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絶塞  作者: 西東行
第3章
12/18

 その夜は、清照が宿直をつとめる番だった。侍女のひとりが月季の寝室の手前にある控えの間で、終夜眠らずに主の用に備えるのである。朝になるか、呼ばれるかでもしないかぎり、寝室には足を踏みいれない決まりだ。

 だが清照は、月が中天にかかったころに立ちあがると、帳のむこうに声をかけた。

「月季公主。少しよろしいでしょうか」

「清照?」

 すぐに明瞭な声で、答えがかえってきた。起きていたのだ。清照はそっと帳をあげ、部屋に入る。

 月季は寝台ではなく、窓辺にすわっていた。清照を見ていぶかしげな表情をうかべたが、ほかにもっと気がかりなことでもあるような、集中を欠いた表情をしていた。

「どうしました?」

「さしこむ月の光があまりに明るいので、お休みになれないのではないかと思いまして」

 だが月季は、今はじめて気づいたかのように空を見あげ、声をあげた。

「まあ、本当に! なんと明るいのでしょう。夜空全体が皓々と輝いているではありませんか。天香国の朧月とはまったく違いますね」

 月季はしばらく月を見つめていたが、ふと視線を落とした。

「絶塞では、月や星が大きく、明るく感じます。——けれど同時に、人が小さく儚く思えてしまいますね」

 清照は相槌をうたず、まったく関係のないことを口にした。

「今夜のように月が明るい夜は、公主とはじめてお会いした日のことを思いだします」

「清照?」

「覚えていらっしゃいますか、公主?」


 先に相手に気づいたのは月季ではなく、清照のほうだった。

 当然だ。あのときの月季は、陋巷にはあまりにもそぐわない、花を刺繍した銀朱色の豪奢な衣装を着て歩いていた。おまけに練習用の木刀をたずさえていたのだが、これがまた白檀に彫刻をほどこした、芸術品と言っていい品だった。

 月季が、手持ちの衣装のなかでもっとも地味なものを着て宮城を抜けだしてきたと聞いたのは、後日のことである。なにも考えていなかったわけではなさそうだが、しかしあちこち詰めが甘かった。なにしろ垢じみていないというだけで目立つような、薄汚れた界隈だったのだ。そんな場所で、月季はあまりにも清潔で、無防備だった。もの珍しそうにきょろきょろしている様子は、襲ってくださいと言わんばかりだった。襲われなかったのは、まだ子供で、金そのものは持っていなさそうだったからだろう。そして、身代金目立ての人さらいや強盗がでるには、さすがにまだ日も高く、露店や通行人の目が多すぎた。

(それなら、私がこいつを狙ってやろう)

 身ぐるみをはいで、衣装を奪うのだ。自分があんな派手は衣装を着るわけにはいかないから、売って金にして、食べ物とべつの衣装を手に入れればいい。

 そのとき着ていたものは、あちこちすりきれ汚れきり、襤褸同然だった。汚れた衣のほかに持っているのは、小さな神像ひとつきりしかなかった。田と水路の神の像だが、彫りは荒く薄汚れていて、売って金にできそうなものではなかった。

 あの頃は、着替えどころか住処もなかった。たったひとりで、野良猫のように、見知らぬ家の軒先で夜露をしのいでいた。

 生きるためにはなんでもした。主には、かっぱらいである。生来敏捷だったが、盗んで逃げるうちにさらに足がはやくなった。すさんだ暴力にさらされて、腕っぷしも相当に強くなっていた。とはいえ、つねに相手を負かしてしまうと、警戒されたり恨まれたりして、かえって危険な目にあう。だから、たまに盗みに失敗したり、店主につかまって殴られるようにしていた。そのほうが、長い目で見れば安全だからだ。

 壁に立てかけてあった天秤棒を手に取ると、背後から月季に忍びよった。

 まず、あの子を軽く殴る。たぶん、怒って追いかけてくるだろう。追ってきたら、人のいない路地に逃げて、誘いこむ。そしてふたりきりになったら、棒で倒して衣装を奪ってしまおう——。

