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絶塞  作者: 西東行
第4章
16/18

「——清照!」

 声を呼ばれたと同時に突風が吹き、清照の体が浮いた。

 倒れる、と思ったその瞬間、なにかがまるで鷹のように上空から一直線にとびかかり、清照の体をとらえた。

 そしてぐるりと世界がまわったかと思ったかと思うと、清照は横抱きに抱きあげられていた。

「ヘリオスフィア王子!?」

「無事か、清照!」

 そう尋ねるヘリオスフィアも、余裕はなさそうだった。重心がずれて、体勢が崩れかけている。

 しかしそこでふたたびふわりと風が起こって、ふたりは無事に地面におりたった。

「あちこち怪我をしているぞ。腕も、大丈夫なのか?」

「平気だ」

 清照は破れてはずれかけていた手甲を、残っていた縄鏢の縄ですばやくしばりなおした。

「それよりも、王子。どうしてここに?」

「お前を追ってきたんじゃないか」

 ヘリオスフィアは、呆れたように答えた。

「岩山をでたところで、お前とあの男が戦っているのが見えた。けれどふつうに走っていては追いつけそうになかったし、暗くて矢を射ることもできなかったから——」

「だからって、風を起こして飛んできたっていうのか!?」

 ヘリオスフィアは困ったように首を横にふって、清照をおろした。

「こんなことは、はじめてだ。お前を巻きぞえにして岩に激突するところだった」

「そうだ、あの男は? 布拉赫の手の者らしいんだが——」

 清照とヘリオスフィアは武器をかまえ、男をさがした。ヘリオスフィアの起こした突風はかなりの威力だったらしく、ところどころで大きな枝が折れている。草木が倒れている方を探すと、元の場所からかなり離れた岩場で、男が見つかった。

