5
翌朝、月季は離宮の中庭に立って空を見あげていた。
中庭には廻廊にそって、日よけのための葡萄棚をしつらえているので、空はあまり見えない。かいま見える空は狭いが、ひたすら青く高かった。雲の一片も流れず、鳥もかよわない空を、月季はいつまでもじっと見つめていた。
「——昨夜の星の、なんと凄まじかったこと。絶塞ではあれがふつうなのでしょうか。あれほどの星々が、今はいったいどこに消えてしまったものでしょう」
月季の手には棍がにぎられていたが、先刻から手はとまっていた。体を動かすことがなによりも好きな月季が、こうして物思いにふけるなど、きわめて珍しいことである。それだけ、昨夜見た星空と星玉が、月季にとって強く心に残るものだったということだろう。
清照は月季につきあって棍をふるっていたが、とっくにひとりでもできる型の練習にかえていた。
「星々は今この瞬間にも、あの青空の果てで瞬いているはずです。青空がまぶしすぎて見えないだけですよ」
「では星玉も、星の光を今もあびて、力をためつづけているということでしょうか」
「その星が地平線の下に落ちていなければ、そうでしょうね」
「ああ、そうですね。……まことにふしぎです」
月季はまだ空を見つめたままぽつりと言った。
そのままぼんやりしてたが、しばらくするとまた口を開いた。
「清照。そなた、李冰陽が昨夜言ったことをどう思いますか」
「星玉の話ですか?」
「いえ。先だっての戦で、絶塞側に裏切り者がいたという話です」
清照は棍をふっていた手をとめる。
「そんな者がいるとしたら、戦のあとで天香国から報酬として領土や官位を得ているのではないでしょうか。しかし、そうした者がいるという話は聞いたことがありません」
「そうですね。将軍たちとはよく話をしましたが、わたくしも知りません。むしろ、たいへん激しい戦いで、天香国もかろうじて勝ったと聞きました。裏切り者がいたなら、もっと楽に勝っていてもおかしくなかったのに」
「内密のうちに取引された裏切りだったか、あるいは秘密のまま葬られたという可能性もありますね」
陰惨な話に、明快さを好む月季は眉をひそめた。
「李冰陽は、とても怒っているように見えました」
「味方に裏切り者や内通者がいるかもしれないと疑うのは、気の重いことでしょうから」
「そのような者、いなければよいのですが」
その裏切り者のおかげで天香国が戦に勝ったことは、気にとまらないようだ。沈んだように考えこんでいる。本当に珍しい。清照としては、少し調子が狂う。
「よいことを思いつきました、公主。気晴らしに遠乗りに行ってみませんか」
清照が提案すると、月季はようやくふりかえった。
「遠乗り? 荒野へですか」
「白楊関にいた西方の商人が教えてくれました。トルクエタムの者はしばしば、荒野の真ん中にひとり立ち、天をあおぎ見て祈るそうです。我々もためして見ませんか?」
月季はうつむいた。
「面白そうですが、勝手に城外にでるのはよくないと思います。昨夜もヘリオスフィア王子に叱られてしまいましたし」
なんと、月季が弱気になっている。天香国ではさんざん、好き勝手に紫微宮を抜けだして乗馬にでかけていたというのに。これはやはり、外につれださねばならぬようだ。
「お許しをもらえばいいだけのことです。さあ、お支度を」
支度といっても、することはほとんどなかった。清照も月季もトルクエタムの衣装を着ており、これはすぐに馬にのれる格好だったからだ。日よけのための、絹糸で刺繍をした大きな布を、はおるようにかぶっただけで部屋をでる。
離宮の正面にある門までくると、供の兵士をつれたオーラリー将軍が、衛士と話をしていた。
毒殺未遂のあとの話し合いで、月季を離宮から迎賓殿に移すという案は、けっきょく却下されていた。天香国の方士が術を施すことも、拒否されたという。とはいえトルクエタム側も、こうして将軍を直々によこしているところを見ると、月季を放置するつもりはないらしい。
あるいは、清照がたびたび抜けだしているので、その経路を調べようとしているのかもしれなかったが。
