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太陽が沈む前の赤に向かって

作者: 朝餉ゆな
掲載日:2026/08/03


 平凡な暮らしが繰り返されていく小さな世界で、あなたと私はずっと一緒だった。


「僕たちは絶対『ふうふ』になろうね、約束だよ、ずっと一緒にいるんだ」


 そう笑って手を取り合う二人の子供の未来は、いつだって明るかった。シロツメクサの花冠だとか、輝かしい将来だとか、そんな大層なものは望んではいなかったけれど。


 長閑で、首都を中心に進んでいく急速な近代化から取り残された、国境沿の自然豊かな村。同じ年に生まれた私たちは、何をするにも一緒に育った。

 牛飼いの娘として走り回っていた私と、教師の息子だった彼。家の近い私たちは物心もつかない頃から互いが遊び相手で、二つ山を越えた先にある学校にも手を繋いで通って、そうやって特段何も起こらない日々を大人になるまで過ごしていけば、彼とは自然に家族になり、子を生み育てていくのだと、私は思っていたのだけれど。


 時代は、私たちに穏やかな暮らしを許してはくれなかった。      

 十四になる年、どこか重要らしい運河の領有権を巡って隣国と小競り合いをしているのだと、一週間遅れの新聞で知った。頭の良くない私は「どっちも平等に使うんじゃだめなの」なんて呑気に言って、でも、深刻な顔をした彼は「権利が曖昧になるし、資本社会だからね」と諦めたように言っていた。


「僕たちは助け合えばいいって思ってるけど、偉い人は自分の資産をどれだけ増やせるかしか考えてない。多分、近い内に面倒なことになるよ」


 嘆く彼は、彼の父親と同じ主張をしていた。年齢の割に大人びた彼の横顔は憂いを帯びていて、とても綺麗だったことを覚えている。近所の小さな郵便局のベンチに腰掛けて、新聞を膝の上に広げていた彼の指は、黒く汚れていた。私と違って賢いあなたの考えてることが、少しでも分かればいいのになあ、なんて。


 それから一年と半年も経たない内に、不穏な気配が新聞の向こうから飛び出してきて、現実世界まで侵食してきた。国に定められた義務教育を終えた私は、それ以上は学校に通うこともなく、牛を追い立てることに生活の大半を費やすことになったのだけれど、碌な教育を受けていないはずの父が、夜な夜な村の集会所に通うようになりだしたのだ。

 どうやら、その頃から地方の役人が村の男衆に声を掛けだしていたらしい。女たちはその輪から排除されたけれど、無知な私は何も気にしていなかった。その日の天気や牛の調子の良し悪しが世界の全てだったし、万事うまくいくという根拠の無い自信が、私に何の危機意識も持たせなかったのだ。


「私、そんな悪いことが起きるかもしれないって想像もできないの。これまでの先祖たちみたいに、この土地で死ぬまで平和に暮らしていく未来しか見えない」


 ある夏の日、高等学校の休暇で村に帰ってきた彼に、私はそう言った。私と彼の家族で彼の帰りを祝って、一緒に食卓を囲んだ後の夕暮れ時。村から少し外れた丘の岩場に腰掛けた彼は、柔らかな砂色の髪を紳士のように整えるようになっていて、ぼさぼさ頭を頭巾で覆い隠した私は妙に恥ずかしくなったのを覚えている。

 穏やかで思慮深い灰色の瞳が、切なげに瞬いた。進学で村から離れて都市で暮らし始めた彼は、綺麗に仕立てられたスーツを着るようにさえなり、まるで貴族のご令息のようにさえ見えた。


「あなた、この村にいる人よりずっと世間のことを知っているでしょう? それなら、私たちが今後どうなりそうなのかも分かるの?」

「分からないよ、僕には。ただ神に祈るだけさ、結局何も起こらないのが一番なんだから」

「あなたは教会にはまともに通ってなかったはずよ。まあ、あなたに分からないなら私に分かるはずもないけど」

 

 両膝に肘を付き、指を組んで俯いた彼の表情は分からない。ただ、信仰心なんて欠片も無かったはずの彼が「神に祈る」なんて言い出したのが気掛かりだった。


「所詮十五の学生だよ、情報源なんて新聞やラジオくらいしか無いんだから、実際の所なんて知りようがない。僕には何もできないんだ、君が無事でいられる保証だってしてやれない」