 岩に叩きつけられたのだろう。顔は血だらけで、手足の骨も折れているようだ。死んではいないが、完全に気を失っている。

 いったいどれだけの強風にとばされれば、こんなことになるのか。

 ふたりは黙って男を見おろし、それから互いに見あった。

「……同情に値する奴じゃないが、さすがにちょっとやりすぎじゃないか。腕と脚以外もあちこち折れてるみたいだぞ。いろいろ白状してもらわないといけないのに」

「い、いや。まさか、あんな強風が起こるとは。たしかに咄嗟のことで、手加減はろくにできなかったが」

 ヘリオスフィアは自分の両手を見おろした。

「いつもなら、相手の体勢を崩す程度なんだ。——おかしい。お前をあんなに高くまきあげてしまったこともそうだが、なにやらここ数日、急に力が強まったみたいで」

 すっと、眼をほそめる。

「……まさか……」

「いや、ヘリオスフィア王子、今はそれどころじゃない」

 清照はヘリオスフィアの肩をつかんだ。

「宮殿だ。奴ら、北の庭園以外にも、仲間を忍びこませたらしい。月季公主と李冰陽が危ない」

「なんだって!?」

「すぐに上に戻るぞ」

 清照とヘリオスフィアは布拉赫の男に背をむけ、走りだした。

 岩山の洞窟からでてきた兵士たちとすれ違う。

「岩場の影に男が倒れている。毒使いだから触れるときには用心しろ。ほかにも仲間がいる可能性があるから、周囲の警戒を怠るな!」

 ヘリオスフィアが指示を叫んでいるあいだに、清照は先に狭い隧道にかけこんだ。そして、先刻くだってきた洞窟の道をかけあがる。

「待て、杜清照! 一緒に行く」

 背後からヘリオスフィアが追いかけてきたが、清照はもちろんとまらない。ヘリオスフィアもそのことに気づいたのか、足をはやめたようだ。足音がはやく、大きくなった。

「待てと言うのに! 道も知らずに入りこめば、迷うだけだぞ!」

「自分がとおった道くらい、覚えている」

「いちどとおったくらいで覚えられるような道じゃない!」

 しつこく追いすがってくるので、つい頭に血がのぼった。

「大丈夫だと言ってるだろう!!」

 清照は立ちどまり、ヘリオスフィアにむきなおった。ヘリオスフィアは清照の顔を見て、口をつぐむ。清照は息を整えるために深く息をついた。

「……本当に、大丈夫だ。私はこのまま公主がいらっしゃる離宮にむかう。だが李冰陽たちは離宮にいるとは限らないだろう」

「ああ。あいつはおそらく、内廷にいるはずだ」

「だったら、一緒に行動する理由はない。あなたはそちらに行け」

 ヘリオスフィアはなおも迷いを見せた。

「だが——」

「いいから行け! 自分の守るべきものを守れ。私にかまうな」

 ヘリオスフィアはなおも逡巡していたが、うなずいた。

「わかった。それだけ言うなら、お前も月季公主を守れよ」

「当然だ」

「それと岩山をでたら、もう洞窟には入るな。準備がすみ次第、侵入者を煙でいぶりだす予定だ。喉や目がしばらくやられるぞ」

「承知した」

 ヘリオスフィアとわかれるや、清照はほとんど息もつがずに一気に道をかけあがった。

 迷いもせずに北の庭園にでる。だが、そこには誰も残っていなかった。アーミラリも運びだされたようだ。

 かわりに隣の離宮で、怒号と金属の打ちあう音が響き、火の手があがっている。

「——月季公主!」

 清照はあえぐように叫ぶや、走りだした。

 李冰陽が月季を守るために兵士を残しているかもしれないが、あの月季がおとなしく守られているはずがない。どうせ逃げもせず、一緒に戦っているに決まっている。

(あの馬鹿——)

 たしかに腕が立つとはいえ、清照よりも弱いくせに、まわりの人間は自分が守るものだと信じているのだから始末が悪い。人を守りながら戦うなど、至難の業なのに。本当にむずかしいのに。

 使用人や兵士が自分のために死んでも、権力者ならそれを当然と見なすものだ。それなのに月季は、まわりの者を、身をていしても助けようとする。馬鹿だ。

「——公主!! どこにいらっしゃるのですか!」

 清照は、飛びこむように離宮に足を踏みいれた。あちこちで絶塞の兵士と、黒衣を着た侵入者が戦っている。月はでていたが、視界はよくない。ところどころであがっている火の手は、もしかすると篝火がわりに燃やしているのかもしれなかった。日干し煉瓦の建物では延焼もしないだろう。

 突然、黒衣の男が建物を走りでてきて、出会い頭にぶつかりかけた。清照は相手の懐に入って襟元をつかむなり、自分の体をひねり、走ってきた相手の勢いをそのまま利用して投げとばした。男は受け身も取れずに、石の床に背中から落ちてしまう。そうして相手が声もなく悶絶している隙に、清照は月季の部屋にむかった。

「公主! 杜清照です! 月季公主、いずこにおわしますか!」

 月季の部屋が面した中庭にかけこむと、そこはすでに混戦状態だった。

 月季の姿はない。声もしなかった。

「月季公主!!」

「——女の声だ!」

 たちまち、黒衣の男たちが廻廊にそった部屋からでてきた。

 月季や、侍女の部屋からもだ。清照は、自分の血の気が引いていくのを感じた。

「おい。この女、どこかで見たな」

「月季公主の侍女だ。槍使いの。かなりの使い手だというぞ、気をつけろ」

 せめて男たちの背後から月季があらわれないかと、あたりを見まわす。男たちが交わす言葉は、ほとんど耳に入らなかった。

(主を守っているべきだったな)

 谷底で言われた言葉が、がんがんと頭のなかで響いている。

「公主!? どこですか! 月季公主!」

 答える声はない。

「……月季公主——」

 男たちは清照をかこいこむようにして距離を取っている。このままではやられるとわかっていたが、清照は武器をかまえることさえできずにいた。

「せっかくだ。こいつは無傷でとらえるか」

「そうだな」

 男たちが、下卑た笑いをかわしたそのときだった。

「——下郎ども! 清照から離れなさい!」

 声と同時に、清照をとらえようとしていた男の二の腕に、矢が突きたった。

 中庭の全員が、声のしたほうを見る。

 廻廊の屋根の上に、すっくと立って弓をかまえていたのは、誰であろう月季だった。

 背後の満月と、離宮のあちこちを燃やす炎に照らされ、その姿は画のごとくあでやかだった。

「公主っ!?」

「清照、そこの葡萄棚をつたってのぼっておいでなさい! はやく! 援護します!」

 叫んで、連射する。清照はその声にはじかれたように、逃げる男たちと逆に走った。そして葡萄棚に飛びつくと、しなる反動を利用して、あっという間に屋根の上にあがりこんだ。