清照はふと、思いついた。
「公主。オーラリー将軍に遠乗りすることをお許しいただきましょう。絶塞を守る責任者の将軍に許可をいただいたなら、ヘリオスフィア王子とて文句はありますまい」
「いい考えです、清照」
「それにしても、絶塞の兵士はおもしろい刀を持っておりますね」
「半月刀ですね! 片刃の武器を使うこつは、どのようなものでしょうか」
清照がオーラリー将軍に歩みよっていくと、オーラリー将軍は敵意のあふれた目で清照をにらんできた。
濃い眉の下にある琥珀色の目は厳しく、ひとつきりでも迫力は充分だ。もう一方の目は刀傷でつぶれ、髭の下にもいくつもの傷が隠れている。指は数本ない。いずれも戦で負った傷だろうか。子供なら容貌を見ただけで泣いてしまうかもしれない強面だが、清照はおかまいなしに近づいた。
口を開こうとしたとき、月季がオーラリー将軍の供の兵に声をかけた。
「その刀を見せていただけませんか?」
「え? あの、はい」
月季の話の邪魔をしないよう、清照はオーラリー将軍に小さな声で告げる。
「将軍。月季公主が荒野へ遠乗りにでられるので、許可願いたい。私がお伴をする。兵の随伴は不要だ」
オーラリー将軍はぴくりと眉を動かしたが、無言のままだった。
やけに寡黙な男だ。もしや怪我などで喋れないのではないかと疑ったが、つい今しがた衛士と話していたのだからそれはない。沈黙をおしとおすのは、清照か天香国への反感のあらわれだろうか。
いずれにせよ、明確に反論しなければ許可したも同然である。自分に好意的ではない相手の意を汲んで遠慮するなど、清照の流儀ではなかった。
「武人の沈黙は肯定ととってよろしいな」
答えるかわりに、オーラリー将軍は眉間のしわを深めた。
「お、おい! 将軍になにを申しあげている!」
兵士が月季の相手をしつつ、咎めるように清照に言った。
「月季公主のご用を将軍にお伝えしたまで。扉を開けろ。——さ、公主、参りましょう」
「なに」
「オーラリー将軍のお許しはいただいている。これ以上、月季公主のお邪魔をするのは無礼であろう。下がれ!」
一喝すると、兵士も衛士も下がったが、訴えるような目をオーラリー将軍へむけている。だがオーラリー将軍はなおも無言で、縫いとめようとでもするかのごとく鋭い目で清照を見据えていた。
その視線を無視して、清照は月季と離宮をでた。
だが厩舎へむかう途中でも、おそらくオーラリー将軍の指示だろう、部下の兵が遠巻きに清照たちを追ってくる。月季も気づいて、清照に顔をよせた。
「清照、あれをどう思いますか。将軍は、外に行くなと言いたいのでしょうか」
「でしたら、最初から外出を禁じるまでのこと。たんなる嫌がらせかと存じます」
月季はむっと眉をひそめた。
「なんと狭量な! 将軍となった武人ならば、器の大きな者と思っていましたのに。参りましょう、清照。あんなのは気にすることはありません!」
足早に、清照の前に立って厩舎に行く。
月季が厩舎にあらわれると、少しばかり騒ぎになったが、月季は目もくれなかった。主人の月季がそんな態度であるから、清照もあえて意に介さない。
こうなると、馬丁では月季をとめることなどできなかった。なにしろ相手は天香国公主であり、太守の婚約者である。
城門でも、オーラリー将軍の許可を得た上で遠乗りにでかけるとくれば、兵たちにも手のだしようがなかった。
かくして清照と月季は馬にまたがり、宮殿の外にでた。
「——ああ、やはり外はいいですね!」
月季は深呼吸をした。
ほんの数日前にもとおってきた場所だというのに、城内の風景はひどく新鮮に感じられた。格式ばった行列ではなく、ふたりきりでの気楽な遠乗りだからかもしれない。
「はじめて絶塞に来た日は、正直、ゆっくり街の風景を見る余裕はありませんでした。なんだか民も遠くて。でも、こんな城市だったのですね!」
月季は晴れ晴れとした表情で街を見わたす。
「なんでしょう、なんだかすごく開放的に感じます。空が広いせいでしょうか」
