第2話 銀色の約束
翌朝、ノエルは目を覚ました瞬間、昨日の出来事が夢ではなかったかと不安になった。
けれど右手の甲を見れば、そこには淡く輝く三日月の紋章がある。
神獣アルシェスとの契約の証。
「……夢じゃ、ない」
紋章を指でなぞると、温かい波動が伝わってくる。遠い森の奥から、穏やかな気配が返ってくるのが分かった。
『起きたか。今日も会いに来い、ノエル』
アルシェスの声が頭に直接響く。契約者同士の念話——聖獣との基本的な繋がりだが、その声があまりにも鮮明で近くて、ノエルは思わず頬を赤らめた。
「……うん。放課後に行くね」
寮の部屋で一人、小声で返事をする。端から見れば独り言だが、ノエルの胸は昨日からずっと温かかった。
だが——この契約のことは、まだ誰にも言えない。
伝説の神獣、銀煌帝アルシェス。そんな存在と契約したと言えば、大騒ぎになるのは目に見えている。嘘つきと罵られるか、研究対象として扱われるか。どちらにせよ、今のノエルにはそれに対処する力がない。
だからしばらくは秘密にしておこう——アルシェスもそれに同意してくれた。
教室に入ると、空気が変わった。
昨日の召喚の儀の結果は、すでに学院中に知れ渡っている。三年連続失格のノエル・フォルティアは、今や学院一の落ちこぼれとして有名だ。
「あら、ノエル。今日も来たの?」
声をかけてきたのは、クラスメイトのマリエッタ。セレスティーナの取り巻きの一人で、中位聖獣・炎蜥蜴サラマンドルの契約者だ。
「聖獣もいないのに学院に通い続けるなんて、すごい根性よね。私だったら恥ずかしくて出てこられないわ」
「……授業を受ける権利は、十八歳まであるから」
「権利はあっても実力がなければ意味ないでしょう? 来月の合同演習、聖獣なしでどうやって参加するつもり?」
ノエルは答えなかった。答える必要がないと思ったからだ。
マリエッタは鼻を鳴らして去っていく。その背中を見送りながら、ノエルは右手の甲をそっと押さえた。
紋章は服の袖で隠してある。見つかれば面倒なことになる。
午後の座学は聖獣学の講義だった。
教壇に立つフェルディン教授は、この分野の権威として知られる老学者だ。
「今日は聖獣の階級について復習する。諸君も知っての通り、聖獣は下位・中位・上位の三階級に分類される。下位聖獣は森の守り手、中位聖獣は地の守護者、上位聖獣は天の戦士と呼ばれ——」
ノエルはノートを取りながら、ふと疑問を覚えた。
——アルシェスは、どの階級にも当てはまらない。
下位でも中位でも上位でもない。『神獣』という存在は、教科書のどこにも載っていない。
「先生」
ノエルは手を挙げた。教室がざわめく。落ちこぼれのノエルが質問するのは珍しいことだった。
「上位聖獣の、さらに上の存在はいないのですか? たとえば——神獣、とか」
フェルディン教授の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「……神獣、か。古い文献にはその記述がある。聖獣の頂点に立つ存在——千年前の大厄災を退けたとされる四体の神獣だ。しかし、それはあくまで伝承であり——」
「四体?」
「銀煌帝アルシェス、紅蓮皇グラナート、蒼穹王セレスタイト、翠嵐后エメラルディア。いずれも千年前を最後に目撃記録はなく、学術的には『絶滅した』と見なされている」
ノエルの心臓が跳ねた。
絶滅した、と見なされている存在が——昨日、自分の手に頭を預けてきた。
「もし仮に神獣が存在するとしたら、その力は上位聖獣と比べてどの程度なのでしょう」
「仮定の話に意味はないが——伝承通りなら、上位聖獣を百体束ねても敵わないだろうな。神獣は世界そのものの意思によって生み出された存在だ。聖獣とは根本的に次元が違う」
上位聖獣百体分。
ノエルはめまいがした。
放課後。
ノエルは人目を避けて北の森に向かった。裏門の鍵は昨日アルシェスが魔力で壊してくれた——正確には、ノエルが通れるように門の結界に穴を開けてくれたのだが。
あの泉に辿り着くと、アルシェスは昨日と同じ場所で待っていた。
