3
天香国が絶塞を奪い、占領したのは八年前のことである。
当時の天香国が強かったというと、それはない。一説によると、絶塞の側に内紛があったとも、裏切り者がいたとも言う。いずれにせよ、天香国側が戦に勝ち、トルクエタムの神殿を壊したのだが、しかしそこまでだった。天香国の方士たちは、かぐわしき天の霊気を新たに絶塞に呼びよせることができなかったのである。
土地は乾ききって開墾のしようもなく、絶塞を迂回するようになった商人たちも戻ってこなかった。あとを追うように住民や物資が絶塞から消え、城市はたちまち寂れた。天香国からの補給もとだえがちで、文字どおり陸の孤島となり、残っているのは、無理矢理に召集されてきた兵士ばかりとなった。
城門の外には生きるものの影ひとつないのに、夜には狼の遠吠えが不気味に響いた。夏の日差しはあらゆるものを焦がし、冬は雪が槍の刃先につもる。帰るあてのない兵の士気は低く、絶塞にまとわりつく悲哀は日々深まるばかりだった。
絶塞が一年ともたずにトルクエタムに奪回されたのもふしぎではない。あるいは天香国が、この荒野の城塞を見捨てたのかも知れなかった。けっきょく最後まで『絶塞』などという身も蓋もない呼び名しかこの都市に与えられなかったことからも、それはうかがえる。
トルクエタムは、取りもどした城市に多くの工人を送りこみ、神殿を復活させた。そして街道の安全を確保し、市場や隊商宿を建てなおし、商人たちを呼び戻した。
もともと交通の要衝だったところだ。戦が遠のいたとたん、人は戻ってきた。
さらに二年前に第四王子のヘリオスフィアが太守になってからは、神殿に付属の知恵の館を設立し、天文学者や数学者、翻訳家、占星術師に詩人といった者たちを集めている。
天香国にとっては西の果てにある辺塞は、トルクエタムにとっては逆に、領土のもっとも東にある都市だった。
そこから太陽と月、そして星々がのぼりいづる、聖なる地である。
トルクエタムでは、ここを絶塞ではなく、オールトと呼んだ。
「——あれが絶塞?」
重なりつづく丘のむこうにあらわれた城市を見て、月季は驚嘆の声をあげた。
「まあ、なんと大きく立派な城市でしょう!」
官吏たちも絶塞をよく見ようと、馬車からおりる。宦官たちも列を乱し、声をあげ、我先に見晴らしのいい場所に立とうとしたり、背伸びをしたりしていた。
「なんと高い城壁か。おまけに、見ろ、あの壮麗な丸屋根の建物を。玻璃のように光っているぞ」
「いやいや、あの尖塔の高さをごらんあれ。しかも、あんなにたくさん」
「城市のまわりに点在する館や集落も、立派なものばかりではないか」
「しかも、ほれ、あのように緑が。もしや、畑もあるのか。吐勒靼(トルクエタム)は砂だらけの地と聞いていたが」
清照だけが平静な顔で、小さくため息をついた。
「立派な城市だと申しあげたでしょう。考えても見てください。絶塞は大砂漠の東の出口に位置しています。漠北、漠南、いずれの街道を取るにせよ、西方から天香国へ行くには絶塞を介することになります。開普勒の工芸品、布拉赫の黄金や鉄、崑崙の玉などもほとんどが絶塞を経て運ばれてきているのです。逆に天香国の絹が西へ行くときにも、絶塞をとおらねばなりません。しけた邑(村)のはずがないじゃないですか。天香国で絶塞をことさらに侘しく厳しい場所のように強調するのは、敗退したことの言い訳でしょう」
「清照! あの高台にあるひときわ大きな建物が宮殿でしょうか?」
月季は聞いていない。いかなる感情もおもてに見せず、清照は慇懃に答えた。
「……渾天教の神殿ではないでしょうか。トルクエタムでは、もっとも高い場所に神殿を建てると聞いております」
「あれが神殿!? では宮殿はどこなのですか?」
「神殿の近く、高台の裾野あたりかと」
「城壁があるのでよくわかりませんが、塔が林立しているところにある建物でしょうか。まあ、あちらの建物もなんと立派なことか」
そのときだった。
「——八年前、トルクエタムがオールトを奪回したときは、神殿はなく、城市は荒廃しきっていた。それをやっとここまで復興させたのだ」
月季たちの一行の興奮に水をかぶせるような、冷厳とした声が響いた。
ヘリオスフィアだった。目深にかぶりなおした布の下から、清照と月季をじっと睨んでいる。