 そんな計画をざっと立て、さて実行しようと棒をふりかぶった、そのときだった。

 月季が気配を感じとったか、くるりとふりかえったのだ。

 まともに目があって、ふたりともかたまった。こちらは棒をふりかざしたまま、月季は杏型の目と口を大きくひらいて。つかの間、互いにただ凝視していた。

 次に取った行動は、今考えてもまずかった。

 逃げたのだ。なぜそんなことをしたのか、今思いかえしてもわからない。とにかく、身をひるがえすや逃げだしていた。

「お待ちなさいっ!」

 月季が追ってきた。これで最初の計画どおりにことがすすむと、安堵した。

 両側が高い壁になった路地に、月季を誘いこむ。壁のむこうはそれぞれ、寺院と墓地だ。墓参りや寺参りをする日取りではなかったので、人通りはなかった。月季を路地の奥深くまで引きつけたところで、さっとふりむく。

 月季もぱっと飛びのいて、木刀を構えた。

 その構えを見て、自分より弱いとわかった。だが同時に、最初に思ったよりは強そうだとも思った。ちゃんとした師匠をつけてもらって、真面目に鍛錬をしている子だ。

 月季は木刀の先を、まっすぐにむけてきた。

「そなたは何者です! 答えなさい」

 答えるかわりに、最初の予定どおり、棒で襲いかかった。

「あっ!」

 見込みどおり、すばやさでは相手にもならなかった。月季は木刀で防御しようとしたが、かわしきれなかった。一撃をまともに額にくらって、声をあげる。だがここで手をゆるめたりはしない。つづけざまに攻撃をくりだした。

 月季はなんとかして反撃しようとしていたが、最初から勝負は決まったようなものだったのだ。そもそも月季が木刀なのに対して、こちらは長い棒を武器にしていたのだ。間合いが違う。一方的に棒で殴り、突いた。

 完全に冷静なつもりだったが、今思いかえせばどうだろう。暗く残酷な高揚感に突き動かされてはいなかったか。襤褸を着て、盗みをして生きる惨めな自分は、清潔で無防備な、無垢な相手を痛めつける資格があるのだと、心の何処かで思っていなかったろうか。

 そんな資格など、誰にもありはしないのに。

 あのときの自分にも、それくらいわかっていたに違いない。月季をさんざんに殴りつけながら、ひどく虚しかったのは覚えている。

 いくらもたたないうちに、月季は木刀を取り落とした。それを蹴りとばして、なおも打擲する。月季は腕をあげて頭をかばっていたが、それもたいしてもたず、とうとうしゃがみこんでしまった。

「お前の負けだ」

 棒を突きつけて、言ってやった。

「負けたんだから、私の言うことを聞け。その衣を脱いで、わたすんだ」

 月季は涙のにじんだ目で、それでもきっと見あげてきた。

「嫌です!」

 むかついたので、頬を平手で張った。月季の身がかしいで倒れかけたが、地面に手を突くかわりに、こちらの手をつかんでとどまった。

「……わたくしは、あなたに負けてなど、いません!」

 そう叫んで見あげてくる目は、戦意を失っていなかった。

「負けてないのに、衣をくれてやる義理はありません!」

「負けてるだろ! 武器だって落としたじゃないか!」

「武器がなくても、まだ手があります! 歯もある! 戦えます、負けてません!」

 爪がくいこむほど手首をつかまれて焦った。小さな手なのにふりほどけず、手を引こうとして、知らず後じさっていた。だが月季は、決して放そうとしなかった。

「わたくしは、あなたなどに負けていません!」

 頑固に繰り返した。

「負けてるのはあなたです。さっきから逃げてばかり。今だってうしろに下がろうとしています!」

 はっとして足をとめたが、既にごまかしようがなかった。

「お前のほうが弱いじゃないか! 放せってば!」

「弱いけど負けてない! 負けてない!」

「放せ!」

 もう、武術もなにもない。互いに子犬のように、取っ組みあった。こぶしで叩き、爪でひっかいて相手を引きはがそうとしたが、月季も負けていなかった。手を無茶苦茶にふりまわして抵抗し、果ては蹴りとばそうとした足に、逆に噛みついてきた。