それは人の視線が違うからだと、清照は考えた。
天香国でも、月季と清照はよくこうして遠乗りにでかけた。けれど女が男装して馬にのっていると、宮中だけでなく街でも奇異な目で見られた。その視線はほとんどが非難であり、嘲笑だった。
だがこの絶塞では、清照たちのような若い女がふたりだけで馬にのっていても、まったく目立たない。それどころか、同じような年頃の女が、馬や騾馬にのってさえいる。お互いに道の端によりながら、すれ違いざまに会釈を交わすといったなんでもない行為に、月季は夢中になっていた。
そのため、オーラリー将軍の部下があいかわらずあとをつけているのも、まったく気づいていない様子だった。
(ま、いいか)
ふたりは西の城門までやってきた。
絶塞の西は、広大な荒野が広がっていた。この先はさらに乾燥がひどく、緑洲も少なくなるという。絶え間なく移動する砂丘が行く手を阻み、横断することは土地の者にも不可能であると。
それでも、門は西へむけて開いていた。
清照は馬を降りると、門衛に話しかけた。
『祈りのために、荒野にでたいんだ。通してくれるか?』
『もちろん。——天の祝福のあらんことを』
『ありがとう。あなたにも広大な天の祝福を』
短い会話を交わして、門を開けてもらう。
「さあ、まいりましょう。公主」
だが月季は驚いたように、清照を見つめている。
「そなたはトルクエタムの言葉が話せたのですか、清照?」
「長春と白楊関で、西方の商人に簡単な会話を教わりました。喋るほうは訛りもありますし、少々おぼつきませんが、聞き取るほうはそれなりと自負しております」
「流暢なものです。わたくしには、地元の者の発音と変わりなく聞こえました」
「公主にもトルクエタムの言葉を学ばれるよう、たびたび申しあげていた手前、私がなにもしないわけにはまいりませんので」
風向きが悪くなったことを敏感に感じとったか、月季はあわてて清照から目をそらせ、周囲の風景に目をむけた。
「公主におかれましては、トルクエタム語のお勉強はいかがでしょうか」
「えっ、ええ! それにしても、いちだんと荒涼とした風景ですね!」
清照はため息をついた。月季の場合、トルクエタム語ができないことよりも、嘘やごまかしが下手なことのほうが外交的にまずい気もする。
「……この広大すぎる荒野を、トルクエタムではレゴリス砂漠と呼んでいるそうです。草一本生えぬ不毛の地で、足を踏みいれて戻ってきた者はいないとか」
月季は手綱をぎゅっとにぎりしめた。
「そのような土地を、このまますすんでよいのですか」
「まだ門をでたばかりです。聞くところによれば、皆、絶塞が見えなくなるまで遠く離れたあたりで祈るそうですから」
「いったいなぜ、そのような場所まで来て祈るのでしょう」
清照は空を見あげた。目に痛いほどの青だった。太陽のある方向ではないのに、眩しい。
「私も、それがわかるかも知れないと思って、こうして荒野にきたのです」
月季は清照を見たが、それ以上は問おうとしなかった。
荒野をすすんでしばらくすると、絶塞は地平線のむこうに完全に消えてしまった。四方のどこを見わたしても平らかで、動いている者はなにひとつ見えない。
「公主はここにおとどまりください。私はもう少し、公主が見えなくなるまで先にすすんでみます」
清照が水筒を手わたして言うと、月季は驚いて声をあげた。
「わたくしひとりでここに残るのですか?」
「荒野にひとりで立つことが、トルクエタムの信仰の基本だとか。なに、危ないことなどありません。この景色です。誰かが公主を狙おうと近づいてくれば、地平線の彼方から姿を見せた時点でばれてしまいます。宮殿にいるより、よっぽど安全ですよ」
月季は頭をめぐらせた。
「それは、そうですが」
まだ少し、不安そうだ。
「大丈夫です。なにかあれば、すぐに私の馬の足跡を追ってきてください。それと日よけの布はとらないように。ここの日差しは強いので、目がやられます」
清照はそう言い残すと、月季をあとにして、まっすぐ西にむかった。
