3
午後になって、ヘリオスフィアと李冰陽が月季の部屋を訪れ、ことの次第を説明してくれた。
「矢は、前庭の西にある、塔の屋上から放たれたと見られる。塔は、いつもは封印してなかに入れないようにしてあるのだが、鍵が壊されて屋上に弓と矢筒がそれぞれふたつ残っていた。すぐに前庭の出入り口を閉めたが、あやしい者に気づいた者はいない」
「ですが、前庭は人が多いのではありませんか。誰かが、なにかを見ているはずでは」
清照は尋ねたが、ヘリオスフィアは首を横にふった。
「たしかに、人は多い。前庭は城内の民に解放されていて、誰でも自由に出入りできるんだ。子供が泉で遊んでもいいし、商談などもできるようにもなっている。——しかし逆に言えば、人混みのなかにまぎれこみやすいということだ。なにかを見ているはずだが、あやしいと気づいた者はいない」
「どうか、ことをあらだてないようお願いいたしますわ、ヘリオスフィア王子」
月季が訴えた。
「わたくしは大丈夫です。ときに恨まれるのも、皇家に生まれた者の負うべきつとめ。このようなときこそ温情を示し、理解と共感を得られるようつとめねばなりません。厳しくあたっていては、人の心は離れるばかりです」
顔を高くあげ、言う。ヘリオスフィアと李冰陽は顔を見あわせ、そろって月季を見た。
「公主……それはまことに立派なお心がけですが」
「これは大罪だ。未遂とはいえ、寛大にすませていいことではない」
「ですが、狙われたわたくしがかまわないと申しあげているのです」
ヘリオスフィアと李冰陽は口をつぐんだ。しかし月季はふたりの様子に気づかずに、わずかに頬を赤らめた。
「もちろん、わたくしのそばにいた李冰陽には、申し訳ないと思っております。まきぞえで、下手をすれば命を落とすところでしたもの」
「いえ、私は」
李冰陽は焦ったように言ったが、月季は首を横にふった。
「わたくしが狙われたということは、トルクエタムに天香国との婚姻を望まぬ者がいるということでしょう。わたくしは今こそ、トルクエタムの王子の花嫁としてふさわしい女であることを、身をもって示さなければなりません!」
ヘリオスフィアと李冰陽は、微妙な表情で月季を見つめるばかりだ。それを尻目に、清照はうやうやしく頭を下げた。
「公主の態度こそ、古の賢人が唱えた仁恕というものでございましょう。心より敬服いたします」
月季は嬉しそうにほほえんだ。
「ありがとう、清照」
「ですが、まだ結論づけるのははやいかもしれません。狙われたのは存外、公主ではなくて李冰陽殿かもしれませんし」
清照が指摘すると、月季は小鳥のように首をかしげた。
「なぜ、李冰陽が狙われるのですか?」
「李冰陽殿が、絶塞の太守であるヘリオスフィア王子にとって、優秀な側近でいらっしゃるからです。おまけに次代の神官長と期待される、将来有望な若者とみなされているとの話ではないですか。充分、暗殺の対象になると思われます」
「まあ、そんな!」
それまで気丈にふるまっていた月季が、一転してうろたえた。
ヘリオスフィアと李冰陽は、厳しい表情で視線を交わしている。
「今は結論を急がず、あらゆる可能性を吟味し、事態を明らかにすることが肝要かと存じます。でなければ、もし李冰陽殿が狙われていた場合、その対処がおろそかになってしまいかねません」
「それはいけません!」
月季は叫ぶように言った。
「そなたの言うとおりです、清照。まずは証拠や証人を探しましょう」
「それはこちらにお任せいただこう」
ヘリオスフィアがすばやく口をはさんだ。
清照は月季に言う。
「公主はすでに日頃から寛容な態度を示しておられるのですから、かわる必要はございません。いつもどおりの生活をお守りください。それこそが、この絶塞を混乱から守ることにもつながるでしょう」
「そうですね。ありがとう、清照」
月季はすっかり晴れやかな表情になって、満足した様子だった。
その視線から逃れるように顔を背けたヘリオスフィアが、清照に目配せした。
「では、我々はこれで失礼する。念のため、離宮のまわりに警護を増やすが、ご容赦願いたい。一刻もはやく下手人をとらえ、公主にご安心いただくことをお約束する」
「よろしくお願いいたしますわ、王子」
「では、私がお見送りを」
