ゆびきり、げんまん、はりせんぼん
一日の気力を根こそぎ奪われた外回りの帰り、上司が『ちょっとお茶して帰ろう』と言って立ち寄ったのは小さな公園だった。
僕の上司は妙齢の女性で、ちょっとお茶して帰ろうと言ったら普通はどこかの小洒落たカフェなんかに入りそうなものなのに、何故か公園。
「あ“~~~~!生きかえる!!」
そして古びたベンチにふんぞり返り、自動販売機で購入した炭酸飲料を一気飲みするその姿に仕事帰りの中年サラリーマンがダブって見えたのは、僕の目の錯覚だろうか。
「オヤジ臭いですよ、先輩」
「気にしてない。だって、あのクソジジィ、ねちねちねちねち重箱の隅つつくような嫌みばっかでさ、あたしの話聞いてましたー?って感じだったじゃない」
乙女にあるまじき奇声を上げた僕の上司。塚本和30歳は、今しがた営業をかけた会社の交渉相手を酷評した。
「はあ・・・まあ、よくいる中間管理職、みたいな」
「あんなのがよくいられちゃ困るのよ!あたしが!!」
「横暴です」
「いいの。単なる仕事の愚痴だから」
くそムカつく―、キモイ!だからズラがズレてんのよバーコードめ!!等々言いたい放題の上司の愚痴を隣で黙って聞いている僕は良い部下だと思う。ああ、空が青い。
晴れ渡る水色に、流れていく白。いいなぁ。俺もあんな風に、何にも囚われず流れていく雲になりたい・・・。
うっとり空を見上げてぼんやりしている間も上司の罵詈雑言は延々と続いていたが、そんなもの右から左。真剣に対応したら疲れるのは自分だ。
「ね、吉村君。あれ」
意識を飛ばしていた俺の耳が、それまでの愚痴とは少し違ったニュアンスの言葉を捕らえる。促された方に視線を向けると、そこには小学生ぐらいの女の子が二人。顔を寄せ合って、手を繋いでいるように見えた。
「なんですか?」
「指きりしてる。なつかしー。かわいー」
なごむわーと、上司は先ほどの鬼のような形相を一転させた。緩んだ口元と細められた瞳が、彼女の心境を如実に表している。
「はあ・・・かわいい、です、ね?」
「ちょっと。何で疑問形よ。いいじゃない、かわいいじゃない。あたしにもあんな頃あったわ」
「何十年前の話です?」
「あんたがおねしょしてた頃の話よ」
ふん、と鼻で笑ったこの上司、年齢のことをあまり気にしない珍しいタイプの女性だ。今みたいに、暗に『年増』と軽口をたたくと『クソガキ』と返される。
実際に上司と俺は八つの年の差があって、彼女からすれば俺はクソガキとまではいかなくとも若造の部類には十分入ることも自覚しているが、そこはかとなく傷ついたような気になるのは何故だろう。
呑み終わった缶を手元で弄びながら、上司は少女たちから目を離さずに話を続けた。
「つーかさ。指切りってすごい残酷よね」
「・・・ああ、『針千本のーます』って、怖いですよね」
「そうそう。アレって実際に呑まされた人いるのかな」
「いないでしょう。現実的に考えて、そんなことしたらいくら子供同士でも犯罪です」
「吉村君の答えってツマンナイ。ね、じゃあさ、ゆびきりげんまんの『げんまん』って何だと思う?」
「知りませんよ、そんな」
「ちょっとは考えなさいよ。げんこつをがまん、とかどう?」
「いいんじゃないですか」
「張り合いないなぁ・・・吉村君も子供の頃とか、したことある?ゆびきり」
「ありますね。大抵の子供は経験してるんじゃないですか?」
「やだ、経験とか昼間から・・・・・・ジョーダンよ。どんなこと約束したの?」
「そこまでは覚えてません」
「とことんツマンナイねー、君は。あたしはね、例えば仲のよかった子と『一生親友!!』とか。今じゃその子の名前も思い出せないんだけどね」
あははー、と笑う上司に、女性とはかくもしたたかなものかと、既に夢は持っていなかったけれど俺の中の理想の女性像がまた少し崩壊した。
「針千本呑みました?」
「呑むわけないじゃん。え、それ本気で言ってる?吉村君はあたしに死ねと?」
「セクハラの酷い上司ですからね。たまに」