 屋上には、月季と梅花たち侍女、そして兵から集めたものか、大量の矢筒と矢が集められている。

「無事でなによりです、清照!」

「月季公主……これは、いったい」

「離宮が襲われてすぐ、皆でのぼったのです。男たちは体が重くて、ほそい葡萄棚をのぼれなかったのですよ。ここは紫微宮の瓦屋根と違って歩きやすいし、角度もなくて、実に快適です! まるで上から賊を狙い撃ちするためのようなつくりではありませんか!」

 月季は胸をそらせて、得意げに笑った。その能天気さに、清照は言葉がでてこない。ぺたりと、すわりこんでしまう。

「上から絶塞の兵を援護していたのですが、梅花たちは弓がうまくないので、わたくしひとりで射ておりました。さすがに荷が重いと思っていたところです。よくきてくれました、清照」

「公主……」

 清照はまだ、立ちあがれずにいた。月季はようやく、手をついてすわりこんでいる清照に気がついたようだ。首をかしげて、顔をのぞきこんできた。

「なんです。杜清照ともあろう者が、そんな顔をして」

 清照は思わず、顔に手をやる。月季はわずかに目をほそめた。

「はじめて会ったときも、そなたはそんな顔をしていました」

「そんな顔?」

「ええ。今にも泣きそうなのに、涙はでていなくて」

 月季は、清照へ手をさしのべた。

「そなたもわたくしも、こうしてお互い無事だったのですから、笑ってくれてもいいではないですか?」

 清照は月季の手を見おろし、次いでその顔を見あげた。月季はほほえんでいた。

「立ちなさい。立って笑ってください、清照」

(——いつかかならず、心から笑える日が来る)

 そう言ったのは、誰だったか。

 その顔も声も、ずっと心のすみにおしやっていた。あのころは『いつか』など、果てしない未来に思えた。

 だが今、想像もできなかったその未来に、自分はいる。時を重ねてここまできたのだ。

「……は、はは……っ」

 ふいに笑いがこみあげてきて、清照は咳きこむように笑った。声をあげて笑うことなど久しぶりで、我ながらぎこちない。

 不器用に笑う清照を、月季は待つように見つめていた。

「はは……あは、はは——失礼」

 清照はよろよろと立ちあがり、余っていた弓を手にとった。桃花がなにごともなかったように自然に、矢筒をわたしてくれた。

「——まことに失礼いたしました。戦を再開するといたしましょう」

 やっと笑いをおさめて言うと、月季もうなずいた。

「あの賊どもは、李冰陽がアーミラリをつれていってしばらくしてから、突然おしいってきたのです。兵もすぐ加勢にきてくれましたが、宮殿にも賊が入りこんだとかで、混乱しているようです。いったい、どこの手の者やら」

「布拉赫の手の者のようです」

「布拉赫?」

「はい。目的は公主とヘリオスフィア王子との婚姻を阻んで、天香国とトルクエタムの関係を悪化させることと思われます。絶塞に到着する前に我々の行列を襲ったのも、奴らのようです」

 月季は表情を引きしめ、新たな矢をつがえた。

「では、一刻もはやく離宮の賊をかたづけて、加勢にまいるとしましょう。わたくしはヘリオスフィア王子の妻となる女です。夫君をお助けせねば!」

「はい」

 清照は廻廊の屋根をまわりこんで、葡萄棚ごしに弓をかまえる。

「殺してはなりませんよ、清照。ヘリオスフィア王子にひきわたさねばなりません」

「心得ております」

 そこからの展開は、一方的なものとなった。葡萄棚は隙間が多いものの、中庭にいる者からは清照たちの姿がよく見えない。しかし清照たちからは、火が燃えているせいで、中庭にいる賊が葡萄棚を透かしてよく見えたのである。立ち位置をあやまらなければ、危険なことはなかった。

 清照は無造作に、月季は生真面目に、賊を狙い撃ちして追いつめていく。動きを制限された賊を、下で絶塞の兵が流れ作業のようにとらえていった。いくらもたたないうちに、離宮での戦いはあっけなく片づいてしまった。

