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絶塞  作者: 西東行
第4章
15/18

 離宮の北にある庭園は、いつもひっそりとしている。植えこみが多いので、離宮の現在の主である月季が、立ちいろうとしないからだ。月季は庭園の造作や花を楽しむより、そこで存分に動きまわり鍛錬をするほうが好きだった。

 庭園には、白い岩肌をけずりだしてつくった瀟洒な四阿がある。四阿にのぼる階段から柱、そして背後の斜面にかけては、花をつけた蔓がからまっていた。おりしも今は花の盛りで、甘い風が四阿にたらした薄織の帳をゆらしている。

 宮殿の隅にもうけられた、隠れ家的な庭園ということもあり、いかにも逢瀬の場としてふさわしい——というよりも、逢い引きのためにつくられたとしか思えない場所だ。

「今夜と、たしかに李冰陽殿にお伝えいただいたのでしょうな」

 清照とアーミラリは、庭園に近い部屋に控えていた。アーミラリは落ちつかない様子で、さかんに上衣の袖をいじっている。

「桜花が伝えて、かならず行くとの返事をもらったそうだ」

 清照は、おおやけにはまだ怪我で寝込んでいることになっている。しかし実際は寝込むどころか、爪を研ぐ山猫のように、鏢を手すさびに弄んでいた。

「それより、李冰陽殿を拘束するという、キノスラ王配下の兵はどこにいるんだ?」

「身をひそめております。目立つわけにはいきませんので、少数精鋭ですよ」

「少数精鋭?」

「王には、正式な兵士ではなく、隠密に行動する者をお願いしたのです。オールトで、しかも太守であるヘリオスフィア王子の周辺で事件があったと、外部に知られたくありませんからね。宮廷内にも、秘密裏に入ってきてもらっております」