「痛っ!」

 思わず叫んで、またも身を退いてしまった。すかさず月季が手首をひっつかみ、ぐいと引っぱる。

 黒い瞳が、間近に迫った。

「あなたが、わたくしに負けたのです!」

 呆然としたところに、間近から掌打がきた。これにはくらりときて、思わず尻餅をつく。

「ほら、勝ちました!」

 月季はすかさず身を伸ばすと、勝ち誇った声で言い放った。

「あなたは負けたのですから、わたくしの言うことを聞きなさい!」

 それからはもう、なにがなんだかよくわからない。気がつけばおしきられて、月季に紫微宮につれてこられていた。

 月季が天香国の公主であると知ったのは、このときだ。いっそ殺しておけばよかったと後悔したが、遅すぎた。

 傷だらけの月季の姿に、当然ながら紫微宮は大騒ぎになった。自分は死罪にされるだろうと覚悟を決めたが、違った。

「紫微宮を抜けだして、陋巷で怪我をしたところを、この者が助けてくれたのです! だからお礼に、宮女とすることにしました」

 月季はそう、言いはったのだ。

「名は——ええと」

 まだ名を聞いていないということに、月季も気づいたのだろう。目で問うてきたが、こちらとしても首をふるしかなかった。

「名がないのですか?」

「……姐々には小妹と呼ばれていましたが、姐々はずっと前に死にました」

「それは名前とは言えないでしょう。生まれはどこです?」

「今はもうない邑です。小さかったので、よく覚えていません。馬にのった、異国の言葉を喋る男たちに襲われたので、姐々が私をつれて逃げだしたそうです。でも姐々とも、本当に血がつながっていたわけではありませんでした」

「馬——それは吐勒靼か布拉赫の者でしょう。そなたの故郷は西だったかもしれません」

 だがそれだけわかっても、どうしようもない。宮女は論外だというように見おろしているし、月季も困って、そわそわしている。

 そのとき風が吹いて、ふたりは顔をあげた。

 紫微宮のその一隅には竹がたくさん植わっていて、それが吹きわたった風に大きくざわめいたのだ。ちょうど満月がのぼったところで、さしこんだ月の光が、幾筋もの蒼い影を地面に落としていた。

(——月が……)

 満月は皓々と輝いていた。

 そして自分と月を隔てるはるかな距離のあいだに、竹が端然として存在していた。

 まっすぐに伸びる稈の、しなやかな力強さ。月光に透ける葉の、青翠色のみずみずしさ。葉ずれの音は涼やかで、影はさやかだった。

 そしてそのたたずまいの、深い静謐さはどうだろう。

 宮女は月季の言葉を待っているというのに、自分たちはふたりとも、ずっと月に見入っていた。

 どれだけそうして月を眺めていたのか。

「……深林、人知らず。明月来たって相照らす——」

 月季がほそい声で長嘯した。答えるようにまた、竹林が風にゆれてさざめく。木漏れ日ならぬ、竹越しの月の光が、水面の模様のようにゆれた。

「……清照……」

 月季がつぶやいた。

「そう、そなたは今から、清照と名のることにしなさい」

「名? 私の?」

 美しい名前をもらったことは理解できた。月季を見ると、月季はうなずき、笑った。

「そうです。名前がないならつければいいし、故郷がないなら、ここにさだまればいいのです。そなたは清照で、わたくしの侍女です」

 月季は得意そうだった。

「どうです、清照。いい名でしょう?」

「……はい」

 思わず返事をしたあのときから、自分は清照となり、月季に仕える身になった。

 どうせ行くあても生きる目的もなかったので、紫微宮で働くことに支障などなかった。

 それどころか、正直に言えば、あのときから生きることがつらくなくなった。月季に名づけられるまでの自分は、まだ死んでいないというだけだった。

 かつて清照に、生きていれば、いつかかならず、心から笑える日が来ると教えてくれた人がいた。しかしあの頃の自分には、その『いつか』を待つということが虚しかった。今日一日を生きのびる意味が見つけられないのに、どうして明日に行きつけよう。

 だが自分にも居場所と、名前ができた。清照として眠り、翌朝には清照として起きて、誰かに清照と呼ばれる。刹那を生きのびていた自分が、日々を重ねられるようになったのだ。心から笑える『いつか』を、待てるようになったのである。

