですか? 土地神や祖霊は、もう祀っていないのでしょうか」
「ええ。祖父は、トルクエタム人の祖母と結婚するときに改宗しましたので」
清照と李冰陽の会話を聞いた月季と侍女たちは、驚愕の表情をうかべた。天香国の人間にとって、血族や土地との関係を断ちきることなど考えられない。むしろ、祖霊や土地神を祀るために生きているといっても過言ではなかった。
李冰陽の祖父にとっても、重大な覚悟をともなうこと決意だったはずだ。しかし李冰陽はそれを知らないのか、口調はあくまで屈託なかった。
「それにトルクエタムでは渾天教とは申しません。それは天香国での呼び方で、こちらではただ、天の教えと呼ばれています。私は幼いころから、王子とともに神殿で天の教えをおさめ、神官の位もいただきました」
「神官ということは、その……術を」
では妖術使いなのかと月季が尋ねようとするのを、清照は袖を引いてやめさせつつ、李冰陽へ重ねて問うた。
「ということは、丘の上の神殿で、神官をつとめているのですか」
李冰陽は誇らしげにうなずいた。
「古の聖人が星を観察し、天の教えを広めたという、最古にして最大の神殿です。トルクエタムがまだ国の体をなさず、諸部族にわかれていたときも、天の教えが部族をまとめてきました。私は王子の側近ですが、オールトの神官長様に請われ、神官として天にもお仕えしています。王子もお許しくださいました。偉大なる天をたたえ、その知恵を学び、地上にそれを広めることが私の使命。それが王子の役にも立つと信じております」
熱のこもった声だった。月季や梅花たちは口をはさむことができず、李冰陽をただ見ている。
そのときそこへ、宮殿の女官たちが美しい布をかさねた盆をたずさえてきた。
「失礼いたします。こちらはヘリオスフィア王子より月季公主へ——トルクエタムの衣装一式と、装飾品でございます。どうかお受け取りを」
「ヘリオスフィア王子が?」
月季が衣装に歩みよる。清照はすばやく先まわりして盆から衣装を取りあげ、月季の前にふわりと広げてみせた。
それはゆるやかな、薄物の衣装だった。淡い地の色の布に花や鳥など色とりどりの刺繍をほどこした、いかにも女らしい品だが、そこは騎馬の民の衣装らしく、裾の脇に大きな切れ込みを入れて、動きやすい仕立てになっている。
薄物に合わせる袖のない胴着は、体にぴったりしたものだ。隙間なく幾何学模様を刺繍し、さらには真珠や銀、水晶の珠などをふんだんに縫いつけて、地の翡翠色がほとんど見えないくらいだった。
薄物の下には、細身の胡袴を着こむらしい。天香国では男でさえ武人しか身につけないものだが、持ちこまれたものは色目や寸法から見て、明らかに女物だ。
「まあ! 女性の衣装がこんなに動きやすそうだなんて」
活動的な衣装は月季の好みにかなったようだ。顔を輝かせて、清照の手から衣装を取った。
「ヘリオスフィア王子のお心遣いに感謝いたしますわ! くれぐれも王子によろしくお伝えください、李冰陽」
「お気に召したようでなによりです。それに、よくお似合いだ」
「似合う——わたくしに?」
男装ばかりしていた月季は、これまで衣装をけなされたことはあっても、褒められたことなどなかった。慣れぬことに、ろくに返事もできずかたまってしまう。だが李冰陽は月季の戸惑いに気づかず、ほほえんだ。
「ええ。濃い紅紫も威厳にあふれておられましたが、公主には明るく華やかなお色目が映えると思っておりました」
「そ、そうですか?」
月季の頬が、見る間に染まっていった。
そのかたわらで、清照は胴着に手をあてていた。みっしりとほどこされた刺繍と、縫いつけた飾り珠のせいで、板のようにかたい。
「こちらの刺繍の図柄も、星の紋様ですね」
李冰陽は清照を見やる。
「そうです。我々は、衣装など身につけるもののどこかにかならず星の模様を入れるのです。特に自分の守護星は刀に彫りこんだり、刺青を肌に入れている者も多いですね」
月季が目をみはった。
「人にも守護星があるのですか」
「もちろんです。トルクエタムの教えでは、人でも鳥でも、理と時に導かれて地上に生じたものはすべて、それを守護する星があるとされています。というよりも、星に導かれたからこそ、この世に存在するのです。守護星は、基本は自分が生まれた時間に天にあった星になりますが、両親や自分が属する部族の守護星などもかかわってくるので、もう少し複雑になりましょうか。ほとんどの場合、神官が占星術でさだめます」
「人の守護星と、部族の守護星には違いがあるのですか?」
「はっきりした違いはありませんが、部族を守護するのは、星座が多いですね。トルクエタムの王族を守護するのは北斗の七つ星です。ですから王族の者は、自分の守護星のほかに、七つ星の刺青を入れています。そして王の象徴は北の導き星なので、王に即位すれば導き星の刺青が増える、というようなところです」
「あなたも刺青をしているのですか、李冰陽?」
月季は身をのりだしたが、李冰陽は困ったように少し体を引いた。
「しております。……が、衣装の下ですので、ご覧にいれるのはどうかご容赦を……」
「ももっ、もちろんですわ!」
月季も真っ赤になって、飛びのくように後じさった。
「ただわたくしは、自分も刺青をするかもしれないと思って、どんなものかと」
「公主! なりません。公主のお肌に刺青など、とんでもないことです」
梅花は月季と李冰陽のあいだにすすみでると、李冰陽を睨みあげた。
「お心遣いはまことにありがたく存じますが、お衣装をお世話していただく必要などございません。お部屋だけでたくさんですわ。月季公主はそのお立場にふさわしいお衣装やお道具を充分に用意されてこちらに参っておりますし、今後も天香国から衣装代や化粧料をいただくのですから、そちらのお世話にはなりません」