「秘密の通路でもあるのか」

 アーミラリは視線というよりほとんど気配だけで清照をちらと見た。

「そうしたものはどこの城にでもあるものでしょう? 私も家令ですし、それくらい手配できますよ」

 そのとき、離宮の北の方角で男の怒鳴りあう声と、悲鳴があがった。

「悲鳴?」

「……おお!」

 アーミラリは絨毯から腰を浮かせたが、すぐに騒ぎは静まった。

「早々に決着はついたようだな。たしかめに行くか、アーミラリ殿」

「もちろんです!」

 清照はアーミラリの先に立って、庭園へとむかう。

 月が明るい夜だったが、木々の多い庭園は、見はらしが悪い。李冰陽の姿は見えなかった。姿だけでなく、声もしない。

 清照は目をすがめて、庭園を見わたす。

「静かすぎるな。拘束するだけなんだろう? 口論くらいしていてもよさそうだが」

 アーミラリは緊張した様子で、唾を飲みこむ。

「李冰陽殿も、まさか王の兵に抵抗するとは思えませんが……しかし誇り高い方ですから、縄をかけられることを拒んだかもしれません」

「ついてこい」

 清照がそう言って、アーミラリとふたりで庭園のなかほどまですすんだときだった。

 重たい音を立てて、庭園の出入口が閉まった。と同時に、植え込みの影から、弓をかまえた兵士たちがいっせいに立ちあがる。

 いずれも、オーラリー将軍配下の、絶塞の兵だ。

「こ、これは?」

 アーミラリは蒼白になって、清照の影に隠れようとする。

 それを、物陰からでてきた人影がとどめた。

 額には白い玉。淡い榛色の髪が、月の光をあびてほとんど金色に見えた。

「あなたは……!」

「動くな、アーミラリ」

 ヘリオスフィアだった。

 足下には、黒衣をまとった男がふたり、横たわっている。息はあるようだが、重傷のようだ。ヘリオスフィアがつかむ半月刀からは、新しい血がしたたり落ちている。

 ヘリオスフィアは刃先で男たちを指し示した。

「こいつらが、キノスラ王からつかわされた兵だと? 王を侮辱するな、アーミラリ。こいつらはただの賊ではないか」

「——いや。彼らの剣筋は、いちおうどこかで訓練を受けたもののようです」

 べつの方向から、今度は黒髪の若者があらわれた。李冰陽だ。同じく血に汚れた半月刀を下げているところを見ると、どこかに怪我人か、あるいは死体を放置しているのだろう。

 アーミラリは夜目にも蒼白になって、ヘリオスフィアと李冰陽、そしてまわりの兵たちを見まわしている。

 最後に、清照を見た。

「杜清照殿。もしや、あなたが密告を……?」

「密告もなにも。告げるのは当然だろう」

 アーミラリはぐっと喉を鳴らし、次いで不敵に口の端を揚げた。

「私の話は、最初から疑われていたということですか」

「いや。うっかり信じてしまうくらい、うまい嘘だった。本当のことなどひとつもないくせに、それなりに整合性はあったからな。特に李冰陽殿が野心家だとか、恨まれやすいという話にいたっては、うっかり説得されそうになったものだ」