「あとは兵にまかせて、わたくしたちはヘリオスフィア王子のもとへ——」

 月季が言いかけたとき、強い風が吹いて、木々や髪をなぶった。

「まあ。風がずいぶん強くなってきましたね」

「公主。どこで銅鑼がなっていませんか」

 長く伸ばすようにくりかえされる銅鑼の音に反応しているのは、絶塞の兵たちだ。顔を見あわせ、なにやらあわてている。

「公主! あれを!」

 桜花が宮殿のほうを指さした。

 宮殿の大庭園から、砂塵の柱が空高くに立ちのぼっているのが、月明かりに照らされて見えた。砂は白く輝いて、銀河がもうひとつ増えたようでもあった。

「竜巻?」

「いえ、夜空は晴れています。つむじ風でしょう。ただし、ものすごく巨大な……あんなつむじ風が起こるなんて」

 清照は、榛色の髪をなびかせたヘリオスフィアの姿を思いうかべた。

「公主、急ぎましょう」

「ええ!」

 離宮をでると、あたりの木々はどれも風のために大きくざわめいていた。

 絶塞の兵たちが走りまわるなか、迎賓殿のほうから走ってくる一団がいる。

 先頭にいた、ただひとり鎧を着ていない長衣の男が、月季を見るなり気の抜けた声をあげた。

「——あぁあ、月季公主! ご無事でいらっしゃいましたか!」

「大衍! どうしました」

 官吏の大衍は下がり気味の眉をさらに下げ、情けなさそうに答えた。

「どうしたもこうしたも! 公主が賊に襲われているとの報を受けたので、お助けせねばと、こうして兵をともなってまいったのではありませんか」

 たしかに、大衍のうしろには、天香国の兵士たちが三十人ほどつづいていた。

「わたくしは大丈夫です。賊は皆で撃退しました。そなたたちは大事ありませんか」

「はい。迎賓殿は外廷にあり、そちらには賊はきませんでしたので。絶塞の兵によると、賊は北の庭園から侵入して、内廷と離宮を襲ったとのことです。ですが、門を突破して外廷へでることはできなかったようですね」