人が地平線の彼方に消えるまでの距離というのは、存外に短い。馬をかけさせると、たいしていかないうちに、月季は針の先ほどの小ささになった。
月季はまだ、あの心ぼそそうな表情をうかべているのだろうか。ひとりとは、孤独とは、それほど不安なものだろうか。
自分もひとりだ。自分は今、不安でいるのだろうか。
清照はふたたび空をあおぎ見て、大きく息をついた。声をださないまま、叫ぶように。
(——誰でも皆、ひとりだ)
やにわに清照は馬から飛びおりると、自分の足で走りだした。
砂礫の大地は走りにくく、まきあがる砂と熱風に、すぐに息が詰まりそうになる。
それでも清照は走りつづけた。だがどこまで走っても、風景はまったく変わらない。見えるものはただ青い空と白褐色の大地だけだ。地平線の巨大な円環が、小さな自分をかこんでいる。ひとりで見る荒野は、いつにもまして広く見えた。
これ以上なく孤独だった。しかしそれを寂しいとも怖いとも思わなかった。
天地の広さにくらべれば、清照も月季も、絶塞も、天香国やトルクエタムという国も、一粒の砂に等しい存在にすぎない。星玉と同じく星々の光と風にさらされる、小さく儚い一片だ。
それらの孤独が、広大な空間の孤高に、すべてすいこまれていく気がした。
(ひとり)
熱い空気に焼かれて、息がつづかない。これ以上走れなくなって、清照は倒れこむようにひざまずいた。
あえぎながら砂をつかむ。熱くて火傷しそうだったが、それでもにぎりしめた。そうしながら清照は、昨夜、冷たい星玉をにぎりしめたことを思いだしていた。
顔をあげた。地上は暑いのに、空の青は冷たく見えた。
今もあそこには無数の星々が瞬いているはずだ。
清照はなぜだか深く満足した。ほほえむと目を閉じて、額を大地につける。
そのまま、長いあいだ動かなかった。
清照が月季のもとに戻ったのは、ずいぶん時間がたってからのことになった。
月季は馬をおりて、そばの地面にすわりこんでいた。それも体を丸めて、ひれ伏すような姿勢をとっている。
清照はあわてて馬に鞭をあてた。
「月季公主! どうなさったのですか?」
そばまで来るや、清照は馬を飛びおりて月季にかけよった。
「申し開けありません、私が公主をおひとりにしたばかりに——」
「大丈夫です。問題ありませんよ、清照」
月季は照れくさそうに笑い、顔をあげた。
「なんと言えばよいのか。うまく言えないのですが、あまりに広い天をひとりで見ていたら、今まで味わったことのない感情が胸に迫ってきて……」
あとはうまい言葉が見つからないのだろう、もどかしそうに首をふる。清照はほっとして、肩の力を抜いた。
「なんだ。……ったく」
「はい?」
「いえ。おっしゃりたいことはわかります、公主」
「そうなのですか?」
「私も同じでしたから。それでつい、戻るのが遅れました。申しわけございません」
清照は頭をさげた。
「いいのですよ、清照。いい経験をさせてもらいました。またふたりで、荒野にまいりましょう」
清照が顔をあげると、月季は笑った。くもりない、楽しそうな笑顔だった。
清照も思わず、笑み返す。
「かしこまりました。いつでも、お伴いたします」
「頼みます。では、今日のところはもう絶塞に帰りましょうか」
ふたりは馬を並べて、絶塞へむかう。
いくらもすすまないうちに、馬が二騎、絶塞の方からむかってくるのが見えた。
清照は目をこらす。布を目深にかぶっているせいで顔はよく見えないが、大きく風にひるがえる布の模様には見覚えがあった。
「どうやら、ヘリオスフィア王子と李冰陽殿ですね」
「まあ。なんでしょう」
ふたりの若者は、さすがに馬をよく操って、たちまち清照たちの前までやってきた。
「ヘリオスフィア王子。それに李冰陽も、どうしたのですか?」
「——どうしたもこうしたも。いったいなぜ、公主たちが荒野におられる?」
月季の明るい口調に、ヘリオスフィアは毒気を抜かれたらしい。とまどったように清照と月季を見くらべ、次いで李冰陽と顔を見あわせた。
月季はかたちのよい眉をきゅっとよせた。