「我々は天香国に破壊された神殿を建てなおし、枯れた井戸を浄めた。今は風にそよぐ緑の木々のいくつかは、俺が太守となったとき、みずから苗を植えたものだ。今あの城市にいる者たちは皆、ひとり残らずあのときの惨状を記憶しているし、復興の労苦も味わっている。お心にとめておいたほうが、よろしいかもしれぬな」
敵意とまではいかないが、厳しい口調だった。
最初から、彼はかたい態度をとりつづけていた。月季とはほとんど喋ろうとせず、たまに口を開いても、今のように会話にならない刺々しい言葉だけだ。そのくせ、監視するような視線をたびたびむけてくる。
こうした態度については、月季はじめ天香国の誰もがある程度は覚悟していたことだ。少し前までは敵国であり、戦をして殺しあっていた国に政略のため輿入れするのである。いわば人質も同然だった。
それでもこうして実際ににらまれると、覚悟していたはずのことでも、なおひるまずにはいられなくなる。興奮していた天香国の者も、すべて黙りこんでしまった。
だが月季はいちはやく立ち直り、表情をあらためた。
「恥ずかしながら、たしかに天香国は力が足りず、この城を荒れさせ、民を苦しめてしまいました。こうして城が復興し、民は喜んでいるならば、それがなによりですわ。わたくしもよみがえった絶塞を訪れることができて、嬉しく思っております。今後は王子と力をあわせ、この城市がさらに栄えるよう、力をつくす所存ですわ」
だがヘリオスフィアは答えず、そのまま目をそらした。
(なんだ、こいつは)
思うと同時に、清照はヘリオスフィアの背中に問いかけていた。
「ヘリオスフィア王子の御髪と瞳は、生まれつきでいらっしゃいますか」
唐突な問いに、月季や官吏たちは戸惑ったようだ。だが清照は動じず、じっとヘリオスフィアの背を見つめつづけていた。
ヘリオスフィアはゆっくりとふりかえり、清照を睨んだ。
「……そうだ。だが明るい色の髪と瞳など、トルクエタムでは、珍しくもない。紅毛碧眼の者も、縮れた黒髪に黒い肌の者も、大勢いる」
「それでも王子ほどに見事なお髪や瞳となれば、やはり稀有でございましょう。長春の紫微宮ならば、詩人がこぞって歌にするところです」
清照の発言はこの世辞をいうための流れだったのかと、天香国の官吏たちは得心したようだ。そして追従ならば、官吏たちのもっとも得意とするところでもある。我先にと賛同し、うなずいた。
「おお、たしかに。詩人が西方の美酒と絡めて歌いあげそうな」
「夜光の杯、馬上の琵琶ですか。王子なら画になられても映えましょうな」
だがヘリオスフィアは、不愉快そうに眉をひそめた。
「雅やかな貴国とは違い、トルクエタムは蛮国。詩にしろ画にしろ、男子の容貌を歌うなどという風習はない。やめてくれ」
不機嫌さを隠そうともせず言い捨てて、去った。月季や官吏たちはやや呆気にとられて、ヘリオスフィアを見送る。清照だけが、平然としていた。
「清照? どうしてあのようなことを王子に申しあげたのですか」
月季に問われて、清照は肩をすくめた。
「いえ。王子の瞳や髪を、あれほど褒めちぎっていたトルクエタムのお使者が、その色に触れなかったのはどういうわけかと思いまして」
「そういえば、そうですね」
「どうやら王子は、髪や瞳のことに触れられるのがご不快のご様子。理由はわかりませんが、微妙な問題のようです」
月季はしょげたように目を伏せた。
「そのようです。わたくしも、王子はじめトルクエタムの方々とお話しする際には、気をつけなければなりません」
先刻のヘリオスフィアとの会話を、まだ気にしているようだ。
「公主は甘くていらっしゃる。私など、今後また王子が腹の立つことをおっしゃれば、お返しに髪と瞳のことで褒め殺してしまえばよいと考えていましたのに」
「まあ、清照。いけませんよ」
月季は呆れたように苦笑する。だが苦笑とはいえ、その笑顔は緊張が解け、くつろいでいると見えた。
やがて一行は、商人たちとはべつの、絶塞の正門に案内された。トルクエタムの王族や、異国からの賓客だけが使うという、巨大な城門だ。高くそびえているわりに幅が狭いので、どこか天にむかってかかげられた剣にも見える。
『開ー門ー!』
独特の歌うような節回しで告げられ、長い門に入った。門は隧道のように長いので、扉は外と内にふたつある。つねに影になっている場所の、冷んやりとした湿気と暗さを妙に懐かしく思いながら長い門をくぐり終わり、ようやく城内に足を踏みいれた。