 清照の言葉に、ヘリオスフィアもうなずいた。

「うむ。俺もその話を聞いたときは、感心した。アーミラリも謀反人とはいえ、有能であることは否定できないと思ったな」

「真実がまざった嘘は、いちばんもっともらしく聞こえるものだ」

「……おふたりとも。なぜそんなに息があっているんですか」

 李冰陽は苦虫をかみつぶしたような表情で清照とヘリオスフィアを睨んだ。

 それからアーミラリへ目をむける。無表情だが、緑の瞳はおそろしく剣呑だ。

「アーミラリ」

 その声だけで、アーミラリはすくみあがった。そして李冰陽が一歩踏みだすと、アーミラリは操り人形のようながくがくとした動きで、後ずさる。

「私が野心家であることは、否定しない。だが、私が彼を裏切るだと? いくら嘘とはいえ、言うにこと欠いて——」

「ひえ……」

 ヘリオスフィアが肩をすくめた。

「やめないか。そういうふうに怒ると危なそうなところが、野心家とか裏切りかねない奴と言われる原因なんじゃないか」

 李冰陽はとたんにばつが悪そうに黙りこんだ。

 ヘリオスフィアはアーミラリに目を移す。

「お前の有能さには、実際、助けられたことも多かったんだがな。残念だ」

 正直な気持ちのこもった声だった。アーミラリは唇をかんだ。

「お前が知っているはずの宮廷への侵入路は調べて、賊も全員とらえてある。お前も、すべて喋ってもらうぞ」

 アーミラリはしばらくうつむいていたが、やがて顔をあげ、清照を見た。

「……いつ、どうして気付かれましたか。たとえ怪しまれても、証拠はなかったはずですのに」

「たしかによくできた嘘だった。だが、だからこそおかしいと思ったんだ」

 アーミラリは目をしばたく。

「どういうことです?」

 清照は答えず、アーミラリから目をそらす。するとヘリオスフィアと目があって、またべつの方向を見た。

 そんな清照の様子を見ていたアーミラリが、ふと目をみはった。

「もしや、あなたは——」

 だが、言葉は途中でとぎれた。清照を見つめたまま、彫像のようにかたまってしまう。

 それからゆっくりと、前のめりに倒れた。

 その背中には、短い針が突きささっている。吹矢だ。

「誰だ!」

 全員が、吹矢の放たれた方向を見た。

 四阿だ。帳の陰に、男がひとり、吹き筒を持って立っていた。男はすぐに頭にまいた布をずらして顔を隠したが、一瞬だけ見えた顔は、たしかに見覚えのあるものだった。

「あいつ!」

 北門をでた岩場で、清照にからんだ男のひとりだ。仲間であったはずのふたりを無情にも毒で殺し、逃げた男である。

 そして覆面をした姿は、絶塞に到着する直前、行列を襲った盗賊の首領のものだった。

「賊が残っていたぞ。とらえろ!」

 李冰陽が、刀を指揮杖のようにかかげて、兵に命じた。一方、ヘリオスフィアはアーミラリのそばにしゃがみこむ。

「毒矢だ。薬師を呼べ! 皆も奴の吹矢に気をつけろ!」

 兵士が一瞬、足をとめる。

 その隙に、男は身をひるがえして岩肌にはった蔦を引きはがした。蔦の下には岩肌でなく、岩壁にうがたれた隧道の小さな出入り口がのぞいている。

 男は、その小さな出入口にとびこんだ。

「逃がすか!」

 清照は松明を一本つかむなり、男を追う。

「待て、杜清照! 岩山のなかは迷路だ。そこは賊の侵入経路だから、なかにも兵士がいる。そいつらにまかせろ!」

 ヘリオスフィアの叫び声が聞こえたが、清照はとまらずに隧道にとびこんだ。

「——岩山の出入口をすべて封鎖しろ! 誰もとおすな。ほかにもくせ者が残っているかもしれん。さがせ!」

 ヘリオスフィアが兵たちに命じる声が、たちまち小さくなっていく。

 以前にも、月季とともに岩山にくりぬかれた隧道を歩いたことがあった。だがそのときの隧道は、天井が高く、壁や床もまっすぐに整えられていた。

 しかし北の庭園からつづく隧道は、天然の洞窟に近いものだった。足下には階段が削りだされていたが、幅や高さが不揃いで、ともすれば足を踏みはずしそうになる。その上、あちこちから水滴がしたたり落ちて、岩肌が濡れているために、ひどくすべりやすい。足下に気をつけてばかりいると、張りだした岩に頭を打ちそうになる。

 その危険な道を、清照はほとんど無謀なほどの勢いでかけおりた。

 洞窟は、横道や岩のくぼみが多く入り組んでいて、ヘリオスフィアの言うとおり、まさに迷路だった。だが落ちついて耳をすますと、誰かが道を走りくだっている足音が聞こえてくる。清照はその足音を追って、一瞬も迷わずにくだっていった。

(絶塞の兵士は? どこかにいるはずなのに)

 道の途中で、清照はいきなり足をとめた。岩陰に兵士の姿をした男がふたり、倒れているのが目に入ったのだ。

「おい。大丈夫か?」

 声をかけたが、返事はない。それどころか、息遣いも聞こえなかった。だがざっと見たところ、目立った外傷はない。

(毒矢か)

 これほど入り組んだ、薄暗い場所だ。忍びよって毒矢で相手を倒すのも、そのあと隠れているのも、さしてむずかしいことではなかっただろう。

 清照は大きく舌打ちすると、ふたたび足音を追って、迷路を下っていった。

 降りていくにつれて、次第に足音よりも水音が耳につくようになってきた。

 やがて水音がとどろくまでに大きくなり、足音が完全にかき消されたのと同時に、清照は広い空間にでた。

 同時に、冷たく濃密な水の気配がおしよせてくる。清照は思わず足をとめて息をつき、あたりを見わたした。

 目の前を流れているのは、大きな地下河川だった。巨大な岩のすきまから、どうどうとしぶきを立てて流れおち、いったんはゆるやかに流れて、またすぐに岩のあいだに消えていく。

(キュビワノ河——)

 この岩山の洞窟も、もとは水の流れによって削られたものかもしれない。地上の乾いた荒野が信じられないほどの、ゆたかな水量である。

 絶塞の人々を潤す、命の水だ。 

 だが清照は感慨もなく、べつのことを考えていた。

(あの男はどこだ? ここにきているはずだ。どこだ!?)