 月季はほっと、胸をなでおろしていた。

 合流した大衍たちも含め、大勢で内廷をかこむ壁の前に行くと、絶塞の兵が多く集まっていた。

 見ると、李冰陽とオーラリー将軍が顔をつきあわせている。ふたりともぬいた半月刀を手にして、まだ息を切らしていた。

「李冰陽!」

「——月季公主! ご無事でしたか!」

 李冰陽は厳しい顔をしていたが、月季を見ると安堵したように表情を和らげた。

「李冰陽。ヘリオスフィア王子はどちらにおいでですか」

 李冰陽は答えるかわりに、内廷をかこむ壁を見あげた。

 高い壁だ。そして、厚い。それでも、壁のむこうで風が凄まじく吹き荒れているのが伝わってきた。内と外をつなぐほそい門は、竜の咆哮のような音を立てている。

 と見ている間に、壁を越えて大枝が降ってきた。風で折れたのだろうが、この壁を越えるほど高く吹きあげられたことが驚きだった。

「もしや、この巨大なつむじ風は、ヘリオスフィア王子が起こしているのでしょうか? まさか内廷の庭園で、おひとりで敵と戦っているのですか?」

 清照が言うと、まわりにいた月季や大衍が驚き、天香国の兵たちはどよめいた。だが李冰陽と絶塞の兵は眉をひそめる。

「……そうです。広い場所でないと、強い風を起こせないので」

 先刻の銅鑼の音は、味方の兵士にむけた、庭園から撤退せよという合図だったのかもしれない。

「王子ともあろう方が、ひとりでそのような無茶なことを! 李冰陽、あなたも王子の無謀を諌めなくてはなりません!」

「もちろん、とめました! しかし王子は、少し試したいこともあると言って——」

 李冰陽は苛立ちもあらわに声を荒げたが、すぐに口をつぐんだ。

「失礼。おっしゃるとおり、無茶なことです。こんな混乱した状況でなければ、とめていたのに」

 月季は戸惑ったように李冰陽を見ている。彼はかなり深く怒っているようだった。

 清照は李冰陽に歩みより、彼にだけ聞こえる程度の声でつぶやいた。

「それにしてもすごいものだ。壁をとおして風の力が伝わってくる。こんなことが可能なのか?」

「先代の太守であるアリダード様は黒風(砂嵐)を起こしたと聞いています。しかし王子にこのようなことができるとは、私も思ってもみませんでした。驚いています」

 清照は李冰陽を見やる。

「——なぜ、あなたではなくヘリオスフィア王子が風の術を行っているんだ、李冰陽殿? 稀代の才能を持つ神官は王子ではなく、あなたのはずだが」

 李冰陽は答えるかわりに、清照をにらむように見返した。

 清照はかまわず、つづけて問う。

「絶塞に来てから、ヘリオスフィア王子が風を起こすのは何度も見たが、あなたが神官としてなにか術を使っているのは、まだ見たことがない」

 そこへ月季が、清照たちのあいだにただよう空気に気づかず、声をあげた。

「清照、李冰陽! 風が弱まってきています!」

 月季の言うとおり、門から聞こえる風の音が小さくなってきたようだ。李冰陽はすぐさま、周囲の兵に命じる。

「よし、庭園に突入! 王子の無事を第一に確認しろ。賊はすべてとらえるんだ」

 李冰陽を先頭に、絶塞の兵が内廷の庭園へかけこんでいく。清照と、月季をはじめとした天香国の兵もあとにつづいた。

「まあ、これは……」

 庭園に入るなり、その惨状に月季が絶句した。

 大木は根本から折れ、生垣や植えこみは根こそぎ消えている。泉や噴水からは水がなくなっていた。まきあげられたのだろう。

 そしてそこかしこに、黒衣の賊が積み重なるようにして倒れていた。その周囲には、瓦礫や折れた枝などが大量に散乱している。なすすべもなく風に飛ばされ、吹きよせられたところに、大枝や瓦礫も飛んできてとどめをさされた、というところらしい。賊が気の毒とは思わないが、胃のあたりがひんやりする心地がした。

「ヘリオスフィア王子!?」

 月季が驚いたように叫んだ。その視線の先を見あげて、李冰陽や兵士たちもどよめく。

 庭園の上空高くに、ヘリオスフィアがうかんでいたのだ。榛色の髪と青白い衣装をなびかせた姿は、まさに星々の主かとも見えた。

 が、李冰陽は、そんな姿にはみじんも感動しなかったらしい。

「なにをしている! はやく降りてこい!」

 乱暴に怒鳴り、隣にいた月季の目を丸くさせていた。

 ヘリオスフィアは、ふわりと、飛ぶというよりはただようような動きで地上におりたった。清照や月季はヘリオスフィアのそばに急いだが、誰よりもはやくかけよって、よろめくヘリオスフィアをささえたのは、李冰陽だった。

「無事か!」

「……なんとか……。もう、そよ風ひとつ起こす力も残っていないが」

「当たり前だ! まったく、無茶なことを!」

 小言をつづけようとする李冰陽をさえぎって、ヘリオスフィアは懐に手を入れた。

 取りだしたのは、玉だった。星玉だろう。薔薇色がかった黄金色に輝く、美しい玉だ。

「それは、まさか——」

 李冰陽がうわずった声をあげ、一歩あとじさった。

 ヘリオスフィアはうなずいた。

「そうだ。我がオールトを守護する、明けの明星の星玉だ」

 李冰陽は星玉を見つめ、ヘリオスフィアに目を移す。ヘリオスフィアはもういちどうなずいた。

「先刻、もしやと思って神殿に見に行ったら、天文台の軌道の上をこれが飛んでいたんだ。いったいなぜこれが、誰も知らない間に天文台に戻っていたかは、検討もつかない。だがおかげで先刻のつむじ風を——」

「あら。これはわたくしの婚礼道具のなかにあった玉ではないでしょうか」

 月季が空気も読まずに、明朗にさえぎった。

「……は? 公主の!?」

「いったいどういうことだ?」

 清照も玉をのぞきこむ。

「私も公主の婚礼道具の目録をつくる折りに、見た記憶があります。たしか西方と取引のある大商人からの献上品だったかと。西方に縁がある品物ということで、お道具にくわえたはずです」