「愛情表現だっつーの。でもさー、本気で針千本いくとしてよ。その針どっから調達してくるんだろうね」
「・・・確かに。一般家庭に千本もの針が常備してあるとは考えられませんし」
「今なら買えちゃうけどね。夢の大人買い、針千本。うわー無駄遣い!」
「金をどぶに捨てる行為ですよ。百円ショップの針が一袋に十本入っていたとして百袋、税込一万五百円は先輩があの、話が無駄に長くてねちっこい田中さんとあと三回会うくらいの金額ですね」
それはうちの会社からの電車賃と、手土産代。無駄金だ、と取引先の課長である田中の嫌みたらしい人相を思い浮かべて思った。
「あのクソジジィと会わなくてよくなるなら買うんだけどな―針の千本や万本。いやつーかそもそも買わないし。あたし針とか欲しいと思った事ないし。・・・でも、吉村君がどうしても針千本呑んでみたいって言うなら、買ってあげない事もないわよ?あ、勘違いしないでよね!別に、吉村君を喜ばせたいとか、そんなんじゃないんだから!!」
「そもそも嬉しくないです。イイ歳なんだから、そういう痛いセリフは控えた方がいいですよ」
「可愛い後輩の為に流行を体現してあげた優しい上司に向かって失礼な。本当はちょっとどきっとしたでしょ?」
「してません」
「うそ。男はツンデレに弱いんだって、トモコが言ってたもん。ミサちゃんがそうなったら最強だね、って話もした」
「『もん』も酷い。ミサちゃんって、中野さんですか?先輩達ってホント、下らない会話ばっかりしてますよね」
「下らなくないよ。あたしたちは真剣に、部長の頭髪の心配をしてたんだから」
「・・・確かに、社内で1・2を争う懸案ではありますが・・・・・・部長の後頭部とツンデレの関係がわかりません」
「あ、聞きたい?」
「結構です。ますますわからなくなりそうなので」
「そんなことないって。順序立てていけば納得できるって。あのね、あたしとミサちゃんとトモコと板ちゃんがいてね、まず『部長ってかわいそうなくらい後頭部が光ってるよね』ってトモコが漏らしたのね。あ、トモコの頼んだランチが目玉焼きハンバーグだったのが原因だと思うんだけど」
俺にとっては三人とも同じ部署の先輩だ。“ミサちゃん”は本名を中野美佐子、小動物のようなかわいらしいタイプの女性で、年齢不詳。社内の噂ではこの上司より年上らしい。まさか。
“トモコ”は佐倉朋子。四人の中で一番若く、明るく元気で、課内でもムード・メーカー的な存在だ。
“板ちゃん”こと板橋のぞみは大人しげで控えめな、この上司とは正反対のタイプで、けれど何故か気が合うらしく、一緒に居る事が多い。
「いいですって」
「遠慮すんなよ。でね、『後光がさしてますよねー(笑)』『もう、目がくらむ、って言うか』『あの輝きは永遠・・・けど、本人すごく気にしてるのがまた哀れで』『イイ育毛剤探して、プレゼントする?』『それ嫌がらせだって』『だよねー。じゃ、こっそり机の上に育毛専門機関のチラシを・・・』『社内いじめ?』『あ、いじめと言えばー、経理のお局様の事聞いた?』『もしかして、宮内さんを虐めてる話ですか?』『それ。あの人厳しいよね。宮内さんかわいそう』」
「・・・知りませんでした。宮内って、俺同期なんですけど」
「あれ、そうだった?じゃ今度愚痴でも聞いてやんなよ。すごいらしいよー。数字のこと、一個一個根掘り葉掘り聞いてくるんだって。宮内さんの受けた領収書の内容とか、そんなん宮内さんが知るわけ無いじゃんねぇ?但し書き読めよってハナシでしょ。んで、自分は計算ミスるくせに宮内さんが間違ったらすごい怒鳴って、罵るんだって。経理課のお局様の金切り声は社長室まで届くって有名だよー」
それはないだろう。経理課は二階、社長室は五階で、防音だ。
「っと、どこまで話したっけ。そうだ、お局様。そっからね『あー、でも彼女って、あんまり良い噂聞かないかも』『私も。庶務の子に聞いたことあるけど、何かね、男に媚びるのが上手いんだって』『あー・・・そりゃ、ねー?』『あたしが上司なら辞めさせてるかも。虐めて』『あんたそーいうことやりそう』『でしょ?って、そこは庇ってよ。そんな事しないって。自主退社は双方にとって円満な解決法だって』『怖い女だ―』・・・吉村君も、相談に乗るのはいいけどうっかり勘違いに落ちないようにね」
