1
杜清照は黒い瞳を大きく見開いて、崖の上に厳しく目をこらした。
荒野の空は抜けるように高く、太陽のないほうを眺めていても、青さに目が眩むほどだ。さらにその日差しを、白茶けた砂礫の大地が反射するために、荒野全体が眩しい。
だが清照のまなざしはゆるがなかった。片手は、なにかあやしいものを見つければすぐ矢をつがえることができるよう、矢筒の近くにある。
そのとき、主君の怒声が聞こえてきて、清照は意識をそらせた。
「砂だらけだの、暑いだの、口を開けば泣き言ばかり、情けない! 少しは天香国の丈夫たる覇気を見せたらどうですか」
清照は無表情に、視線だけを背後へやった。
主である天香国の公主、月季が、使節団の官吏や宦官たちを、きつい目で馬上から見おろしていた。一方、官吏たちは、荒野のただなかというのに、天子のいる紫微宮でするのと同じように額づいて拝跪している。
いつ誰が襲ってくるかも知れないというのに、愚かなことだ。清照は武官ではなかったが、主の月季と同じく軍装束を身につけ、騎馬のままで主の警護をしている。もちろんこれは侍女本来のつとめではない。が、公主将軍の異名を持つ月季のそば近くに仕えるとなれば、主にあわせたふるまいが求められるのである。
最前列に平伏していた老人が、代表して月季に訴えている。月季公主のお目付役としてつけられた、大衍という士大夫だ。
「覇気とおっしゃいますが、このように日が照りとおしで陽の気ばかりがめぐる地では、覇気どころか気そのものの均衡が崩れてしまいまする」
他の官吏も言い添える。
「陰の相を持つこの場所で、水を飲み、休息を取られることをご提案申しあげまする。公主もさぞお疲れのことでしょうし——」
「わたくしは疲れてなどおりません。そなたたちは、自分が休みたいだけでしょう」
大衍は反論しなかった。
「これだけの暑さでございます。我々だけではありません。馬も疲れきっております」
それは荒野に慣れない都生まれの馬を使うからだと、清照は思った。白楊関の長官も、都の馬は荒野にはむかない、胡馬か、せめて荷物をはこぶのは騾馬にしろと忠告していたではないか。それを体裁にこだわっているから、このような事態になるのだ。
もっとも古き大国である天香国の第五公主が、夷狄の国である吐勒靼——彼ら自身の言葉で呼ぶなら、トルクエタム——の王子に輿入れするのだから、威信にかけて行列の見栄えにこだわりたい気持ちも、理解できなくもなかったが。
そのとき、なにかが崖の上で動いて、清照は反射的に矢をつかんだ。
(なんだ? 獣ではなさそうだが)
矢こそ矢筒から抜かなかったが、清照は短弓を握りしめる。
行列のいる道は、実は乾いた河床だった。雨季には河になるというが、この季節は水の気配すらない。それでも岸辺にあたる崖の上にはまばらに灌木が生えているから、地の底には今も水が残っているのだろうか。
両側のけわしい崖は、ある高さで、まるですっぱりと切りとったように平坦になっていた。崖の上からは、道にいる者が狙いにちがいない。斜面も慣れた者なら馬で駆けおりるくらいはできそうだ。襲撃には絶好の場所だった。
本当ならこの谷にさしかかる前に、斥候でも送りこんでおくべきだったろう。だが月季の輿入れの行列には、腕の立つ兵が少なすぎた。かわりにいるのは、詩文や典故に造形の深い官吏や文人、学者、つねに虚空を見ているような方士だった。野卑な夷狄の宮廷とやらに、天香国の雅趣をもたらしてやろうではないかと、いらぬおせっかいから選ばれた者たちだが、いずれも老齢である。あとは雑役夫である宦官たちと、月季の侍女だ。そもそも文治政治を誇る天香国には、優れた兵が少なかった。
(こんなところ、さっさと出発すべきだ)
崖の上で、またなにかが動いた。気のせいではない。清照は月季にむきなおる。
「おそれながら、月季公主。このような場所ではいつなんどき盗賊に狙われるかわかりません。案内人の話では、岩山を抜けたところに緑洲があるはず。せめてそこまですすんでから、休息を取ってはいかがでしょうか。水も豊富でしょうし、ここより涼しいでしょう」
「もちろん、わたくしもそうすべきと思いますが——」
月季はそこで語尾を弱めてしまう。今さらなにを躊躇することがあるのか。
だがちらりと官吏たちを見れば、彼らはさらに深く額を沈めていた。紫微宮の石の床とは違い、砂地なので、本当に頭が沈みこみそうだ。