 月季には、大きな恩ができた。清照は人に借りを作るなど大嫌いなので、恩などさっさと返してしまいたい。そのために、日々侍女としてのつとめに励んでいる。

 けれどふしぎなことに、働いても働いても、いっこうに恩を返せた気がしない。


 清照は絶塞の月を見あげる。大きく、明るく、しかし遠い月を。

「——あのあと、どうして私を紫微宮につれていったかお尋ねしたら、あまりにも私に生きる覇気が感じられないので、気になってつれかえったとおっしゃいましたね」

「まあ、清照。あれは忘れなさい。いくら子供の言うことにしても、傲慢でした」

 月季は恥ずかしそうに、両手で顔を覆った。

「人を生かそうとか、希望を与えようとか……大それたことです。わたくしは思いあがっていたのですよ」

「おかしなことを。公主は実際、私に生きる希望をくださいましたのに」

 清照は笑いとばしたが、月季はうなだれた。

「ですが……あの頃は気づいていなかったことですが、わたくしがそなたを街からつれかえってそばにおいたせいで、そなたはずいぶん嫌がらせを受けたそうではないですか。わたくしはいつもそうです。考えなしに行動して——」

 月季はもじもじと、指を弄んでいる。清照は肩をすくめた。

「賤しい者が宮中にあがるとは不届きと、嫌がらせを受けたのは事実です。ですが公主に信頼いただいていることが、私を支えてくれました。お忘れなきよう。公主に拾われなければ、私は陋巷でずっと、獣のように生きていたのです」

 絶塞で見るような、ひたすらあざやかな月は、当時の自分にはあまりに美しく、そして遠すぎて、見ても絶望しか感じられなかったのではないか。あのときは竹が介在してくれたからこそ、月とむきあうことができたのだ。

 今はこうして、冷ややかに眩しく照らす月を臆することなく見あげることもできる。

 自分は変わったのだ、ここまできたのだと、清照は思った。

 清照は身をかがめ、うつむく月季の顔をのぞきこんだ。

「どれほど思慮深い者でも、自分の行動がどんな結果をもたらすか予測することはできません。人にできることは、自分の行動がよりよい結果に結びつくよう、努力することだけです。——どうか前におすすみください、公主。私も微力ながら、お手伝いいたします」

「清照」

 月季はまだうつむいていたが、思いなおすように顔をあげた。

 そして清照を見つめ、ほほえむ。

「ありがとう、清照。わたくしは公主としていたらない女ですが、それでもそなたのような者が尽くしてくれる。それがわたくしの公主としての自信であり、誇りです」

 そうして、月を見あげた。

「大丈夫。わたくしは天香国の公主としてのつとめを立派にはたしてみせます」




 翌日の朝、家令のアーミラリが、従僕に長櫃を持たせて月季の部屋を訪れた。

「聖典の講義もはかどっていらっしゃるようで、喜ばしいでございます。月季公主に天の祝福があらんことを」

 深々と礼をとった。

「月季公主が聖典を学ばれ、またトルクエタムの衣装を好んで身につけておられることは、すでに宮殿だけでなく町の評判となっております。民の、公主への敬慕もますます深まっているようですよ。まあ、当然のことではございますが」

 媚びているととられてもおかしくない態度だが、商人出身である彼にとっては、通常の挨拶なのかもしれない。

 とにかく、如才ない男だというのが清照の印象である。離宮での月季の饗応は李冰陽が行っていたが、迎賓殿での官吏たちの饗応役はアーミラリだった。トルクエタムに順応するつもりのない彼らを応対するのはなにかと面倒なはずだが、アーミラリはそつなくこなしているようだ。また月季への配慮もおこたらず、数日ごとにご機嫌うかがいに来る。その際、宮殿や街の噂話も仕入れてくるあたり、やり手だと思われた。

 アーミラリは長櫃から美しい写本を取りだした。

「こちらの聖典の写本は、絶塞の東市場の元締めより、聖典を学ばれている公主にと、あずかって参りました。お役立ていただければ幸いにございます」

 いたるところに金箔や銀箔をはり、あざやかな赤や青、緑の絵の具で彩色され、まるで宝石をちりばめたような写本だった。その絢爛豪華さに、月季だけでなく、侍女の梅花や桃花、桜花もそろって大きな吐息をつく。