「ご忠告ありがとうございます」
「素直でよろしい。その後、あたしが入社してからこっちで配置転換になった上司の数とやめた新入社員の数と割引してくれるようになった業者の話になって」
「先輩の差し金で?」
「まさか。まあ、割引はあたしの手柄だけどね。でも他人の異動なんて知らないわよ。それは上が決めることで、あたしたち平社員がどうこうできる話じゃないでしょ?」
真っ当な事をさらりと言った先輩は本当に、何も関係ないように見える。けれど僕は思うのだ。
男社会の営業で、なみいる同期の男性陣を押しのけ一番に主任のポストに就いたという先輩。現在の役職は課長補佐。体のいいパイプ役ではなく、押しつけられた窓際でもなく、次の課長は彼女であるという課内の確信は暗黙の了解である。
そんな先輩がここまで来るのに何もしなかったとは考えにくい。本当に実力のある人だけれど、それ以上に出世欲と悪知恵の働きが勝っていると、この半年ずっと行動を共にして気付いたことだ。上司はともかく、新入社員の辞職には一枚以上噛んでるだろう事は僕の妄想ではないだろう。
けれど賢明な僕はそれを口にはしない。先輩たちの茶飲み話のネタになるのは遠慮したいからだ。
「ちょっと待って下さい。その流れではどうしてもツンデレに届かなと思うんですが・・・中継地点がおかしいでしょう?そもそも、コレ、昼休憩の時の会話ですよね。一時間しかないですよ」
代わりに、そろそろ先輩たちの話題について行けなくなった僕はそのことを口にした。手に持ったアルミの缶はとっくに空になっている。
そろそろ社に戻らなくてはいけない時間でもある。今日は直帰にしていなかったから、このまま先輩の話を聞いていたら夜になりそうで、そうしたら勤務態度に問題が出て給料にひびく。先輩はどうにでもなるだろうが、真面目で気の小さい新入社員の僕はそうはいかないのだ。
「大丈夫だって。ちゃんと決着つくから。一時間もあればね、十や二十の話題は軽くこなすのよ。それが女」
「いっつも不思議なんですけど、女の人ってホント話がころころ変わるし、関連性も無いし。『そういえば』って、接続詞ですよ?コレ使えば話をどこに飛ばしてもいいわけじゃないと思うんです。そういえば先輩、昨日の朝礼の申し送りでも数字の話から急に女子トイレで髪を巻くのは禁止って話になりましたよね。―――こういう使い方をするんですよ、『そういえば』は」
「だってこっちはトイレから出たら手を洗いたいのに、どこぞの女子社員が鏡の横のコンセント使ってて邪魔なんだもの。その横では化粧直ししてるしさぁ。休憩時間でもないのに、今から外回りに行くわけでもない内勤の子達がよ?昨日があたしの我慢の限界だったの」
「・・・そんなことしてるんですか。ダメでしょ、それ」
いや男として身だしなみをきちんとしている女性というのは好感度が高いが。それはあくまで、常識の範囲内で、だ。
身だしなみが仕事内容に入らないことぐらいわかないのか。・・・いや、これを言ったら今の僕と先輩の状況が墓穴になるのか?いやいや、営業帰りの一服は職務の範囲内だ。多分。というか今日は僕も先輩も休憩らしい休憩をとっていないからして、この時間は休憩時間。社内規定で定められたれっきとした休憩時間。うん、問題ない。
「でしょ?給料泥棒が!って思うでしょ?最近の若い子は常識ってもんがないよねー」
「そのセリフ言う女性ってご高齢な感じがしますよね、次期課長」
「そうなったら吉村君の頑張り次第では課長補佐に任命してあげましょう。優遇するわよ―?例えば同じテーブルを可愛い子で固めるとか」
木村さんとか、宮内さんとか。あ、小山内さんもだっけ?
出された名前に一瞬、心が揺れた。なんであんたが男性社員『彼女にしたいベスト3』を知ってるんですか?