とたん、雑踏のざわめきとやわらかな風が、清照たちを包んだ。
「これは……」
月季はそれきり、言葉を飲みこんだ。
そこはまぎれもなく、大都市だった。広漠とした荒野のただなかに、これだけ整備された道路や建物があり、大勢の人がいるということが、にわかには信じがたかった。
道路は、長春の都のように南北と東西の大路を交差させていなかった。絶塞の兵が先導して路上の人や荷車、犬を払い、そのあとを、天香国の行列が静かにすすんでいく。
沿道には、大勢の人々がつめかけていた。その多彩な容貌は驚くばかりで、被り物や衣装も千差万別である。
いちばん多いのは、天香国と同じ、黒い髪と目の人々だったが、肌の色はやや濃い。ヘリオスフィアが言ったとおり、明るい色の髪と瞳をしている者も珍しくなかった。青や緑の瞳に金髪の者もいれば、縮れた黒い毛に黒檀のように黒く艶のある肌の者もいた。
容貌だけではない。絨毯や果物をたずさえた商人、道具をかついだ職人をはじめ、馬にのった兵士、輿にのった貴族、楽師の一団に妓女と、職業も多彩だった。天香国の衣装を着たものもいる。
共通しているのは、好奇心に満ちた表情だろうか。ヘリオスフィアそっちのけで、異国からの行列をもの珍しそうに見物している。生き生きとしたまなざしだが、これが一行には、居心地が悪いことこの上なかった。天香国では、高貴な身分の者の行列に際しては、民は拝跪して輿や馬車を直視しないのが礼儀だったからだ。それでも、つい最近までトルクエタムが天香国とは敵国だったことを考えれば、怨恨を感じさせないだけましかもしれない。
(昨日の敵は今日の客、か)
交易都市なのだと実感する。おそらく、天香国はこの空気を理解できなかったから、絶塞を活かせず手放すはめになったのだ。
清照はヘリオスフィアに視線をやる。沿道の民に目をむけるでなく、月季をふりかえって城内の説明をすることもない。まっすぐに伸びた背中はよそよそしく、心中をうかがい知ることができなかった。
と、清照の目に気づいたとでもいうように、ヘリオスフィアが唐突にふりかえった。
あえて視線をはずさずにいると、期待どおり、ヘリオスフィアは馬のむきをかえ、清照のほうに近づいてきた。
「先刻の女だな。名は」
問われてやっと、清照はかたちばかり目を伏せた。
「杜清照と申します、ヘリオスフィア王子。月季公主の侍女をつとめております。先ほどは失礼いたしました」
「侍女か。護衛ではなく?」
「公主をお守りするためとあらば、我が命も投げだします。剣や弓ですむことならば、そちらを手にいたしますが」
ヘリオスフィアは清照をにらみつける。鋼のような色の瞳は、鋭い視線とあいまって刃に刺しつらぬかれるかと思えた。が、清照は視線をそらさない。
やがてヘリオスフィアは小さく、吐き捨てるようにつぶやいた。
「お前の剣は、守るだけの剣ではない。……不審な奴め」
そのまま顔を背け、離れていく。
(怪しいと思われたか)
まあ、無理もない。肩をすくめようとして、月季が案じるように交互に清照とヘリオスフィアを見ていたことに気づいた。
一行は粛々と、道をすすんでいった。
都市は道路も建物も、日干し煉瓦でつくられていた。熱い日差しを避けるためだろう、窓はどれも小さく、壁は厚い。武骨なつくりに見えるが、扉や窓枠には繊細な幾何学模様の彫刻がほどこされていた。
よく見れば、天香国では珍しくない規模の城市だが、何日も砂礫の荒野をすすんできただけに、幻の都のように美しく感じられた。荒野と同じ白褐色の建物も、澄みきった蒼穹に映えて白亜のように見える。
一行がすすむ道は、どんどん狭くなっていった。長春の都ならば陋巷と見なされるようなほそい路地だ。すれ違うこともできない道には、もはや沿道をかためる兵も、見物人もいない。
そうやって幾度か路地をまがったあと、唐突に開けた場所にでた。
「これは、広場でしょうか?」
月季の声に、問うような響きが含まれていたのも無理はない。地面には煉瓦が敷かれていたが、中央には噴水がもうけられ、そこかしこに大きな植え込みや花壇があり、庭園といってもさしつかえなかったのだ。
広場の一方には、丘の上に伸びる急な階段がつづいている。どうやら人々は、噴水の泉で手足を浄めてから、丘の上にのぼっていくようだ。