「あなたが兵隊さんになる可能性はあるの?」

「さあ、どうだろうね。生憎だけど僕には愛国精神なんてものはないし、ただ長生きしたくて仕方がない。人間の本質はつまり、生きることだからね」


 私の父親が聞いたら、彼を殴り倒してしまいかねない発言だった。神経質そうに目を細めた彼は溜息をついて、立っている私を見上げる。思わず笑ってしまっていた私は、その物憂げな視線に姿勢を正したものだ。


「……僕は、君が無事でいてくれるならなんだっていいんだ。君、牛が好きだろ?」


 突拍子も無い質問に、私は目を丸くした。「ええ、勿論よ」思考の動きから切り離されたかのように自然と転がり落ちた言葉に、彼が悲しげに微笑む。


「僕は君が幸せでいてくれればそれでいいんだ、本当に戦争なんてものが起これば、君は牛と一緒にいられなくなるかもしれない。僕は……それを止められる立場になれないことが悔しくて仕方ないよ」


 不意に、どうしようもない不安が私を襲った。彼が抱えている焦りの正体は分からなかったけれど、追い詰められた彼が取り返しのつかないことをしてしまいそうで、私から離れていてしまったらどうしようと思って。


「ねぇ、牛よりもあなたの方が遥かに大事だってことは分かってくれてる? あなたが私のことを尊重してくれるなら、私だってあなたのことを尊重する。あなたと私は一緒になるんでしょう? たしかに牛がいれば幸せよ、けれどそれ以上に私は……」


 苦悩に満ちた肩に触れて、それでも彼は顔を上げてくれない。露わな憂鬱さはどんどんその体積を増していって、ゆらりと頭を振った彼は、


「この休暇が終われば、暫くの間ここには帰ってこれなくなる。その間に何も起こらなければいいんだ、小さい頃に描いていた君との展望図は現実のものになるだろうし、僕だってそれを望んでいる。でも今は先行きが見えないんだ」


 と言った。

 考えすぎよ。そう口に出せればよかったのに、臆病な言葉は形にならなくて。「もう遅いから帰りましょう」と取り繕った言葉を絞り出し、彼を無理矢理立ち上がらせた。


 彼は、私よりずっと世界を知っていた。繊細で賢い人だったから、ひとつの情報から多くを考えてしまって、苦しんでしまう人だった。

 だからもう苦しんでほしくなくて、休暇が終わって彼が村から離れていく時も、何事もないように手を振ったのだ。名残惜しそうに帽子のつばを押さえ、何度も振り向く後ろ姿が消えるまで。永遠でも一瞬でもあるその時間が、消えていく。


 それで、おしまいだった。


 変わらないと思っていた日常は、いつでも崩れてしまえるものだった。流転する世界が行き着いた先で、波に呑まれた私は全てを失って。そうして簡単に、無限に等しい月日は過ぎていったのだ。


 ああ、もう。私はただ、大事なものを抱きしめて生きていければよかったのに。

 そんな願いも遠く朽ち果て、私はかつて将来を誓い合った丘を、なんの感傷もなく眺めていた。今日は、久しぶりに彼が帰ってくる——そう知る私は、何もない世界にぽつんと佇む人影を見つけ、深い息を吐いたのだ。


 うっすらと柔らかな白に染められた大地に、背の高いあなたが立ち尽くす。上質な外套を羽織って、いかにも紳士らしい帽子を被るあなたは、一緒になって走り回っていた頃からは到底想像もつかないくらい洗練された大人の男性になっていて。あの頃と少しも変わらない私は、あなたの後ろ姿に心を締め付けられるのだ。


「……あれから十年、か」

 

 灰色の空を仰いだ彼が、そう呟く。

 ええ、あなたが帰ってこなくなってしまってから、もうそんなに経つのよ。その間にこの村は大きく変わってしまって、あなたが暮らしていた家はとうに無くなってしまった。

 