清照は立ちあがり、ヘリオスフィアと李冰陽を離宮の入口まで送った。
「——公主はあれで納得なさるお方だが、私はそうではない」
清照が言うと、ヘリオスフィアは立ちどまり、清照へふりかえった。
「くわしく聞かせてほしい」
清照が重ねて言うと、ヘリオスフィアは、小さくため息をついた。
「……正直、公主には聞かせたくない状況だ。オールトの高官たちと、大衍殿をはじめとする天香国の官吏たちが全面的に対立している。大衍殿は、月季公主がまたも狙われたとお怒りだし、オールトの者は、あの矢は冰陽を狙ったものだと主張している」
「あなた方ふたりは違うのか」
「決定的な証拠はないうちは、判断の下しようがない。証拠どころか、双方とも理屈に無理がある」
ヘリオスフィアは髪をかきあげた。
「矢を射ったと見られるのは前庭の西の塔だ。お前は気づいているだろうが、あそこは天香国からの使節団が滞在している迎賓殿が近い」
清照はうなずいた。当然、気づいていたことだった。月季と違って、侍女たちは月季と使節団の連絡のために、離宮と迎賓殿のあいだをなんども行き来している。当然、宮殿の前庭との位置関係も把握していた。
ヘリオスフィアは講義をするような口調でつづける。
「塔から逃げだした者は見つかっていないが、もしも賊が前庭ではなく、屋根づたいに迎賓殿に逃げたのなら、前庭に目撃者がいないのも当然だ。しかも迎賓殿は、最近になって、警備を減らしている。オールトの高官は、監視がなくなったのをいいことに、使節団ぐるみで襲撃を隠蔽していると見ているんだ」
「だが、すぐ隣に月季公主がいるのに、王子の側近に矢を射るというのも無理のある話だろう。下手をすれば公主にあたるというのに、危険すぎる。そこまでの弓の手練れは、今の天香国の兵にはいないぞ。いるとしたら、むしろ騎馬の民——あなた方の兵だ」
「大衍殿もそう言っていた。今度こそ、公主を天香国の使節団と一緒にしてもらうと、しつこ……いや、粘ること。たいへんなものだ」
疲れきったように、肩を落とす。大衍との交渉は、よほど難航したようだ。双方に不信の念が強くあるからだろう。
清照は李冰陽を見やった。
「あの矢は、月季公主と李冰陽殿の両人を狙っているように見えた。もちろん、矢がそれたということも考えられるが——」
李冰陽は清照を見ようとしなかった。清照の視線を避けようとしていたのかもしれないが、ほかのことを考えているようにも見えた。
「——いずれにせよ、天香国には月季公主も李冰陽殿も狙う理由がない。月季公主はたしかに伝統を重んじるあの国において異端だったが、始末するほどではない。むしろこうして政略結婚の道具にできて、よかったというのが本音だろう」
「お前。言葉がすぎるぞ」
ヘリオスフィアが眉をひそめてたしなめたが、それは無視してつづける。
「李冰陽殿のことにしてもそうだ。ヘリオスフィア王子も李冰陽殿も気を悪くしないでほしいが、いくら優れた神官でも、天香国の人間は李冰陽殿を重要人物と思っていない。あなたがたもご覧になっただろうが、月季公主でさえその可能性に思い至らなかったくらいだからな」
「……冰陽を重要人物だと、見なしている奴がいるのかもしれない」
ヘリオスフィアは独り言のようにつぶやいた。李冰陽がヘリオスフィアを見やり、清照にむきなおる。
「お言葉を返すようですが、杜清照殿、トルクエタムも月季公主を暗殺する理由などありません」
「かつての敵国の公主を恨んでいる者はいないということか?」
「以前にも申しあげましたが、トルクエタムではオールト内部に裏切り者がいたと見なす者が多いのです。この都市を荒廃させたことに憤る者はおりますが、恨みとまでは」
「もちろん、まったくいないとまでは言わない。天香国の軍に身内を殺されたものだっているからな。しかし、そうしたあからさまに敵意を持つ者は、アンティキティラの都に移した。兵士にも商人にも、注意は怠っていない」
ヘリオスフィアが言いついで、李冰陽とうなずきあった。
「むしろ、月季公主は莫大な持参金をお持ちになってこられるわけですし。歓迎する者も多いくらいです」
「やはり、天香国ともトルクエタムでもないところだと思うんだがな」
清照はヘリオスフィアをにらんだ。