(嫌な予感がする)
「公主、どうか……先に緑洲があるとわかっていても、我々はもう一歩もすすめません」
「絶塞にも、明日には到着するという近さです。盗賊もこのようなところにはあらわれますまい」
懇願は、半ば泣き声だった。月季はひるんだようにわずかに身をすくめる。それを視界の端におさめ、清照は心のなかで舌打ちをした。ああ、これはだめだ。
日頃から剣を佩いて公主将軍などと呼ばれていたが、しょせんは公主が酔狂で剣をふりまわしているだけだった。清照はじめ侍女をしたがえていたが、ほかに兵を率いているわけでもなし、仮に率いたところで、非情であっても必要な決断など決して下せないだろう。
官吏たちは、ひどい姿をしていた。紫微宮では涼やかな音を立ていた佩玉も今はくすみ、優美な絹の長衣や帯は、汗と砂にまみれている。涙もにじんでいるのかもしれない。長春の都をでてから、満月を二度迎えた。都をはるかにはなれた荒野にあって、今夜はどこで眠るのか、それすらわからない。そんな境遇にあってもまだ都の風趣を捨てられぬ彼らに、月季は同情してしまうのである。清照は馬鹿と切って捨てるだけだが。
案の定、月季は目を伏せた。
「……わかりました。ほんの少しだけなら」
(ほらな)
清照はこっそりため息をつく。大衍たち官吏は、安堵して表情をやらわげた。
「よし、方士ども。陣を張れ!」
「結界を!」
にわかに騒がしくなった。方士や宦官たちが、壇をもうけ帳をめぐらせ、札をあちこちにたてて、結界をほどこす準備をはじめたのだ。天地の気を高め、精霊の力をよりよく発揮させるためである。精霊の力により、心身はよりはやく快復し、悪しきものは遠ざけられるというのが、彼らの理屈だ。
だが清照は、方士たちには目もくれず、月季のもとに馬をよせた。
月季の背後には、三人の侍女が清照と同じ鎧で武装してつきしたがっていた。皆、月季の乳母子である。
月季も侍女も、武装といっても完全に男装しているわけではなかった。どうしても正装しなければならない機会もあるので、長い髪はさすがに切れないからだ。特に月季の髪は雲のようにゆたかで、華美な結い方をしなくても、自然に髷が大きく派手になった。釵も必須である。
顔や手は鍛錬で日に焼けていたが、淡く化粧をし、額には清楚な花鈿もつけていた。月季のあでやかな顔だちには、これだけで充分に映えた。
着ているのは馬にのりやすい胡袴で、袍の袖や裾も短かい。それでも袍の色は、天香国の皇族だけに許された濃い紅紫だった。
(どれもしかたないことだが……遠目にも目立つな)
「清照。どうしました?」
ずっと見つめていたせいか、月季が気づいて小さく首をかしげた。
「なんでもございません、公主。それより、ここで休息を取られるなら、あまり方士たちの結界を頼りにしすぎませぬよう。どうか侍女たちでおそばをかためておいてください」
月季は杏型の目をみはった。
「何者かの襲撃の心配をしているのですか? しかし方士は皆、皇家が認めた優れた術者たちです。腕はたしかですよ」
「方士の腕は、信頼に足るかもしれません。しかし彼らが使役するのは、天香国の精霊。本来は、幽暗や陰影のうちにひそむものです。このような、山の陰にあってさえ眩しいほど暑く乾いた土地で、力を発揮できるとは思えません。つい先刻、彼ら自身もこの地では気そのものの均衡が崩れてしまうと言っていたではありませんか」
月季は壇で香を焚き、呪文を唱えている方士を見やった。煙がたちこめた暗い霊堂ではおどろおどろしく感じる儀式も、明るい空の下では座興じみて見えた。
「そう、かもしれませんね」
「どうぞお気をつけください。私はこのあたりを少し見まわってまいります」
「ひとりで?」
「人手が足りませんから」
「ですが」
月季の背後に並ぶ同僚に目をむけると、彼女たちはここはまかせろというように、清照に目でうなずきかえした。そして、月季に声をかける。
「大丈夫ですわ、月季公主。杜清照のことでございますよ」
言われて、月季は思わずというようにほほえんだ。
「そうでしたね。でも、気をつけて行くのですよ、清照」
(公主が侍女ごときにかける言葉かよ)
いらん世話だと思いながら、清照は馬の腹を蹴った。
清照は馬をたくみにあやつり、砂礫の斜面を一気にかけのぼって崖の上にでた。