 河の岸辺には、水を絶塞の城内まで引きあげるための水車や水路がつくられていた。だが近辺に、逃げた男の姿はない。

 そのとき、水路にそった道の先で、剣戟の音がした。

 鏢をかまえて走って行くと、兵士が数人、倒されている。

「おい! 大丈夫か?」

 そばへかけよる。兵士はいずれも息があった。刀傷を負っているようだ。毒ではないなら助かるかもしれないと、清照は希望を持った。

 と、兵士が目を開け、血に汚れた指で、小道の先を指さした。

「く、くせ……も——」

「くせ者か。この先にいるんだな」

 うなずくかわりに、兵士は瞼をぎゅっと閉じた。

「気をしっかり持て。すぐにヘリオスフィア王子か、李冰陽殿が来てくれるぞ」

 清照の言葉に、兵士は安堵するように眉間の力を抜いた。

 清照は立ちあがり、道をすすむ。

 一本道を行くと、頑丈な鉄格子の扉があった。鍵はあいている。扉の先は短い通路があり、そのつきあたりに重そうな扉があった。

 宮殿の他の門と同じく、おそらく鉄格子が内扉で、あの重い扉を開ければ外にでられるのだろう。男も、外に逃げたのだろうか。

 清照は鉄格子の扉を開け、短い通路をすすんだ。そして鏢をにぎりしめると、重い扉をおしあけ、一気に外にでた。

 その瞬間、岩陰から半月刀がふりおろされた。清照は前方に転がって、刃を避ける。

 身を起こすと同時に、鏢をかまえた。敵をさがしながら、周囲の状況もたしかめる。

 両側に、絶壁がそびえていた。あたりには背の高い木々がおいしげり、草が地面を覆っている。先刻見た地下河川のゆたかな水が、木々を繁茂させているのだ。地上から少しのぞき見たときの印象よりもずっと、植物が多い。

 相手の男の姿も、木々の影にまぎれて、ろくに見えなかった。

 清照は意識を集中させ、鏢をにぎりなおす。久しぶりの夜露が臑をぬらすのが、ひどく冷たく感じられた。

 谷底を吹く風は強く、枝葉は大きくざわめいている。

 男はざわめきにまぎらせるように、声を発した。覆面越しだからか、少しくぐもった声だった。

「女。よくここまで追ってこれたものだ。アーミラリに地図をもらっても、岩山の洞窟は迷いかねなかったのに」

 そこで、首をかしげるほどの間をおいた。

「——いや。お前は道を知っていたに違いない。ここをでたところに、隠れるのに手頃な岩があることを知らなければ、今の攻撃もよけられなかったはずだからな」

 清照は答えず、鏢をかまえる。木々が茂っているので、縄鏢を振りまわせば枝にからまるおそれがあった。せめて周囲がもっとよく見えていれば、逆に枝や幹を利用するということもできるのだが。

 もっとも、相手も毒の吹矢は使えないだろう。

(剣でくるか)

 清照は息を整え、攻撃に備える。

「はじめて見たときから、只者ではないと思っていたが……女、何者だ」

 男の影が、一歩こちらへ近づいたようだ。だが地面を草が覆っているせいか、足音が小さく、気配がつかみにくい。清照は相手の声を探るため、答えた。

「はじめてというのは、絶塞に入る直前、月季公主の行列を襲ったときのことか」

「そうだな。お前も公主も、男に引けを取らない、いや、並の男では歯が立たないほどの強さだった。公主とその侍女とは、とても信じられなかったよ」

 低い声が、近づいてくる。清照は呼吸を乱さないよう、自分を抑えた。

「だが月季様は公主だし、私もただの侍女だ」

「そうか。しかし、だったら主を守っているべきだったな」

「なに?」

 男の思わせぶりな答えに、ざわりと肌が粟立った。

「……どういうことだ。貴様、なにをした?」

「せっかく宮殿へ手引きして入れてもらえる貴重な機会だからな。欲ばって、第一陣だけでなく第二陣も用意したのさ」

 息をのんだ。

「ヘリオスフィア王子がとらえた以外にも、まだほかにくせ者がいたのか!」

 清照の焦燥が心地いいのか、相手はくくっと笑った。

「むしろ、王子たちにとらえられたほうが囮役だ。アーミラリの企てが成功するとはかぎらないからな。実際すぐにばれたが、奴は王子たちの注意をひいてくれた。岩山の地図もくれたし、いたれりつくせりだよ」

(月季公主!)