銀色の毛並みが木漏れ日を受けて輝いている。ノエルの姿を認めると、金の瞳が柔らかく細められた。
『来たな。待っていた』
「ただいま、アルシェス」
自然と出た言葉に、自分で驚く。けれどアルシェスは嬉しそうに尾を揺らした。
『ああ、おかえり』
ノエルは泉のほとりに腰を下ろし、アルシェスの隣に寄り添った。アルシェスは大きな体をノエルに寄せ、まるで守るように丸くなる。
「アルシェス、聞きたいことがあるの」
『何でも聞け』
「あなたは本当に、千年前の神獣なの? 伝承の——銀煌帝アルシェス?」
『その名で呼ばれていたこともある。だが我にとって、そんな大層な肩書きは重荷でしかない。今の我はただ——お前の傍にいたい、一匹の獣だ』
その言葉に、ノエルの胸がきゅっと締まった。
「……どうして私なの? 私は聖獣にすら選ばれなかった落ちこぼれよ?」
アルシェスは鼻先でノエルの頬をそっと突いた。
『聖獣に選ばれなかったのではない。お前の魔力の波動が、我にしか合わなかっただけだ』
「どういうこと?」
『人間の魔力には固有の波動がある。通常の聖獣は幅広い波動に反応するが、神獣は違う。神獣に適合する波動を持つ者は、逆に通常の聖獣とは波動が合わない。千年に一人の特異体質——それがお前だ、ノエル』
ノエルは目を見開いた。
「じゃあ、私が聖獣に選ばれなかったのは——」
『お前の魔力が劣っていたからではない。優れすぎていたからだ。お前の波動は我にしか届かない。そして我の声もまた、お前にしか届かない。だから三年間、召喚の儀では何も起きなかった。我はあの小さな召喚陣の向こうにはいない。この森の、もっと深い場所で——ずっとお前を呼んでいた』
涙がこぼれた。
三年間。毎年、召喚陣の前で祈って、裏切られて、嗤われて。
あの日々が無駄じゃなかったと、この銀色の神獣は言ってくれている。
「……ずっと、呼んでくれてたの?」
『ああ。毎日、毎晩。お前が泣いている夜も、お前が一人で耐えている昼も。届かぬ声で呼び続けた。——ようやく会えた。もう離さぬ』
アルシェスの大きな頭が、ノエルの膝に乗せられた。ずっしりと温かい重み。
ノエルはその銀色の毛並みに顔を埋めて、声を殺して泣いた。
『泣くがいい。ここには誰もおらぬ。我だけが見ている』
どれくらい泣いただろう。
ようやく涙が止まった頃、ノエルは目を腫らしたまま顔を上げた。
「ありがとう、アルシェス。……でも、これからどうすればいいの? 来月、合同演習があるの。聖獣なしじゃ参加できない。かといって、あなたの存在を明かしたら——」
『大事になるな。千年ぶりの神獣の出現は、王国を揺るがす』
「うん。だから——」
『案ずるな。我には人の姿を取る力がある』
「え?」
アルシェスの体が光に包まれた。銀色の輝きが収束し——
そこに立っていたのは、銀髪に金眼の青年だった。
長身で端正な顔立ち。纏う雰囲気は人間離れしているが、見た目だけなら貴族の子弟で通る。
「こうすれば、お前の傍にいても怪しまれまい」
声に出して話すアルシェスの声は、念話の時よりも少し柔らかかった。
「ただし、この姿では力の大半を封じている。人の形は我にとって窮屈でな。だがお前の傍にいるためならば、この程度の不便は厭わぬ」
ノエルは呆然とアルシェスを見上げた。
銀髪の青年は、少しだけ気まずそうに目を逸らす。
「……そんな顔をするな。見慣れぬ姿で驚いたか?」
「ううん。——綺麗だなって思って」
アルシェスの頬が、ほんのりと赤くなった。
神獣が照れている。そのことがおかしくて、ノエルは今日初めて笑った。
「ありがとう、アルシェス。じゃあ、あなたは——」
「アル、でいい。人の世では短い名のほうが都合がよかろう」
「アル。……うん、いい名前」
ノエルは立ち上がり、アルに手を差し伸べた。
「行こう、アル。まずは、あなたを学院に入れる方法を考えなきゃ」
アルはノエルの手を取った。その手は人の形をしていても、あの銀色の毛並みと同じぬくもりを持っていた。
落ちこぼれと神獣の秘密の日々が、こうして始まった。