「すまなかった、ずっと帰ってこれなくて」

「酷い有様でしょう?」

「怖かったんだ、現実と向き合うことが……」

「もっと早くに来てくれたらよかったのに」


 崩れ落ちるように地に膝をついた彼の背中に、いくら語りかけても返事はない。立派になったのね、私が知ることのできなかった世界へ、あなたは羽ばたいていったのでしょう。


「たくさん苦労したのね」

「僕は……僕はこんな故郷を見たかったんじゃない、なんて無力だったんだろう、何も守れなかった」


 静かに、その広い背中が震えだす。

 全てが燃え尽きたこの村は忘れ去られて、ただ、静かな野へ還っていくだけ。営まれた生活の記憶の欠片は、誰にも拾われることなく消えていくのだ。


「――、」


 あなたに名を呼ばれても、もう返事をすることさえできないの。

 だって、私はもう死んでしまったから。進駐してきた敵の軍に、全てを蹂躙されて。逃げようとはしたのよ、でも無理だった。私たちの愛した故郷は、焼け野原になってしまったの。

 

 触れることのできないあなたの背中に、寄り添いたい。

 届かないと分かってるし、すり抜けてしまう指はあなたを抱きしめられないけれど。ひとりで生きていたあなたが、この地獄を忘れてしまえるように。いいのよ、全て忘れてしまって。あなたが違う誰かと幸せになってもいいの、あなたは十分苦しんだのだから。


「もういいの、全部忘れてしまっても」


 ただ静かに囁いて、優しいあなたを包み込む。吹き抜けた風が空を揺らして、ひらひらと白を舞い落とし始めた。

 あなたの肩に降り積もる雪を払ってあげることもできないけれど、あなたが再び立ち上がれるようになる日まで、私は風となってあなたの背中を押し続けよう。


 大丈夫、私たちの物語は終わっても、あなたは生きていく。だから、どうか。


 不意に肩を揺らした彼が、顔を上げた。震える声で私の名前を呼んだあなたは、戸惑うように周囲を見渡す。そうして彼は、私のいる場所を真っ直ぐに射抜いた。


「そこに、いるのか?」


 その言葉に、届くはずのなかった私という存在が、冷えきったあなたの体に少しの温もりを与えたことを知る。

 灰色の瞳が、見えない私を探して切なく揺れていた。差し伸ばされたあなたの手が、私の頬を掠めて空を斬る。その震える指先があまりに愛おしくて、悲しくて。


「……ただいま」


 ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭いもせず、ぐしゃぐしゃに顔を歪めたあなたが、幼い頃のように掠れた声で絞り出す。

 十年もの間、あなたがどれほどの悔しさと孤独を抱えて生きてきたのか。その一言にすべてが詰まっていて、私の胸はぎゅっと締め付けられた。


「ええ、おかえりなさい」


 声にはならなくても、もう十分だった。届かないはずの手をそっと重ねて、私は溢れる愛おしさを込めて微笑む。

 やがて、深く息を吐いた彼は、震える手で何度も涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。肩に積もった雪はそのままに、外套の襟を立て、帽子を深く被り直す。見えない私に一度だけ深く頷いて、そしてあなたは背を向けた。


 白く染まる世界の中、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく靴音。振り返らないあなたのまっすぐな背中が、あの日夕暮れの丘で見送った後ろ姿と重なって、私の視界を静かに滲ませていく。


 二度と叶わない約束。二度と訪れない私たちの未来。

 時代に踏みにじられ、すれ違ったまま散ってしまった恋の残骸が、降り積もる雪の下へと静かに消えていく。けれどもういいの、地獄を生き抜いたあなたが会いに来てくれただけで、私は報われるのだから。


 どうか自分を責めないで。故郷も、私との思い出も、いつか優しい記憶に変えて。

 あなたがいつか、私という過去から自由になって、誰かと手を取り合い、新しい幸せを紡いでいけますように。


 舞い散る白の世界の中へ、私の輪郭がゆっくりと溶けていく。遠ざかっていく愛おしい背中を、私は吹き抜ける風となって、そっと押し続ける。

 その冷たくも温かな風に乗せて、私は最後に、心からの祈りを送るのだ――どうかあなたの行く先に、数え切れない幸福が待ち受けていますように、と。


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