 なんとしても、一刻もはやく月季のそばへ戻らねばならない。

 清照はなんとかこの場から逃げだす道はないかと、あたりをうかがった。だが岩山の洞窟への出入口は、男の背後にある。そのほかの逃げ道は、暗くてわからなかった。

(この男をさっさと倒して、行くしかない)

 だが、それはかなり難しいと思われた。目の前にいるこの男が強いことは明らかだ。ヘリオスフィアの矢を短剣ではじきとばした手並みも、かなりのものだった。

 しかも、恥知らずで卑怯ときている。手段を選ばない敵ほど厄介なものはない。

 男がまた、近づいた。清照の腕を知っているはずなのに、まるで無頓着に歩んでくる。清照を怖れていないのだ。

 清照は鏢をにぎりしめた。

「まあ、俺たちは急がず、ゆっくりやろうじゃないか。お前はじっくり楽しませてくれそうだ」

 相手の殺意は肌を刺すほどまざまざと感じられるのに、一方で敵意はまったくない。それが気味悪かった。

 なんとか男の足をとめたくて、言葉をぶつけてみた。

「貴様、布拉赫ブラーエの手の者か」

 男は、清照の言葉に虚をつかれたようだ。気配が一瞬、ゆらいだ。

「……いきなり、なにを言うかと思えば。根拠もなく」

「たしかに、確たる証拠はない。だが月季公主とヘリオスフィア王子の両方を狙う勢力として可能性がいちばん高いのは、布拉赫だろう。天香国は仮にも大国。それと結びついて、しかも毎年大金をせしめるとなれば、トルクエタムの西方での影響力は確実に大きくなる。布拉赫としては見過ごせない話だ。しかも自分たちは、天香国への略奪がやりにくくなるのだからな」

 男は黙って、清照の話を聞いている。

「天香国とトルクエタムの婚姻が破綻すれば、トルクエタムが西方で台頭するのを防げる。うまくいけば、天香国は次は布拉赫と手を組むかもしれないな。ほかの公主と、おそらくは大金を手土産にして。布拉赫としては悪くない話のはずだ」

 天香国と組んで、トルクエタムに攻めこむこともできるかもしれない。そうなれば、交易都市であるこの絶塞も布拉赫のものになる。

「アーミラリには、金か便宜を約束して、宮廷の使用人を抱きこんだというところか」

「……いや、待て待て。お前、大事なことを忘れてやしないか? 俺たちが狙ったのは公主と李冰陽だ。ヘリオスフィア王子じゃない。花茶に毒をしこんだり矢を射たり、ふたりがともにいるところを狙っていただろう」

「違うな。お前たちの真の狙いはヘリオスフィア王子だ。アーミラリからトルクエタムと天香国のあいだに不信があると聞いて、我々を撹乱するためにその状況を利用したんだろう」

 男は答えなかった。清照はその隙に、身を低くして前進する。

 ややおいて、男はおさえきれない驚きを含んだ声で言った。

「女、何者だ? いったいなにを知って——」

 最後までいうのを待たず、清照は相手に地を蹴り、襲いかかった。両手にかまえた鏢で、つづけざまに斬りつける。

 だが、男はまったく動揺していなかった。半月刀で清照の攻撃を冷静に難なく受けとめ、はじきとばしてしまう。清照は身をひるがえして後退すると同時に、手甲から次の鏢を抜きだして、相手に放った。

 手応えはなかったが、それでいい。相手の動きを制限するための投擲だったからだ。両手に新たな鏢をにぎりなおして、いるはずのところに突進する。

 ほぼ勘だけで、斬りかかった。衣が指先に触れる。空振りかと思う前に、反射的に蹴りを入れた。が、それもかわされて、逆に体勢を崩されてしまう。

 咄嗟に腕をあげて頭を守ったところに、左から痛烈な一撃がきた。半月刀で斬りつけられたのだとは、一瞬遅れて気がついた。鏢をしこんだ手甲をはめていなければ、左腕を斬り落とされていただろう。痛みに前腕がしびれている。

 腕をかばいながらも、とまらずさらにとびのいた。半月刀が、紙一重で肩先をかすめた。

「今のは運がよかったな、女。だが次はそうはいかんぞ」

(——やはり、強い)

 清照は、けっして弱くない。それでも相手は清照の動きを的確に読んで、よけている。戦い慣れているという印象だ。余裕が感じられた。

(だが、負けるわけにはいかない)

