腕時計と不安と。
キーンコーン……
放課後を告げるチャイムが鳴る。
担任の教師は、諸連絡を早々と終わらせると、委員長にHRの終わりを促した。
「起立、礼、さようなら」
委員長の号令が終わると、部活生は勢いよくクラスを飛び出し、各々の部室に向かう。
私は、カバンに教科書や、筆箱をしまいはじめた。
今日の昼休みに、友人たちは何も言ってなかったので、今日は普通に帰れる。
そうだ、今日は時計を買いに行くのだった。
クラスには、ほんの数人の生徒と、糸井含む友人たち。
彼女たちより先に帰るのはどうだろう。
きっと呼び止められるに違いない。
そうして、得られるはずだった静かな放課後を失いかねない。
どうするか。
悶々と考えていると、机の上に鏡や化粧道具を広げていた友人たちが席を立ち始めた。
「エリナ~ごめんね!今日私、彼氏とデートなの!」
「いいよ。埋め合わせに期待してるから」
「わかった!任せて」
「エリナ、私も今日は親と食事の約束してて」
「私も、明日の放課後は遊べるけど、今日はちょっと…」
会話を聞いていると、今日は糸井エリナ以外、用事があるらしく一緒に帰れないようだ。
いちいち、糸井エリナに許可をとる友人たち。
そう機嫌をとらなければならないような人間なのだろうか。糸井エリナは。
ぼーっと見つめていると、いつのまにか糸井以外の友人たちは教室からいなくなっていた。
糸井は携帯を開き、なにか操作している。他のクラスの友人に声をかけているようだ。一人で帰ればいいのに。あっ今なら、帰れるかも。
私は、こっそりとカバンを持ち、音をたてないように席を立つと、身長にドアまで歩いた。
「白石さんも用事あんの?」
ビクっと体が無意識に反応する。
「一緒に帰ろうよ。…ね?」
有無を言わせぬ言葉に、私はただうなずくしかできない。
せっかくの静かな放課後、そんなものはもう幻でしかない。
もう、捕まってしまったものはしょうがいない。
あきらめてしまおう。
校舎を出るまで、私も糸井エリナも口をきかない。
仮初めの友人。話が合うわけもない。
糸井は携帯を片手で弄りながら、巻き髪の先を手に巻きつけて、歩いている。
肩にかけたカバンには、大きめの缶バッチや、イニシャルのキーホルダー、ハートを抱きしめたクマの小さなぬいぐるみが装飾されている。
私はただぼーっとそのクマのぬいぐるみを眺めた。
「白石さん、のどかわいた」
突然、糸井が話しかけてきたと思ったら、飲み物の催促だった。
少し歩いたところに、自動販売機を見つけた。
「あそこの自販機で買ってきます。なにがいいですか?」
「は?あたしに自販機のジュース飲めっての?」
え?
「あんた、白石財閥のご令嬢でしょ?あ、そっかぁ、庶民のうちらには、自販機のジュース程度がお似合いって言ってんだ」
「ちがいます!」
自販機のジュースが癇に障ったらしい。
世間がイメージするお嬢様像にピッタリなのは、糸井エリナの方だ。
「なにが飲みたいですか?」
「白石さんの家で、紅茶が飲みたい。最高級の紅茶!」
私の家?いままで、家に行きたいとだだをこねられたことはあったけれど、その都度、うまく流してきた。
しかし、今日は、そうはいきそうもない。
それに、私の家にまでこられたら、彼女なら、マンションで暮らしたいと言い兼ねない。
断ろうにも、今までのように、流れで受け流すことは、できそうにもないし。本当に困った。
「ほら、白石さんの家ってこの近くでしょ?ここら辺、高級マンションいっぱいあるじゃん」
糸井エリナは、私の腕をぐいっとつかむと、私のマンションがある方向に歩き始めた。ぜったいに、マンションに彼女をあげたくない。
ぐいぐいと、私の手をひっぱりながら、前に進む糸井エリナ。
私も馬鹿で、連れて行きたくなんかないのに、彼女の
「こっちであってるよね?」
という言葉にただうなずくことしかできない。
ふと気がつくと、視界に、私のマンションがあった。
嘘…こんなに早く。
まぁ、紅茶の話のくだりから、走るように連れてこられていたから、早く自宅に着くとは予想していたけれど、心の準備がまだできていない。
「ねぇ、白石さん、もしかしてこのマンション?一番大きいし、白石財閥令嬢ならこのぐらいのマンションに住んでるよねっねっ?」
動揺して、自分のマンションを見つめたまま固まっていた。ほんと私バカ。
もう、どうにもできないらしい。
本当に、彼女を家に上げなければならないのか。
「ここ、白石さんの家なんでしょう?」
「…………」
答えることができない。
答えてしまえば、即家にあがりこんで、やりたい放題して、翌日また、大勢の“友人”を連れてくるんだろう。
私のテリトリーが侵されていく。
「なんで黙ってんのよ」
次第に、糸井エリナの方も、煮え切らない私の態度にいらつき始めたようだ。でも、返事はしたくない。かと言って、言い逃れはできそうにないし…。
カツン
金属と金属がぶつかる音が、手元から聞こえた。
「あっ」
私と彼女の声が重なる。
金属音は、糸井エリナの腕につけていたブレスレッドと、私の兄からもらった腕時計がぶつかった音だった。
ここまで腕を掴まれて走って連れてこられた時も、数回カチャンと音がしていたが、走っていたからそんな些細な音にはお互い気付かなかった。
“しまった”
冷や汗が額をつたう。
うつむいてる私の視界をかすめる、糸井エリナの顔が、少しだけいたずらに笑った気がした。
「じゃあさぁ…」
きた。
「私を家に上げて、紅茶を飲ませてくれるかぁ、この時計くれるかぁ、どっちがいい?」
この時計アンティーク調で、かわいいし、あたしはどっちでもいいよ。と付け足す。
のどが渇いたなんて口実なんてことは分かっていた。
時計がほしいのだって、私を困らせて優越感に浸りたいだけ。
昨日とられた時計は、べつに自分のために買った時計だったけれど、今回は違う。
大切の度合いが格段に違う。
家だって、あげたくない。
もうこれ以上、自分の領域を奪われたくない。
この二つしか、選ぶ道がないのなら、私はどちらを選べばいいんだろう。
時計。
家。
宝物。
居場所。
兄とのつながり。
一人の世界。
胸が苦しくなった。
「ねぇ、どっち?白石さん?」
「あれ?綾音ちゃん」
糸井エリナの声と同時に、私の名を呼ぶ声が聞こえた。