「ちょっと待て! その商人は、どこでこの星玉を手に入れたんだ!?」

 月季は問うように、近くにいた梅花たちや大衍を見やったが、彼らも由来など知らないのだろう。首をふるばかりだ。清照は肩をすくめた。

「私にもわかりませんが、先の戦のどさくさに手に入れたというのが、可能性としていちばん高いのではないでしょうか」

 朝焼けを封じこめたような、美しい黄金色の玉。星玉を知らなくても、価値ありと見て大金を投じたり、権力者に献上しようと考える者がでてきても、おかしくはない。

「星の力を充分にためこんだ玉は、自然に自らの軌道に戻ると、ヘリオスフィア王子はおっしゃっていました。この玉も、絶塞に戻ってきたことで天の力に感応し、公主のお道具のなかから勝手に抜けでて、天文台に戻ったのかもしれません」

「そんな馬鹿な!」

「いや、守護星の玉が戻って来たことは、喜ばしいことですが……」

 清照たちが顔をつきあわせているあいだにも、絶塞の兵士たちはあたりを捜索し、賊を見つけては捕縛していた。

 周囲がざわついていたせいだろうか。李冰陽の背後で、折れた大枝が動いたが、誰も気づかなかった。枝の下から男がこっそりと上半身を起こしたときも、その黒衣のために、察するのが遅れた。

 清照が気づいたときには、男は大きく刀子をふりかぶっていた。

 狙っているのは、李冰陽だ。

「——李冰陽! うしろだ!」

 清照は叫ぶと同時に鏢を投げたが、男もほとんど同時に、倒れこむように刀子を投げつけていた。

「危ない!!」

 誰かが叫び、榛色の髪が大きくなびいたかと思うと、その動きがとまった。

 ヘリオスフィアが、李冰陽と男のあいだに飛びだしたのだ。その肩には、刀子が深くつきたっている。

 清照も月季も、李冰陽も、動くことができずに彫像のようにかたまっていた。

 ヘリオスフィアだけが、そのままゆっくりと、地面に崩れ落ちる。

 月季が両手で口を覆った。

「ヘリオスフィ……」

「冰陽っ!!」

 せっぱつまった叫びが、月季の声をさえぎった。

「冰陽! しっかりしろ、冰陽!」

 李冰陽が、蒼白になって自分の名を叫んでいた。呼びかける相手は、ぐったりと地面に倒れているヘリオスフィアだ。

 榛色の髪と白い衣装に、はやくも血がにじんでいる。その血で汚れることも厭わずに、黒髪の李冰陽はヘリオスフィアの耳元で叫んでいた。

「冰陽! ——誰か、薬師を! はやく!」

 たちまち絶塞の兵が集まってきた。そして李冰陽の命令に混乱する様子もなく、ヘリオスフィアを介抱しはじめる。

 刀子を投げた賊は、清照の鏢を腕に受けて昏倒していた。絶塞の兵は、その男の捕縛と介抱も迅速に行っている。

 月季や大衍たち天香国の人間だけがうろたえて、李冰陽とヘリオスフィアを何度も見くらべていた。

「ど、どういうことですの? 李冰陽が……ヘリオスフィア王子が? わたくし、なにがなんだか」

 ヘリオスフィアが青灰色の瞳をうっすらと開けた。

「冰陽! 気がついたか?」

 答えるかわりに腕を上げ、覆いかぶさっているような黒髪の頭をおしのける。

「おい、なにを——」

「……馬鹿が、ヘリオス。うろたえやがって」

 ちらと清照を見て、息をつく。

「だが、ここらが限界なんだろうな」

 そう言うと、怪我をした肩をかばいながら身を起こし、月季の前にひざまずいた。

「ヘリオスフィア王子……?」

「いいえ、月季公主。俺は李冰陽。そしてあなたが李冰陽と呼んでいたこの黒髪の男こそ、まことのあなたの結婚相手であるトルクエタムの王子、ヘリオスフィアです」

 青灰色の目で月季を見つめたあと、榛色の頭を深くたれた。

「月季公主をあざむいたこと、お詫びの申しあげようもありません。この責任は、すべて俺ひとりが負います」



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