そしてまたべつの一方には、高い壁にかこまれた建物があった。
絶塞の太守が住む、オールト宮殿である。
正面の第一の門は民に開放されており、廻廊にかこまれた前庭までは、誰でも自由に入れるらしい。一行が入っていくと、第二の門の前で数人の男が立っていた。ヘリオスフィアに気づくと、足早に歩みよってくる。
先頭に立つのは、ヘリオスフィアと同じくらいの背格好の若者だった。腰までの黒髪を、やはり結わずに自然に背に流している。足取りは悠然としているが、歩幅が大きいのだろう、見る間に近づいてきた。
若者の背後には、明らかに武将とおぼしきがっしりとした初老の男と、商人風の中年の男もついてくる。
若者は間近まで来ると、一行を見わたした。
ヘリオスフィアに劣らない、秀麗な顔だちだ。だがヘリオスフィアの彫りの深い鋭利な美貌が、冷徹で近寄りがたい威圧感を相手に与えるのとは対照的に、この若者からは相手を和ませる穏やかさが感じられた。それでいて、騎馬の民らしい精悍さも兼ねそなえている。
なにより印象的なのは、その瞳だった。天香国の蒼翠とした夏山を思いおこさせる、したたるような緑色をしていたのだ。
額飾りにはめこまれている玉は琅玕で、瞳に負けないあざやかな緑色だった。
若者は、澄んだ瞳で月季の一行に見やってから、問うようにヘリオスフィアを見た。ヘリオスフィアは相手の懸念を払拭させるように深くうなずいてから、月季へ視線を移す。
「月季公主。この男は李冰陽だ。俺の乳兄弟で、側近をつとめている。また、天に仕える神官でもある男だ」
そう言って、李冰陽と呼んだ若者に目を戻した。
「冰陽。先触れからの報告は聞いているな。思いがけなくも、荒野で月季公主に遭遇したのだ。不届きな盗賊が襲撃をはかっていたが、幸いにも撃退し、公主をお救いすることができた」
「それは、まことに僥倖でございました。——全知全能なる天に感謝を」
李冰陽は月季へやわらかくほほえむと、洗練された挙措でトルクエタム風の礼を取った。長い髪がさらりとゆれ、肩に広がった。
「お目にかかれて光栄です、月季公主。李冰陽と申します。遠路はるばる、よくお越しくださいました。心より歓迎申しあげます」
訛りのない天香国の言葉で挨拶をした。印象のとおりの、少し低めの優しげな声だ。
「よろしくお願いします、李冰陽。わたくしはトルクエタムのことには不案内ですので、いろいろ教えてくださいね。……あの、ところで、あなたの名は——」
李冰陽は顔をあげ、控えめな笑みをうかべた。
「はい。私の祖父は、天香国の出身です」
「ではあなたは、天香国の民なのですか?」
官吏たちがざわめいたが、李冰陽はそれをおさえるよう、軽く手をあげた。
「いえ、祖父はもともとトルクエタムと天香国のあいだを行き来する商人でしたが、トルクエタムで家庭を持ち、こちらの人間になったのです。私も天香国へ行ったことはありません」
どよめきはさらに大きくなる。なかなかおさまらないので、ヘリオスフィアが口をはさんできた。
「トルクエタムでは、優秀な者はどこの国の民だろうと誰でも受けいれるのだ。慈悲深き天の下では、どこで生まれた人間も同じだからな」
そんな言葉で月季たちの困惑を中途半端に片づけてしまうと、次に李冰陽の背後にいる隻眼の武将へ目線を移した。
「そこにいるのはオーラリー将軍。オールト州の防衛、兵権と刑獄を統括してもらっている。それから、その隣の男は家令のアーミラリだ」
オーラリー将軍は西方風に手を胸にあて、黙って頭をさげた。仕草はそっけなかったが、それがかえって武人らしくもある。
いっぽうアーミラリは、見るからに実務家らしい如才ない態度で月季に拱手した。
「アーミラリでございます。月季公主には遠いところをようこそお越しくださいました。拝謁を賜り、幸甚の至りでございまする」
流暢な天香国の言葉で挨拶をした。
「オーラリーに、アーミラリですね。これからよろしく頼みます。わたくしも同行した者たちも、トルクエタムの風習などにまだまだ不慣れで、知らぬことのほうが多いくらいです。わたくしたちがヘリオスフィア王子の助けとなれるよう、とともによろしくお願いします」
月季は明るく言ったが、絶塞の男たちの誰ひとりとして、感銘を受けた様子はなかった。