とたんに熱風を受け、一瞬目をほそめる。が、すぐにその大きな目を見ひらいて、隙のない視線で周囲を見わたした。
人の姿は見えない。谷をはさんだむこうの崖の上にも、ここから見るかぎり、人はいなさそうだ。ただ、どちらがわにも近くに岩場があり、隠れる場所が多いので、どこかに身をひそめている可能性はあった。
谷底を見ると、長い婚礼の行列が一望できた。近くで見れば、砂で汚れて惨めだった行列も、この距離だとまだ絢爛さを保っている。神獣と牡丹を刺繍した錦の旗がかかげられ、婚礼の道具を積んだ荷車が長くつらなっていた。そのわりには兵が少ないことまでよく見える。
清照は舌打ちした。やはり、一刻もはやくこの場を離れるべきだ。
馬が小さくいななき、暴れた。清照は馬の首を軽くたたき、なだめてやる。
「どうした? 大丈夫だ」
清照は優しく声をかけながら、遠くへと視線を移した。
地平線のむこうには、まだ絶塞は見えない。
(だが明日には——)
瞬きもせず、手綱をにぎる手に力をこめた。
杜清照は、今年で十七歳になる。若いながらも優秀な宮女としてとおっていた。つまり、つねに冷静沈着で、いかなる場面に際してもびくとも動じずに対処した。そのため、揉め事の多い宮中ではたいへんに重宝がられていた。
また、衣装や調度の管理、宮中での作法から毎日のように行われる祭礼の準備など、諸事わきまえてもいた。月季につきあって武芸百般をおさめていることばかりが注目されがちだったが、刺繍や書画もうまかったし、所望されれば琵琶も奏でた。ただし碁の相手は滅多に求められなかった。強すぎたからだ。
瑕疵もあった。無愛想なことと、容姿端麗を望まれる宮女としては醜女と見られていたことである。ほっそりとした繊腰だけは都人の好みにかなっていたものの、引きしまった背にも長い手足にも、なよやかさは皆無だった。おまけに女としては背が高く、男に引けを取らなかった。なにごとも雅やかな趣きが好まれる宮中では、男でさえ嫋々とした風情を好まれており、清照は美女の基準から大きくはずれていたのである。
顔だちは整っていたが、なめらかな肌は惜しげもなく日に焼かれ、浅黒いほどだった。眉はくっきりと濃く、視線は強すぎる。高い額には花鈿もない。唇の紅さえさしていなかった。唯一女らしいのは漆黒の長い髪くらいだが、結って釵をさすどころか、かたく編みこまれて背に流されていた。
それでも少ないながら、清照を美しいと思う者はいた。禁軍の武人は、ゆるぎない胆力を秘める清照の瞳にひそかに感じいっていたし、ある詩人も、清照の凛とした清冽さを孤梅冷月のごとしと歌った。誰も相手にしなかったが。
つとめはつねに完璧にこなしたが、宮中で清照と親しくする者はいなかった。清照にへだたりなく接することができるのは、主の月季だけだった。
出自が関係しているのかもしれない。清照は子供のころ、紫微宮を抜けだして陋巷に遊びにでた月季に拾われたのである。天香国の宮廷には平民出身の宦官も多かったし、科挙に受かった官吏たちも建前上は特権階級ではなかったが、それでも清照のこの経歴は、やはり異彩を放っていた。
どこの馬の骨ともわからぬ生まれにもかかわらず公主に取りたてられたことで、周囲から嫉妬されたこともあった。が、それも今ではほとんどない。公主将軍の月季は変わり者扱いされており、彼女の寵をうけても宮中での出世は見込めないことがほぼ明らかだったからだ。降嫁する月季につきしたがって、西方などに行くはめになった清照を笑う者も少なくなかった。
(西方か)
清照は息をつく。熱い風が、喉の奥を乾かした。
(私はべつにいいんだがな。どうせ天香国には私の故郷などないし)
問題は月季だろう。公主として誇り高い彼女が、新興国の王子のもとに嫁がせられるのだ。
天香国は、天帝の末裔とされる天子が治める古い大国である。長春に都をおき、湿潤な気候と豊かな土壌に恵まれ、洗練された高い文化を誇っていた。
反面、長年の伝統と儀礼の格式にとらわれるあまり、硬直してしまった部分も多い。文人による政は国のすみずみにまでゆきわたっていたが、杓子定規でなにかと融通がきかなかった。宮中では言葉や立ち居ふるまいの格調高さばかりが重んじられ、武人の硬骨な言葉は軽んじられることもしばしばだった。
こんな状況では、やたらと長い国境線を充分に守備することなどむずかしい。実際、天香国はたびたび周辺国家に攻められるという難にあった。