「まあ、美しいこと。ですがアーミラリ、このような高価な物を理由もなく受けとるわけにはまいりません。宮殿と商人とのあいだに、よくない習慣を作ってしまいます」

 アーミラリは肩をゆらして笑った。

「公主は清廉な方でいらっしゃる。しかし天の教えを学ばれる方をお手伝いすることは、トルクエタムの民として当然のつとめです」

「ですが」

「天の教えの理解が深い公主のお輿入れによって、天香国との和平が成れば、オールト——絶塞はますます交易で発展し、彼らも儲けるのです。お気になさいますな」

 清照は顔をあげた。

「しかしそうなると、北方の布拉赫フラカクと商売をしていた商人などは、おもしろくないでしょうね」

「いやいや、杜清照殿」

 即座に手をふった。あまりにもはやい反応だと、清照には感じられた。

「天香国とトルクエタムが手をつないだことで、布拉赫は不利な立場になったかもしれませんが、それは王族や将軍たちにとってだけのこと。商人にはあまり関係ありません。むしろ街道も安全になりますし、商品を徴発されることもなくて、布拉赫の商人も仕事がしやすくなったでしょうね。私が知る布拉赫の商人も皆、公主のお輿入れを心より喜んでおります」

 アーミラリは商談でもするかのように朗らかに言った。これもまた、朗らかすぎると思えた。

「この絶塞には、布拉赫と商売をしている者もいるのですか?」

 月季は写本の頁をめくりつつ、尋ねる。

「おりますとも。布拉赫は鍛鉄のおかげで一部族からひとつの国にまで大きくなったくらいでしてね。鉄や黄金がふんだんに採れる土地なんですよ。それに北部には大森林がございまして、珍しい獣や植物が多く、上質の毛皮や、貴重な薬がとれるんです」

「森ですか! 同じ騎馬の民の国でも、トルクエタムも布拉赫はいろいろ違うのですね」

「もちろんでございますよ、月季公主! 言葉も風習も違いますし、あがめる神も違います。商売もむずかしいですが、やりがいはございますね」

 そこでアーミラリは、なにかを思いだしたように目を見ひらいた。

「そうそう、李冰陽殿のお祖父様もお父上も、布拉赫との商いをしておりましたな」

「李冰陽の?」

 月季は手にしていた写本を取り落としそうになった。清照は急いで受けとめ、月季のかわりにアーミラリに問うた。

「意外な気がします。李冰陽殿は、お祖父様がもともと天香国の民でしょう。商売も、天香国としているとばかり思っていました」

 アーミラリは首をふった。

「李家はアンティキティラを拠点にして、天香国だけでなく、布拉赫などさまざまな国と手広く商売しておられるのです。オーラリー将軍も、布拉赫に近いトルクエタム北部のご出身で、李冰陽殿のお父上とは北の地で知りあったと聞きましたな」

「オーラリー将軍はこのあたりのご出身ではなかったのですか」

 寡黙な武人の姿を、清照は思いうかべた。

「ええ。布拉赫との戦で武勲を立てた方ですよ。李冰陽殿のお父上とは、北部にいらしたころからずっと懇意にされていて、そのご縁でオーラリー将軍は、ヘリオスフィア王子と李冰陽殿の武術の指南役になられたということです」

「そうでしたのね!」

 月季が身をのりだしたのを見て、アーミラリは満足げにうなずく。

「今日も李冰陽殿と聖典を学ばれるのでしょう? ぜひ、先ほどの写本をお使いください」

 しかし月季はそこで居住まいを正すと、首をふった。

「……いいえ。わたくし、今後は李冰陽の講義は受けないことにしたのです」

 アーミラリは笑みを消した。

「は? とおっしゃいますと」

「今後は、わたくしが神殿におもむいて、神官のどなたかに聖典を教えていただこうと思っておりますの」

 月季の言葉に、アーミラリは大きく口を開けた。

「それはまた、いったいなぜです!?」

「なぜと言われても、神殿はそのためのところでしょう? 神殿は、天の教えを知りたい者は誰でも、拒まず受けいれて教えると聞きました」

「それはそうですが、公主ともあろう方が下々の者と立ちまじわられるなど……」

「もう決めましたの!」

 月季はふりきるようにアーミラリをさえぎると、立ちあがって部屋をでていった。清照は呆気にとられたアーミラリを残して、月季を追いかける。

 ここ最近は、門衛はいても、離宮の門はつねに開かれていた。清照は軽く挨拶だけして、離宮をでる。

 月季は、離宮をでてすぐの大庭園にかけこんでいた。

 大庭園は、政治を行う外廷の中心だ。大庭園をかこむ廻廊にそって、会議のための八角形の建物や、裁判のための塔が並んでいる。廻廊にはつねに、大臣や官吏が長衣をひるがえらせて行き来していた。