「つまり、どこだと言いたい?」
ヘリオスフィアはわずかに逡巡し、答えた。
「——以前にも言ったが、ブラーエとか」
「布拉赫か」
清照は腕を組み、ヘリオスフィアの言葉を吟味した。
「トルクエタムの民と布拉赫の民は、顔立ちや体つきはあまり変わらないのだったな。だが言葉はどうだろう」
「かなり違う。風習もな。が、もともと交易をしているから、商人ならばどちらの言葉も達者に話せるし、習慣の違いも隠すことはできるはずだ」
「ならば、街中にまぎれこむことも容易か……」
今度は李冰陽が答える。
「城下や周辺には注意しておりますが、隊商にまぎれてやってくる者たちすべてを把握するのは困難です。正直、都市に入られたおそれはありますね」
あるいは、盗賊として絶塞の周囲にひそんでいるかもしれない。交易でこのあたりを何度も訪れたことのある者なら、荒野で野宿をするすべもあるだろう。
(そういえば、絶塞にくる途中にであった盗賊たちはどうなったのか)
だが清照は首をふって、考えを打ちきった。
「布拉赫の仕業としたら、その目的は今回の婚姻の邪魔をすることだろう。しかしそうなると、狙われるのは月季公主とヘリオスフィア王子だ。李冰陽殿が狙われるのは、おかしい」
ヘリオスフィアと李冰陽は黙りこんだ。追い打ちをかけるように清照は言う。
「あらゆる状況や可能性を吟味するのは当然だ。しかし賊が誰であろうと、この都市で月季公主になにかあればあなた方の責任なんだぞ。それを忘れるな。以前に毒殺をはかった奴が誰かも、まだわかっていない。大事なのは公主だ。あなた方がどう考えているにせよ、公主の守りがおろそかになっては困る」
「……無論、承知している」
苦々しげだったが、それでもヘリオスフィアは認めた。
「とにかく、公主にも言ったとおり、今はまだ調査中だ。状況が明らかになるまでしばらく、月季公主には離宮でおとなしくしていてほしい。もちろん、お前もだ、杜清照。公主のためにも、騒ぎを起こすなよ。今なにかあれば、事態が収拾できなくなるからな」
「言われるまでもない。だいたい、私も騒がせようと思って行動しているわけではないのだからな」
清照は言いかえしたが、ヘリオスフィアはますます不機嫌な顔になっただけだった。
しかし、清照も他人のことは言えないが、月季はおとなしくしているような少女ではなかった。
「わたくしも賊を探すお手伝いをしたほうがよくはないでしょうか」
二日目には、そう言いだした。
「先日申しあげたとおり、今は静観すべきときです。講義の再開にそなえて、聖典を読みなおしてはいかがですか」
「そうですね……」
「それとも、剣のお稽古でも。お相手いたします」
「そうですね……」
月季は清照の言葉にうなずくが、気持ちがこもっていない。
要するに、離宮にこもっていることに飽きてきたのだ。ヘリオスフィアと李冰陽も、襲撃以来離宮にきていない。危険だからと外にもでられない。変化のない生活は、月季がなにより苦手とするものだった。
清照が気をつけているので、月季が離宮を抜けだすことはなかったが、とにかく落ちつかない。
また清照も、四六時中月季を見はっていることはできないし、なにもかもを見とおして予測できるわけでもなかった。
まるでその隙を狙うように、ことは起きた。
「——どういうことです!」
月季の怒号に、清照は化粧箱を手入れしていた手をとめ、部屋を走りでた。
月季がいる居間にかけこむと、月季は部屋の中央で、両足を踏んばるようにして立っていた。その前に、下女がふたり、小さくなって平伏している。
「先日の襲撃は、天香国の者が李冰陽を狙ったと——そのような噂が宮殿をめぐっているというのですか!」
月季はわなわなと、身をふるわせていた。下女は緊張のあまりか、失神しかけている。
「お、お許しくださいませ」
「私どもは」
「そんなことどうでもよいから、答えなさい! なぜ、わたくしたちが李冰陽の命を狙わなければならないのです!」
「私、あの」
下女のひとりが助けを求めるように清照を見たが、かえって怯えて、顔色を青くした。どうやら清照の怒りが表情にでていたようだ。