なかでも天香国を苦しめたのが、北方の布拉赫と、西方のトルクエタムだった。ともに勇猛な騎馬の民である。彼らはたびたび国境を越えては、城市や村を襲い、略奪を重ねた。
もちろん天香国も、手をこまねいてばかりではない。腐っても大国だ。大軍で戦をしかけたこともあった。だが当然のことながら、同時に北と西のふたつの蛮族を相手にすることは、天香国にとって重い負担となった。官吏たちが会議を重ね、将軍の進言や苦言に回答しないでいるうちに、事態はどんどん悪化していった。
窮地に陥った天香国が、やっと下した決断は、昔ながらの常套手段をふたたび行使することだった。
すなわち、政略結婚により一方を懐柔し、残る一方を牽制するのである。
さらなる話しあいのすえ、友好相手に選ばれたのは、西のトルクエタムだった。
条件は、よくなかった。結婚相手はトルクエタム王でなく、第四王子のヘリオスフィアで、しかも子供が生まれても将来のトルクエタム王にするとの確約は得られなかった。おまけに酒や穀物、絹織物など、莫大な持参金を支払わなくてはならないときている。体のいい人質だ。
だがトルクエタムは、さらに西の彼方に広がる国々との交易で栄えていた。天香国に珍しい西方の品を運んでくるのも、多くはトルクエタムの商人である。天香国は、あわよくば西方交易の富が自分たちのところに流れこむことを期待したのかも知れない。
そうしてヘリオスフィア王子の花嫁として選ばれたのが、十七歳になる月季公主だったのである。
(宮中を牛耳る官吏や宦官どもを手なずけていたら、話は変わっていたはずだが……なにせ公主は、馬鹿正直だからな)
女ながら剣や弓をふるい、まがったことが大嫌いという性格の月季は、当然のことながら官吏や宦官に疎まれていた。だから蛮国との政略結婚の話があがったときも、まっさきに名をあげられたのだ。年まわりのあう公主はほかにもたくさんいたのに。
風流人の皇帝も、母后や兄太子をはじめとする多くの兄弟姉妹も、誰ひとり月季の味方にならなかった。官吏や宦官たちを敵にまわしたくなかったのか。あるいは政略結婚など、今さら当然ではないかと思っていたのかも知れない。
いくら気性が激しい月季も、ひとりで抗うことはできなかった。また正義感の強い月季としては、和平のため、民のためと説かれては、それ以上の不平も言えなかったのだろう。
かくして輿入れの行列は都の長春をたち、白楊関を経て、ついには明日にも絶塞に到着というところまでやってきた。
絶塞では結婚相手であるヘリオスフィア王子が、月季を待っているはずだ。ヘリオスフィアは二年前に砂漠地方の太守を任じられており、以来、絶塞に居城をかまえている。
婚礼は国王のいるトルクエタムの都アンティキティラであげられるが、その後はまた絶塞に戻る予定になっていた。当分のあいだ、この荒野が月季の生きる場所となるのは間違いない。
もちろん、清照は月季のそばにいる。
(公主の赴かれるところこそ、私の故郷だ)
清照は顔をあげ、風景に目をこらした。太陽と風にさらされた砂礫の荒野は、枯れたような灌木がわずかに地にはりついているほかは、森も川も、なにもなかった。鳥も獣もいない。乾ききった空だけが、目に痛いほど眩しく、青かった。世界の果てにふさわしい惨淡たる風景だが、しかし清照には、この剥きだしの自然は虚飾のない清浄なものに感じられた。
強い風が吹き、砂がぱらぱらと頬を打つ。天香国の、曖々とした暗がりから立ちのぼる、しめった草のにおいがする微風とは、まったく違う。
ここまで来た、という感慨を覚えずにはいられなかった。
小さく、息をつく。
(——いや、まだだ。まずは無事に絶塞に行きつかなければ)
そろそろ月季のそばに戻らなければならない。清照は手綱を操り、馬のむきを変えた。
と、清照はだしぬけに手綱から手を放すと、肩にかけた短弓に手を伸ばした。そして次の瞬間には矢をつがえ、弓をひきしぼる。
間をおかず放たれた矢は、弧を描いて飛び、かなりはなれた場所の岩にあたった。
なにもかも、瞬きをするほどのあいだに起きたことだった。
あたりに動くものはない。獣が逃げた気配もなかった。ただ風が、渺々とした荒野をわたっている。
清照は、しばらくずっと、矢があたった岩を見据えていた。
ずいぶんたってから、ようやく馬の腹を軽く蹴る。
岩場を去るとき、清照は後ろをふりかえりもしなかった。