「もしやオーラリー将軍がなにかおっしゃいまして? 嫌ですわ、いちどは遠乗りにでることを許してくれましたのに、あとになってこんな、文句をつけるようなこと」
「遠乗り?」
「オーラリー将軍が許可を?」
ヘリオスフィアと李冰陽は、そろって声をあげ、また顔を見あわせた。
「……あ、いや。俺たちはオーラリー将軍には会わずに宮殿をでたんだ」
「そうしたら、おふたりが西の門にむかうのを見かけましたので、なにごとかと」
「あら、そうでしたの。わたくしったら早とちりをして、失礼しましたわ」
李冰陽はほほえんだ。
「いえ、こちらこそ、失礼いたしました。それと、オーラリー将軍はたしかに寡黙で武骨な方ですが、将軍のつとめを果たしているだけかと存じます。どうかご容赦を」
「ええ、もちろんです」
ヘリオスフィアは眉をひそめる。
「しかしオーラリー将軍が許可したといっても、なにも今のような時期に遠乗りにでかけずとも……荒野には盗賊もでるというのに」
先日の、清照を襲った男たちの件もある。そのことを責めているのだとわかったが、清照は肩をすくめた。
「荒野にいるほうが、離宮や迎賓殿にいるよりずっと安全です」
「たしかに、天から隠れようもない荒野は安全だが」
ヘリオスフィアは認めつつも、清照をあやしむように見る。
話題をそらすように、李冰陽が月季に尋ねた。
「それで、遠乗りはいかがでしたか。荒野など、公主がご覧になるものはなかったでしょうに」
「いえ、すばらしかったですわ! 荒野でひとりになって、天を見あげて——」
「ひとり?」
「そうです。途中で清照とわかれて、それぞれ荒野でひとりになってみましたの。トルクエタムの方々はそうやって天に祈ると、清照に聞きましたから」
「この女が?」
ヘリオスフィアがますます不審そうに、清照を見やった。月季はうなずく。
「ええ。それで、うまく申しあげることはできませんけれど、わたくし、トルクエタムの方々が天に祈る気持ちがなんとなく理解できた気がいたしました。天が本当に高くて、大きくて……わたくし——なんといったらいいのかしら」
そこで月季は言葉をきると、子供のように両手を打った。
「そうですわ! 天香国の言葉ではうまく言いあらわせなくても、トルクエタムの天の教えには、わたくしが荒野で感じたあの気持ちをあらわす言葉があるかもしれません!」
目を輝かせて、李冰陽を見あげる。
「李冰陽、あなたはトルクエタムの神官でもあるのでしょう? わたくしに、トルクエタムの天の教えを指南していただけませんか?」
「なんだって?」
「公主!?」
この言葉にはヘリオスフィアだけでなく、清照までもが驚いた。
「わ、私が公主に、ですか?」
李冰陽も珍しく焦ったように、月季を見おろしている。
「いや、私でよろしければ、喜んでいたしますが。しかし、天香国の公主であるあなた様が、我々の教えを学んでもよろしいのですか?」
「え?」
この疑問には、清照が答えた。
「心配無用です、李冰陽殿。天香国にはもともと数多の神々がおり、必要に応じて神を祀っております。天帝の末裔であられる月季公主が異国の神の教えを学んだとしても、嫁ぎ先の神を祀るというだけのこと。なんら問題はありません」
正確に言うなら、天香国では西方の神を、夷狄の蛮神と蔑んでいる。それでも、禁じてはいなかった。白楊関はもちろん、長春の都にも、西方からきた人々が祈るための渾天教の聖堂があったのだ。
「寛容なことだ」
ヘリオスフィアはつぶやいた。
「だが我らの天とて、地上が多様であることを否定してはしない。冰陽、月季公主に天の教えを手ほどきしてさしあげろ。当然、できるな」
「もちろんです」
李冰陽はあらためて月季を見た。
「では、さっそく明日からはじめることにしましょう、公主」
「ありがとう。よろしく頼みます、李冰陽」
月季は頬を染め、嬉しそうに笑った。その表情に、李冰陽も思わずというように笑み返していた。
清照はヘリオスフィアを見やる。彼は月季と李冰陽を見つめて、唇をかたく噛んでいた。
その表情は、なにかを悔やんでいるように見えた。