そんな一瞬の沈黙に何を思ったか、先輩はニヤニヤしながら言ってきた。
「いまちょっとぐらっときたでしょ?」
「・・・ちょっとだけ」
「あー、やっぱ吉村君も男だったか。好きだよね―可愛い系。こう、守ってあげたくなるような感じの、『女の子』てタイプ」
「好きですよ。悪いですか?」
「悪くないわよ。あたしも可愛い子好きだもの」
「・・・・・・まさか先輩、レ」
「ズではないですが。可愛いって正義よね。癒しよね。今日みたいな日に会社に帰ってさ、こう、『塚本さん、お疲れ様です』なんて小山内さんあたりに言われたらさ、報われた気がしない?」
「します」
「即答だね。ますます素直でよろしい。キミのそれは美徳だよ。これからもその素直さを大切に」
うんうん、と頷いた先輩は、立ち上がり持っていた缶をゴミ箱に捨てた。
「よし、休憩終了。じゃあそろそろ帰ろうか。帰ってまた馬車馬のように働きますか」
「働きたくないから言うわけじゃありませんが、ハゲ=ツンデレの流れがまだ解明されてません」
「え、したじゃん?」
「いつ!?」
「察してよ。宮内さんの話から、さっきまでの流れで」
「解る人がいたら変人ですよ!」
「えー。女子ならわかるよ」
「生憎と男子です」
「仕方ない。言っとくけど、これ仕事には何の役にも立たないから」
「知ってます」
いらだたしげに言った僕に、先輩は会話の流れを思い出すようなそぶりを見せて口を開いた。
「えっとねー、宮内さんが男に媚びうってるって話したじゃん?それで、『男ってやっぱあんな子がいいのかねー可愛くて小動物っぽい潤んだ瞳で見上げて甘えた声出してくるような』『先輩には無理ですね』『うっさい』『でも一概には言えないでしょう。最近はそーいう子がイヤ、って話聞きますよ』『そりゃ、最近の子の媚び方が下手なのよ。あたしの時代はすごかったから。もう、漫画か!ってくらい見事に媚びてたから』『それを差し引いても、です。ほら、今草食系男子って流行ってるじゃないですかー。あ―言う子は、大人しめの、癒し系が好きみたいですよ』コレは君の事かね吉村君」
「否定はしません」
「成る程、紹介できる友人がいなくて残念だ」
もとより期待していない。この先輩の友人をやってる人なんて、どんなに見た目癒し系でも中身が猛獣に決まっている。・・・板橋さんも、きっと。
「で、ここで件の流れになるわけ。『あ、でもでも。最近は、なんかちがうのが流行ってるみたいですよ。つんでれ』って。そういえばハゲを会話に持ち込んだのもトモコだから、つまりこの会話はトモコに始まりトモコに終わる、トモコタイムだったわけだ」
「何ランチタイムみたいに言ってるんですか」
「みたい、じゃなくてランチタイムでした」
「・・・・・・これはつまりは、聞いた僕が馬鹿だった、みたいな流れですね?」
「女子の会話を理解できると思ってたんなら、そうなんじゃない?やばいなー、吉村君は有能な使い捨てだと思ってたのに、評価変わるわ―」
「むしろその評価は変えて下さい!」
「うそうそ、じょーだんよ。あたしが出世したら、吉村君もちゃーんと出世街道に乗せてあげるから」
「またそんな事言って。どーせ、こき使う下僕が欲しいだけでしょう?」
「やだまさかそんな、こき使うなんて・・・使い潰すつもりで行きますけど、何か?」
「怖っ!先輩が言うと冗談に聞こえないんで!先ほどの勧誘は謹んで、辞退させていただきます!!」
「なーによぅ。別に本気で潰したりしないから、安心して」
「嘘です。絶対嘘です。どーせ、『潰しはしないけど直前ぐらいまでは・・・』とか思ってるんでしょう!?」
入社して半年。僕の指導員である先輩の性質なんかお見通しだ。
残業を許さず、持ち帰り仕事を許さず、納期が遅れることを許さず、ノルマを達成しないことを許さない。
実際に、入社以来残業をせず仕事を持ち帰らずなのに納期を破った事もなく社内一の稼ぎ頭道を驀進してきた先輩の、能力ギリギリ限界まで絞り出すことを要求される、悪魔の様な手腕が火を噴くのは間違いない。
「ホントホント、なんならゆびきりしとく?」
言って、冗談のように差し出された小指。
ちょっと考えて、溜息と共に拒絶した。
「遠慮します。針千本呑みたくないんで」
断ったのは、多分、約束が守られても破られても、負けるのは僕だろうと直感したからだ。
「おいおい、戦う前から負ける気ですかー?そんなんじゃ不況を勝ち残れないよ?」
「勝ち残った結果が目の前に居る人かと思うと負ける事を考えたくなるんですが・・・」
「この草食系め。イマドキ気取りで彼女が出来ると思うな」
「彼女の有無は関係ないでしょ!」
「時間があってお金があって出会いもあって彼女がいないのはガッツが足りないからだと思わない?」
「・・・くっ」
それを言われると返す言葉もないのでやめて下さい。わかってるんです、いいなーって子がいても告白する勇気が無いから彼女が出来ない事なんか!どうせヘタレですよすいませんね!!
「・・・ふぅ。じゃあ、吉村君いじるのも飽きてきたし、ホント帰ろうか?」
「人を散々言っておいて『飽きた』とか、ホント鬼ババァですね、先輩」
「あーあー、モテナイ君のひがみが聞こえる気がする―」
ワーワー言いながらわざとらしく片手で耳を押さえて、足早に前を行く先輩の背中に、僕は溜息をついた。
「まったく・・・あんたのダンナさん、勇者ですよ、ホント」
先日も会ったばかりの優しげな男性に対する同情と、尊敬を込めて。