ごく普通の逃亡劇
俺とアリサが息を殺して潜んでいる家の壁越しに、警官たちがばたばたと走り去る音を立てて去っていく。
とりあえず撒くことができたらしい。
一応、頭がよろしくない俺にも準備という言葉くらいはある。
アリサが部屋に来てからの今日までの3日間、俺はちゃんと脱走計画と下ごしらえをしておいた。
アリサは素直すぎて、1人ではどうも心配だった。
20世紀に使われていた旧東京都(現在、旧23区は東都シティという)の地下水道。
俺は東都シティ地下施設の全体図を最初に手に入れた。
なにせ地下は衛星から探索されずに済むし、防犯カメラを気にしなくていい。
東都シティは都市機能がすべて集中しているため地上も高層ビルが乱立しているが、地下はその何倍も複雑だ。
20世紀前半に作られた地下鉄も、ライフラインも、通信網もすべて地下にある。
立体的で複雑に入り組んだ地下設備の地図は解読するのに苦労したが、
旧地下水道だけでも管理体制が以上に厳しい東都シティの外には出られるようだった。
東都シティの主要道路には個人識別が可能なカメラが数十メートルおきにあるため追跡されやすいし、
すぐに先回りや包囲網を敷かれて、とても顔を出しては歩けない。
だが、地下を通りある程度郊外に出られれば、そこまで苦労せずに逃げられる。
地下のマップは電子ノートに入れて2日かけて頭に叩き込み、電子ノートごと叩き壊しておいた。
記憶媒体は特に粉々にしたあと、油をかけて燃やした。燃え残ったものはすべて川に投げ捨てた。
GPSでノートの場所が探られても、マップに気づかれてもわざわざ地下を通る意味がなくなってしまう。
逃走に使えそうな裏通りのめぼしいマンホールは開けられるように壊してある。
ちょうどこの家の裏にも昨日の夜割っておいたやつがある。
今のところはちゃんと順調にいっている。
俺はアリサにざっとこのようなプランを話した。
アリサは始終、真剣というか怒っているような変な顔をしていた。
「……なんか俺間違ってたか。ほら、Qランクごときの頭だし」
「そんなことないよ。秀斗ならマップもちゃんと全部覚えてるだろうし。私の足が遅くても大丈夫そうだし。」
世界地図の国とかぜーんぶ覚えてたもんね、と、アリサは懐かしそうな顔をした。声は硬いトーンのままだったが。
「……なあ、俺が何かしたなら謝る。なんなら今から帰ってもいい。アリサが怒られるようには言わないから……」
「だめ。絶対無理。無理無理むり!!」
アリサが珍しく大声を上げたせいで、俺は一瞬びくりとする。
俺もアリサもそんなに逃げなきゃいけないような後ろめたいことはやった覚えがない。
言葉につまる俺を見て、アリサがこっちへ歩いてきて、俺の前でしゃがんで目を合わせてくる。
「ね、私のこと信じてくれてるなら、今から話すことも全部信じて。
どっちにしたって、そのうち秀斗には全部わかるけど……
それなら今話す。まず私が逃げてる理由から。」
アリサは俺の肩に寄りかかって座った。
「……あ、そうだ。行って欲しいところがあるの。水並市に、私たちをかくまってくれる人がいる。」
「そうか。好都合だな。若干遠いが、ちゃんと行けるだろ。」
「ありがと。その人ね、中川さんっていって、私と一緒に研究してる人なんだけど、私よりずうっと年上なんだよ。」
「そうか。……でも、水並なら一人で電車でもなんでも使って行けただろ。どうしてわざわざこんな方法を取ったんだ?」
水並は学園・研究都市として有名だが、都市部からそんなに遠くはない。
「そうもいかなくなっちゃって。……さっきの続きなんだけど、宮原くんって覚えてる?ほら、秀斗の後輩の。」
ー話、何も続きじゃないじゃないか。
宮原拓のことだろうか。宮原は3つ下の後輩だ。前に話題に出したCランクに勝ったヤツ、そいつが宮原。
「ああ、まぁな…… それが?」
「秀斗はさ、どうして自分がこんな身分にいると思ってるの?」
「そりゃ、頭が悪いからだろ。」
明白だ。ランク(役員は別の呼び名をしていたはずだが、忘れた)は記憶力、思考能力、言語力、そのほか我慢強さや性格の素直さなど
何十種類にもわたる項目を総合してつけているらしいが、要はすべて学力つながりだ。
日本もずっと学力低下学力低下と言われていた時代があったからなのだろう。
「でも、それなら学力試験で上のランクに勝てるわけないでしょ?小さい頃は環境にも左右されるけど、それにしても極端すぎる。
秀斗も私より記憶力では優れてる。世界の国全部、5分で覚えてたの知ってるんだからね。
……私、3ヶ月前から遺伝子センター(ランク付けをする機関)で研究してたから、全国民のDNAデータが見れるの、すごいでしょ?
秀斗のデータには、記憶力は最低レベルって書いてあった。私のは最高評価なのに。宮原くんのデータも、負けたCランクの半分もなかった。
これでもおかしくないって言える?
私がこれに気づいたのはちょうど1ヶ月と3日前。」
アリサがブッ壊れ始めた頃か。
「私、しくじって3日前パソコンをハッキングされた。絶対、私がやばい手を使ってランクの機密を探ってたってばれてる。次の日から私の周りが少しづつずれてる。誰かが潜入してきてる。
……機密について全部はわからなかったけど、仮説はできてる。いわないけどね。」
そういえば、こいつは自明だと分かっていてもデータが取れるまで言わない奴だった。
「それで逃げろって言ってたのか。……でも、なんで俺まで逃げなきゃならないんだ?」
「……推測だから」
「それでいい。」
アリサはちょっとためらって、口をひらいた。
「秀斗はたぶん、近いうちに冤罪で逮捕される。出ては、こられない」
「……どういうことだ」
「裏に何かがある。今はまだ公にはなってない。」
アリサは俺の耳に口を寄せて、首相の息子が殺しをやったんだよ、と囁いた。
俺にはさっぱり状況がつかめない。
まだアリサの状況は、3日前の態度からして理屈に適う。想像は正直つかないが……
だが俺の方はもっと想像がつかない。なぜアリサがそんなことを知っているのか、首相の息子の殺人は事実なのか。
そもそも、俺とその息子に何の関係があるっていうのだろうか?
「信じてくれなくていいし、私だって嘘であってほしいって思ってる。
でも、とりあえず一緒には来てほしいの。さっきのランクのことで、まだまだ知ってほしいことがあるから……まだ言っちゃだめな気がするけど。」
「ついて行くのは構わないが……」
「ありがと。秀斗といると、昔から心強かったなぁ」
アリサははじめてにっこりと微笑んだ。いつものかわいい笑顔だった。
「私ね、水並で中川さんに会って、やらなきゃいけないこと全部やって、すぐに東都に帰ってくる。
私の最終目的は、東都にいるんだから……」
アリサの笑顔がギュッとこわばる。
アリサは逃走中肩からかけていたカバンをおろし、中から月の光に輝く何かを取り出した。
「ごめんね、秀斗」
「……何が」
「こんなことに巻き込んで。
Qランクの居住地でも、お母様と暮らしているほうがよかったのかもね……」
唇を噛んで泣きそうな顔をしているアリサ。
百面相してら、と一瞬変な思考が横切る。
声を、かけられない。
「私は、遺伝子センターの所長、東堂まなみを殺しにきたの。」
手の中には、サプレッサーがついた拳銃が握られていた。