 はやく月季のところへ行かなければ。清照は息を切らしながらも、もういちど鏢をにぎりなおした。強かろうとなんだろうと、この相手にだけは負けたくなかった。

「ぐずぐずしないでかかってこい、女。もっとも、俺はここでゆっくりお前の相手をしてやってもいいんだが」

 男の声は、余裕どころか楽しんでいるようだった。

「どうせ宮殿はほかの奴らにまかせてあるし、そちらの結果がどうなろうと、トルクエタムと天香国の友好関係が悪くなれば、それで仕事は成功したようなものだしな」

「……貴様」

 仲間であるはずの者に対する無責任な言いように、思わず我を忘れて言葉を返していた。

「絶塞の手前で、公主の行列を襲ったときも。貴様は馬から落ちて逃げられなくなった手下を、蹄にかけて始末していたな」

「うん? ああ、あれか? あれがどうかしたか」

「キュビワノ河の谷の上でも、お前のことを兄貴と呼んで慕うごろつきどもを、毒で始末した」

「もともと、宮殿周囲を見はらせるために雇った地元のごろつきどもだ。それにしても予想以上に弱かったがな。俺のことを喋られても困るんで、ああしたんだ」

「そして今夜は、アーミラリだ。あの男も貴様の仲間だったはずなのに、助けようともせず、それどころか用がなくなれば命を奪って——」

 男がため息をついて、首を横にふった。

「当然だろう。怒るようなことか?」

 一瞬で頭に血がのぼった。

「貴様!」

 鏢を怒りにまかせて放ったが、勢いはなく正確でもなく、あっさりとはじきとばされた。

「女。なにを怒っている?」

 平然と問うてきた。

「役に立たない上に他人にだしぬかれるような奴は、死んでもしかたないだろう。奴らに食わせる余裕など、荒野にはない。俺にもないのは無論のこと、王にすらはない。それともお前には他人に分けあたえる分があるというのか、女」

 それはむしろ、真摯な問いだった。

「死にたくなければ、誰も彼も必死で生きるしかない。手段を選んでいる余裕はない。それでも生きのびられない奴のほうが多いんだ。……ここはそういう場所だ」

 男の言葉に、荒野の風景が思いだされる。あそこはたしかに、人間が安穏と生きて行ける場所ではなかった。そして絶塞周辺ほどではないにしろ、トルクエタムも布拉赫も、天香国のような沃野はほとんどないはずだ。

 そんな厳しい土地では、男の言うように奪ってでも騙してでもしなければ、生きていけないのかもしれない。弱い者を見捨てるのも、仕方のないことかもしれない。頭では、清照も男の言葉を少し肯定する。

 それでも、心はどうしても納得しない。

(——月季公主なら)

 清照の主は、きっと肯定も理解もしない。微塵も迷わない。こむずかしいことを考えるより先に、他人を守るためにとびだしていくはずだ。たとえ自分が損をするような状況でも。いつだってそうなのだから。

 そうして清照は月季の侍女として、なにがあってもしかたなく無謀な主についていく。

(なにしろ、この私が選んだ主だからな)

 清照は手甲から、残った鏢をすべて抜きだした。そして間をおかず、次々と男へ放つ。

 そして最後に残った縄鏢を抱えるように持ち、男にとびかかった。

 先に投げた鏢は、男の動きをとめ、さそいだすためのものだ。狙いどおりに男が鏢をよけるかはじくかすれば、最後にはわずかに体勢を崩した状態で清照の全力の攻撃を受けるはずだった。

 しかし男は、清照の狙った位置で待ってなどいなかった。すばやく身を返すと、まわりこんで、横合いから体当たりするように半月刀で斬りかかってきた。

 清照は鏢で攻撃を受け流したが、体重をかけた攻撃を完全には受けとめきれない。相手の勢いを利用といえば聞こえはいいが、なかばはじきとばされるようにして、男から距離を取った。

 体勢を立てなおし、身を起こして、ふと目をほそめた。

(明るい?)

 足元に、自分の影が落ちている。

 気づけば清照は木々の陰からでて、星明りの下に身をさらしていた。周囲には隠れるところなどない。男はこれを見越して、清照に体当たりをかけてきたのだ。

 誘導されていたのは、清照のほうだった。

 はっとして男を見ると、男はすでに覆面をおろし、毒針を仕込んだ吹き矢をくわえて、待ちかまえたように清照を狙っている。

(やられる——)



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