梅花にすれば、部屋に天香国の術による結界を施せないだけでも、月季を不当に危険にさらしている心地がするのだろう。渾天教の魔除けにいたっては、天香国公主としての尊厳を汚されたとまで思っているのかもしれない。いや、歴史ある天香国そのものが、新興のトルクエタムに屈したと感じているのではないか。
(まあ、今回の婚礼の約定自体が、既に天香国には屈辱的なものなんだがな)
周辺の蛮国を懐柔するために、天香国の公主を降嫁させるというのは、今回がはじめてのことではない。そうした女性たちは、和蕃公主と呼ばれる。今回の婚礼も、天香国はおもてだっては絶対に認めないだろうが、天香国側が不利な立場ですすめられたものだ。梅花が言ったように、婚礼の際の持参金だけでなく、今後も毎年のように莫大な金を支払いつづけなければならないのである。
梅花の、月季に対する忠誠心や天香国の民としての矜恃は無理からぬものだが、トルクエタムにとっては片腹痛しといったところだろう。なにより、無礼である。それでも李冰陽は、やわらかな口調を乱さなかった。
「もちろん、わきまえております。ただ、失礼ですが、月季公主と侍女の方々は男装されていらっしゃるのではありませんか。これはやはり問題と思われますので」
「こ、これは——」
梅花は言葉につまりかけたが、なんとか踏みとどまった。
「これは、そう、武装です。公主が武術をたしなまれることは、そちらもご存じのはず」
「うけたまわっております。トルクエタムは騎馬の民。女も当然のように馬にのりますし、弓や剣をふるう者もおりますから、そこは問題ありません」
月季が両手を胸の前でにぎりしめた。
「かまいませんの?」
李冰陽は答えるように、梅花から月季に目を移した。
「もちろんです。むしろ歓迎いたします。……が、月季公主のお姿を拝見したところ、兵の男たちと変わらぬつくりの衣装をお召しのような。これはいかがなものでしょう。公主は王子の花嫁になられるというのに、男装とは。これではまるで、男が男に嫁ぐようです」
責めるではなく、生真面目な表情で指摘した。
月季はこれまで、公主が武人のようにふるまうことについて、なにをどう諭されても聞こうとしなかったものだが、李冰陽の論には、はじめて目を伏せた。
「男性としてふるまいたいわけではありません。わたくしはただ、部屋に閉じこもっているのが嫌いなだけですの。思うさま走ったり、天気のいい日には広い城外にでたり、武術によって己を鍛錬したいのです。でも天香国の女はきつい靴を履かされ、建物から建物に移るのにも輿を使うほどで、馬にのったり武器をふるおうとすると、男装というか武装をするしかないのですわ。それで……」
思えば理不尽な話である。月季は誰かを負かしたかったわけではない。ただ自由でありたかっただけなのに、そのためには軍装束を着こむしかなかったのだ。
「なるほど。事情はわかりました」
李冰陽はうなずき、月季に身をよせるように、わずかに身をかがめた。
「しかしせっかくの、和睦のための婚礼ではありませんか。我々はこの婚礼を広くしろしめ、国を挙げて盛大に祝うつもりです。ですが男の衣装を着たものがふたり並び立っては、混乱する者もでるでしょう。花嫁となられる公主には、やはり乙女としてのうるわしきお姿をご披露していただきたいのですが——いかがでしょうか」
「……お、乙女……」
月季は口ごもる。
「トルクエタムの衣装でしたら、乙女の衣装でも動きやすいので、馬にのれますし、槍や剣も使えますよ」
「それはありがたいことですわ」
「お待ちくださいませ、公主!」
梅花が叫んだが、だが月季は陶然としてまわりの声など耳に入っていない様子だった。すでに李冰陽にむかってうなずいている。
(うまくやるものだな)
清照は感心した。李冰陽という男、やはり穏健で寛容というよりも、したたかなくせ者と見るべきだろう。
莫大な財産とともに人質同然に送りだされた天香国公主を、婚姻の約定を果たさないまま辺境の城市に足どめした上、官吏や兵士とは引きはなし、さらには祭祀や衣装も取りあげる——経緯だけを見れば、トルクエタムは少々やり過ぎた感さえある。
とはいえ、この程度のえげつなさは、国と国との駆け引きにおいて、よくあることとも感じられた。トルクエタムも、自国のため当然のことだと思っているのかもしれない。
(だが、そう思いどおりにいくかな)
力が弱まっているとはいえ、伝統ある大国の枠にさえおさまらなかった月季が、そう簡単にトルクエタムに手なずけられるはずがない。少なくとも、清照はそう思っている。
清照は李冰陽に歩みよった。
「李冰陽殿。そのトルクエタムの衣装、我々侍女の分もご用意願えませんか」
そばで聞いていた月季は目をみはり、李冰陽はかすかに眉をひそめた。
「あなた方の?」
「主である月季公主がトルクエタムの衣装をお召しになるなら、当然侍女の我々も同じものを着るべきかと存じます。正式な着付けも教えていただかなければなりませんし」
最後はちらりと梅花を見ながら言うと、梅花はうなずいた。
「もちろんですわ! 月季公主の身の回りのお世話をするのは、私たちです!」
李冰陽はしばらく清照を見ていたがやがてうなずいた。
「そうですね。では、侍女の方々の分も用意いたしましょう。ただ、用意もありますので、今宵は月季公主のみということでお許しください」
表面上はにこやかに承諾した。
だが李冰陽の緑の瞳は、ちらとも笑っていなかった。