しかし、怒りたくもなる。宮殿の心ない噂は、月季の耳に入らないように気をつけていたというのに、いったいこの女たちはどんな状況で噂を月季に聞かせてしまったのだ。仕事の途中で噂話でもしていたのか。だとすれば、使用人の躾がなっていない。
梅花や桃花、桜花もでてきて、月季をなだめようとした。
「心ない噂でございます、公主。まともに耳をかたむける必要はございませんわ」
「なにか事件が起これば、こうした口さがない噂もわくもの。紫微宮でもそうだったではありませんか。こんなときこそ泰然として、堂々とした態度でおいでなさいませ」
だが月季の憤りはおさまらなかった。
「そなたたちも、この噂を知っていたのですか。教えなさい」
怒りを侍女たちへむけた。梅花たちはうろたえ、顔を見あわせるばかりだ。
「言いなさい! わたくしは、知らなければなりません」
これ以上隠しても、月季はおさまるまい。むしろ、真実を知ろうとして、無茶をする可能性のほうが高い。そう考えて、清照はすすみでた。
「申しあげます」
「清照!?」
梅花たちがあわてたが、清照は口を閉じなかった。
「悪意のある噂が流れているのは事実です。ですがもちろん、根拠などありません」
「……李冰陽は、そのような噂を信じているのですか。わたくしも、李冰陽に害をなそうとしている者の仲間だと疑っているのでしょうか」
「そのような愚かな男ではないと存じます。ヘリオスフィア王子も」
月季は唇を引き結んでいる。梅花たちも下女も怖れて顔を伏せていたが、清照だけは、月季の目をまっすぐに見返していた
「問題は、そうした噂が流れるような不信の念が、天香国側にも絶塞側にもあるということです。公主におかれましては、このようなときこそ冷静に——」
「噂を信じていないなら、なぜ李冰陽は離宮にこないのです!」
月季は清照をさえぎり、訴えるように叫んだ。そして答えを待たずに、愛用の剣をつかむと、部屋を飛びだした。
「月季公主!」
「公主、お待ちくださいませ!」
あわてて追ったが、月季は既に離宮の正面玄関にたどりつき、衛士と押し問答をしていた。先日の襲撃以来、離宮の出入りは特に厳しくなっており、公主といえども衛士は断固として譲ろうとしなかった。
「どきなさい! わたくしはヘリオスフィア王子にお目通りしなければなりません」
「なりません、月季公主。先だって襲撃されたのをお忘れですか」
「どうか王子のお許しなく離宮をでないよう願います」
「おどきなさいと言うのに!」
そのとき、折り悪く、というべきだろう、ヘリオスフィアと李冰陽が近くの廻廊を歩いてくるのが見えた。
「月季公主!」
「いったい、どうしたのです?」
口々に言った。月季は李冰陽を見つめ、ヘリオスフィアを見る。そしてさっと顔をあげるや、剣を抜きはなった。
「月季公主!」
その場の全員が驚愕し、声をあげた。
「公主、なにを——」
「なんのおつもりですか!」
月季はすぐには答えず、剣先をヘリオスフィアにぴたりとむけた。
「ヘリオスフィア王子におうかがいしますわ。もしやあなたも、わたくしをトルクエタムに害をなす者のひとりとお疑いでしょうか」
あまりにも直截な物言いに、清照は思わず額に手をあてた。
しかしこれが月季という少女だ。真正面からしか勝負できないのだ。
ヘリオスフィアは落ちつきはらって、腰に手をあてていた。
「疑うというのは、なんのことだ」
「およしくださいまし。腹の探りあいなど、まっぴらです」
即座に言いかえす。
「わたくしは、敵を倒すつもりなら正面からまいります。こそこそと遠くから矢で狙うだなんて卑怯なことはしませんわ! だいいち、わたくしはあなたも、あなたのまわりの者も、民も、誰ひとり敵とは思っておりません。わたくしはあなたを、生涯の夫君となる方だと思って——ここを故郷だと……」
声がふるえかけたが、月季はぐっと息をのんでこらえた。そして、一歩大きく踏みこむと、切っ先をヘリオスフィアの眼前にまでつきだした。李冰陽も衛士も顔を蒼白にしたが、ヘリオスフィアは顔色も変えず、じっと月季を見返していた。
「少し落ちつかれるといい、月季公主」
「落ちついておりますわ。剣先をご覧くださいませ」
たしかに月季のあげた剣は、びくともしていなかった。
「勝負いたしましょう、ヘリオスフィア王子。わたくしがあなたに負ければ、剣も槍も、わたくしとともにきた天香国の兵の分まですべておわたしします。お好きに軟禁でもなんでもすればよろしいですわ」