 それでも、大庭園のなかは静かだった。

 門ひとつへだてた外は宮殿前の広場で、そこは一般人が自由に立ちいることができるため市場のようなにぎわいがあったが、大庭園では鳥の鳴き声か噴水の音しか聞こえない。柑橘類や柳、薔薇など、荒野のなかとは思えないほど緑が多いせいかもしれない。

 月季は、噴水のある泉のそばにしゃがみこんでいた。水面にうつった自分の姿を、見るともなく見おろしている。

 うつむき加減の横顔が、寂しそうだった。清照は月季の顔を見ないように、背後から声をかけようとした。

「公主——」

 だがそのとき、荒々しい足音がひびいた。顔をあげた月季がさっと顔を赤らめる。

 大庭園の反対側からやってくるのは、李冰陽とヘリオスフィアだった。

「月季公主!」

 李冰陽がヘリオスフィアを廻廊に残し、かけよってきた。

「たった今、アーミラリに聞きました。今後はご自分で神殿にかよって、聖典を学ぶおつもりとか——どういうことでしょうか?」

 おだやかながらも、強い口調で迫った。月季は李冰陽から目をそらせながら、言い訳するように答える。

「こ、言葉どおりです。仮にも学ぶ立場でありながら、師を呼びつけているような傲慢な心構えでは、まともに学ぶことなどできませんわ」

「呼びつけるもなにも、あなたは天香国の公主であり、このオールトの太守でもあるヘリオスフィア王子の妃となられる方ではないですか」

 聞くなり、月季がきっと顔をあげた。

「まあ、李冰陽! 学問に身分は関係ありません。いえ、君主こそ謙虚さを知らなければならないのです! 天香国では、統治者は仁と礼を重んずるべしと言われておりました」

「それはおっしゃるとおりですが」

「それにあなたは神官としてだけでなく、ヘリオスフィア王子の右腕としても忙しいはず。なのに、わたくしのために、あなたばかりがヘリオスフィア王子にまで、ずいぶんと時間を取っていただきました。やはり、わたくしは態度をあらためねばなりませんわ」

「それにしても、あまりに急なお話です。私のほうではなんの支障もありませんし、むしろ公主とのお話を楽しみにして、有意義な時間を過ごしておりましたのに」

 月季は真っ赤になった。

「楽しみに!? あ、あの、李冰陽……」

 なかなかおもしろい応酬だ。清照が少しはなれた場所からふたりを見ていると、ゆっくり歩いてきたヘリオスフィアが追いついて、清照の隣に立った。

「どういうことだ。お前はなにか知っているのか」

 低めた声で問うてきた。

「むしろあなたに聞きたいくらいだ。なにも気づいていないのか」

「なにをだ?」

 清照は嫌味たらしくため息をついた。この堅物は、なにも気づいていないらしい。

「まあ、ここは公主のご意志を尊重していただけないだろうか。公主もいろいろと考えておられるのだ」

「ふむ」

 清照の言葉に、ヘリオスフィアは腕を組んだ。

「……それより、お前。月季公主が聞いているときは俺にも敬語を使うのに、公主が聞いていないとその口調に戻るのか」

「私は公主の侍女だからな」

 清照はにやっと笑って、ヘリオスフィアを見やった。

「なんだ。私に敬語で喋ってほしいのか?」

「馬鹿言うな。俺は——」

 唐突に、清照とヘリオスフィアは口をつぐんだ。

 次の瞬間、矢音の唸りが宙をきった。

「月季公主!!」

 清照は月季のそばへかけだす。

 だが月季のそばへ追いつくよりもはやく、背後から強い風が吹いて矢の勢いを弱めた。間をおかず、月季と李冰陽がそろって抜刀し、矢を斬りおとす。勢いが削がれているとはいえ、ふたりとも驚くべきあざやかな手並みだった。

「公主! お怪我は」

「大丈夫ですよ、清照」

 月季は答えたが、それでもさすがに厳しい表情だ。

 清照は月季と入れかわるように前にでた。

 矢は、庭園を隔てた建物から放たれたらしい。だがあやしい者の姿は見えなかった。

(どこからだ? どっちを狙った?)

「衛兵!」

 ヘリオスフィアも走りでてきて、叫ぶ。たちまち、あたりは騒然となった。



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