「ご自分が勝てばどうするつもりだ」
「信じていただきます!」
皆、黙りこんだ。月季の覚悟に感じ入っているわけではない。呆れているのである。
ようやく、李冰陽が言った。
「公主。どうかお気を鎮めてください。あなたや天香国の方々を軟禁など、できるわけがないでしょう」
「かまいませんわ。笑顔の裏で疑われるくらいなら、そのほうがずっとましです!」
月季はヘリオスフィアを見つめたまま答えたが、あえて李冰陽を見ないようにしているとも見えた。
月季は無茶な理屈を訴えている。しかし理屈は無茶でも、月季の一途な思いには、なにか人を説得しうるだけのものがあった。
それは外交においては、はなはだしくあやういものだろう。清照もそれはわかっていたが、彼女を諫めようとは思わなかった。月季の気迫は、かつて陋巷から自分をすくいだしてくれたときのそれと同じだったからだ。
『どうか前におすすみください、公主』
とめることなどできない。すすめと言ったのは自分だ。手伝うとも言った。
「さあ、どうなさいますの、王子」
「——承知した」
「ヘリオスフィア王子!?」
李冰陽が驚いてとめたが、ヘリオスフィアは腰の半月刀を抜いて、月季とともに開けた場所にすすみでた。
「トルクエタムでは女性も剣や弓を使うと聞きましたから、わたくしのことも侮ったりなさいませんわよね。最初から本気でまいりましてよ」
「あなたの腕は、盗賊に襲われていたときに見ている。俺も手加減などしない」
ふたりはそろって武器をかまえ、刃の先を交差させる。
「ヘリオスフィア王子! 月季公主も、馬鹿なことはおやめください!」
ふたりが聞き入れようともしないのを見て、李冰陽は実力で引き剥がすしかないと判断したらしい。腰の半月刀に手をかけつつ、ふたりにかけよろうとする。
だが清照が、その前に立ちふさがった。
「控えろ。手出しは無用だ、李冰陽殿」
「なにを……正気ですか!」
李冰陽は、信じがたいとでもいう表情で清照を見た。
「あなたもおふたりをとめなければならない立場のはずですよ、杜清照殿」
「私のつとめは、主である月季公主のお手伝いすることだ。邪魔する奴は——」
清照は手甲から縄鏢をだすと、指先からすとんとたらした。李冰陽は目をみはる。
「——私が相手をする」
「清照殿!」
「剣を抜け、李冰陽殿。主は主同士、側近は側近同士というのもいい趣向だろう」
「清照!?」
月季が剣をかまえたまま、あわてた。ヘリオスフィアも動揺している。
「杜清照、やめろ」
「おふたりはそちらで、先にはじめて下さい」
李冰陽は、清照を睨みつけている。その視線を受けて、清照は笑ってみせた。
「神官らしく、風を起こして戦ってもいいぞ。ヘリオスフィア王子によると、本来の神官のつとめではないとのことだが、それでも王子より強い風を起こせるのだろう?」
「やめろと言ってるだろう!」
ヘリオスフィアが怒鳴ったが、李冰陽はなおも清照を見据えていた。
清照の挑発を、この男はどう受けとめるのだろう。
(さて、どうする?)
ややあって、李冰陽は完全に冷静な口調で答えた。
「……承知しました。お相手しましょう、清照殿。術でなく、刀で」
静かに半月刀を抜き、かまえた。
いつもの穏やかさは消え、硬質な緊張感が李冰陽を包んでいる。研ぎすまされて、まるで刃そのもののようだ。
李冰陽は、清照が縄鏢で戦うところを見ている。それでもなお、清照の挑発に応じて戦うということは、清照と戦うにあたって、それなりに自信があるということだ。
そして李冰陽は、自分を過大評価する男には見えない。
(おもしろい)
清照はゆっくりと縄鏢をまわしはじめた。
「清照……李冰陽」
月季の心配そうな声を消すかのように、旋回する縄鏢がうなる。李冰陽は動かない。低く腰を落として、清照の出方を待っていた。
(それならそれで——)
だしぬけに、清照は縄鏢を李冰陽の足元にむかって投擲した。李冰陽はすかさず刀で縄鏢を払う——かと見せて、刀で縄鏢の縄を絡めとる。
そして、縄がからまって使えなくなった刀を潔く投げ捨て、かわりに腰の短剣を引き抜いた。同時に縄を自らの体にまきつけるように強くたぐりよせ、清照をひきよせる。
さしもの清照も、力くらべでは男にかなわない。体勢を大きく崩し、引きずられるように前に倒れこんでしまう。
「清照!」
月季が悲鳴をあげた。
だが清照が倒れたのは、見せかけだけだった。前転しながら新しい鏢を手甲から取りだすと、李冰陽の眼前、懐深くで身を起こし、跳ねあがるように喉元を狙う。
「やめろ!」
今度はヘリオスフィアが叫んだが、清照はとまるつもりなどない。逆手にかまえた鏢で、鋭く斬りつけた。
李冰陽は咄嗟に身をそらし、紙一重の差で刃をかわした。そうしながら、その無理な体勢のまま短剣を大きく払い、清照を威嚇する。清照はすかさず身をかがめ、いったん李冰陽から距離をとった。
その隙に、李冰陽も体勢を立て直す。
清照をにらみつけてくる緑の目には、焦りも怖れも見えない。完全に冷静だ。
「さすがですね」
責めるようにほめた。清照は笑う。
「あなたが縄を切るかどうかして動きを制限してくるだろうと、予想していただけだ」
「予想?」
「ふつうは、ああするだろう? 特にあなたは、私が縄鏢で戦うのを見ているし」
清照はもう一本、縄のついていない鏢を取りだして、両手にかまえた。
「だが縄鏢を封じたのは早計だったな。実は私は、距離を取るより、身を接して戦うほうが得意なんだ」
「そうでしょうとも」
李冰陽も身を低くして、短剣をかまえる。
「いい加減にしろ!」
ふたたび、ヘリオスフィアが怒鳴った。その横では、月季が青い顔をしていた。
「清照……」
「なにをしているんです、おふたりとも。あなた方の邪魔をさせないために、私がこうして戦っているというのに。はやくはじめてはいかがですか」
言いおわるなり、清照はふたたび李冰陽に襲いかかった。左右の鏢で斬りかかり、あいだに蹴り技もはさんで、変化をつける。
李冰陽はたしかに充分に鍛錬をつみ、実戦もこなしていたに違いない。しかしそのほとんどが、騎馬での戦いだったはずだ。間合いの短い戦いは、明らかに勝手が違う様子だった。李冰陽は短剣で清照の攻撃を防ぐが、それだけで手いっぱいで、攻撃に移ることができない。
だが逆に言えば、ろくに経験もないのに清照のすばやい攻撃を防ぎきっているのは、見事と言うほかなかった。清照はつづけざまに攻撃しているのに、いまだに決定的な一撃を与えられずにいる。このまま長びけば、むしろ清照が不利になるのは目に見えていた。
月季とヘリオスフィアは、もはやかまえも解いて、清照と李冰陽を見守るばかりだった。自分たちの戦いは完全に忘れているようだ。
そのとき、近くの廻廊を、アーミラリが通りかかった。
清照たちの様子を見るなり、悲鳴のような声をあげる。
「こ、これはいったい、なにをなさっておいでですか! ——誰か!」
こともあろうに大声で人を呼んだ。すぐに、大勢の足音が入り乱れて近づいてくる。離宮のまわりに、元から兵士が配置されていたのだろう。
先頭をやってくるのは、オーラリー将軍だ。彼もまた、清照たちを見て血相を変えた。
「シン・ヘリオスフィア! 冰陽!」
叫ぶと同時に半月刀を抜いた。オーラリー将軍がともなっていた兵士たちも、いっせいに抜刀する。
これには李冰陽が動揺した。
「将軍! 待て、来るな!」
オーラリー将軍をとどめようと、完全に清照から目をそらして、手をあげてしまう。
だが、これを見逃す清照ではなかった。
「李冰陽!」
月季が口を両手で覆った。ヘリオスフィアも叫ぶ。
「やめろ!」
次の瞬間、足下から風がわき起こった。
清照は足をすくわれ、体勢を崩す。いや、頭から風におさえつけられたのか。どの方向から吹いたのかもわからないほど、奇妙な動きの、そして強い風だった。
風に翻弄され、清照は思わず手を李冰陽へのばした。李冰陽も清照の手をつかもうとしたが、届かない。清照が高くうかんでしまっていたからだ。風には抗うこともできず、清照はほとんど投げとばされるようにして地面に投げだされ、頭と背中を強く打ちつける。受け身を取ることもできなかった。
「……う……」
視界が薄れていく。他人のいるところで意識を失うのかと思うと、怖かった。必死に起きあがろうとしたが、かえって目眩がひどくなる。
意識を完全になくす直前、月季がかけよってくるのが見えた。