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誰も知らない、ある男が生きている真実

作者: ruma
掲載日:2026/01/31

※本作には自殺未遂をテーマにした描写があります。

重い内容が含まれますので、苦手な方はご注意ください。

それは、この世界を含む無数の世界を生み出し、調整し、観察してきた。

すべては理解可能であり、予測の外に出ることはない。

それでも、観測の中には、体験することのできない現象が存在していた。

その現象を誰よりも深く理解していながら、いくら試行を重ねても、得ることはできなかった。

そしてその現象は、人間という存在の中で、最も安定して発生していた。



「佐藤」

「これ頼めるか? 今日、ちょっと早く上がりたくて」

先輩の水嶋さんに声をかけられた。

自身の仕事量を頭の中でざっと思い浮かべる。少しきついが、できなくはない。

少しだけ迷ってから、口をひらいた。

「あ、えっと……わかりました。やってみます」

「ありがとう」

水嶋さんはそう言って、自分のデスクへ戻っていった。

その背中を見送ってから、名前を呼ばれていたのに返事をしていなかったことに気づく。

もう今さら言うことでもないか、とそのまま作業に戻る。

しばらくして、以前提出した資料の件で呼び出された。

どうやら細かいミスがあったらしい。

「最近多いな。確認、ちゃんとしろよ」

それだけ言われて、話は終わった。

謝って席に戻り、頼まれた仕事に手をつける。

結局、すべて終わらせることはできたが、いつもより帰りは遅くなった。

――いや、正確には、今日も周りより遅かった。

建物を出たとき、いつの間にか雨が降っていた。

傘を持っていなかったが、濡れることは気にせずそのまま歩き出す。

たった一日。

それだけで、はっきりとわかる。

自分には、他人が当たり前に持っているものが足りていない。

多くの人に迷惑をかけてきた。

申し訳ない、と思う。

けれど、そう思うことにも、もう慣れてしまっていた。

そんなことを考えながら歩いているうちに、家に着く。

扉を開けても、誰の迎えもない。

静かで、暗い部屋だ。

もともと恋人はいないし、家族も今はもういない。

仕事以外で人と会うこともほとんどなかった。

自分で言うのもおかしいが、味気ない人生だと思う。

何か趣味の一つでもあればいいのかもしれない。

けれど、そういう気にもなれなかった。

ただ、ぼんやりと過ごしているうちに、今日も一日が終わっていた。



一日は、昨日と同じ形で終わった。

昨日と同じ帰り道を歩き、コンビニで決まったものを買い、家に戻る。

テレビをつけたが、何が映っていたのかは覚えていない。

明日をどうするか、考えなかった。考える理由がなかった。

夜、いつもより少し強い風に吹かれながら、橋の上で川を眺めて立ち尽くしていた。

ここに立っている理由も、帰る理由も、本当にどうでもよかった。

風にさらされているはずなのに、寒さはあまり感じなかった。

川の流れる音がやけに頭に響く。

金属製の橋の手すりまで近づく。

手すりに登ると目を瞑り一歩を踏み出そうとし、片足を少し上げた時だった。

突風が吹いた。

バランスを崩し、先ほど立っていた場所へ背中を打ちつけた。

しばらく、動くことができず虚ろなまま手すりを見つめていた。

痛みのせいなのか、驚きのせいなのか、自分でもよくわからない。

ただ、自分はまだここにいて、川の流れる音だけがやけに近く聞こえていた。

「……生きてるな」

思わず、そんな言葉が口からこぼれた。

立ち上がろうとして、少しよろけた。

背中に痛みがまだ残っていた。

手すりに手をつき、もう一度深く息をする。

心臓が、うるさいほど規則正しく動いている。

どうして失敗したのか。

風のせいだろうか。それとも、ただ運が悪かっただけなのか。

考えようとしても、どれも同じくらいどうでもよかった。

理由がどうであれ、結果は変わらない。

そして、もう一度手すりの方を向き直した。



その時だった、少し後ろから声が聞こえた。

「今日は風が強いなぁ。」

振り返ると、一人の男がいた。

少し動揺する。見ていたのだろうか。

男がこちらを捉え、口をひらく。

「こんばんは」

「……こんばんは」

男は視線を川へと移す。

「ここ、肌寒いですからね。長くいると体が冷えるでしょう。」

男はこちらを見ないまま、川の流れを眺めている。

「……もう春だと思ってましたけど、夜は違いますね」

返事をするべきか迷って、結局何も言わなかった。

沈黙が落ちる。気まずいはずなのに、なぜか急かされる感じはしない。

男はしばらくしてから、独り言のように続けた。

「ここ、いつもは通らないんですけどね。たまには風に吹かれながら川の音を聞くのもいいと思いましてね。」

男の声は淡々としていて、探るような響きがなかった。

「あなたは、いつも通るんですか。ここ」

その男が知っているはずのない答えなのに、どこか見透かされたような響きにも聞こえた。

少しの間をあけ、つぶやくように答える。

「……いえ」

そう答えると、男は小さく頷いた。

「そういう日もありますよね」

それきり、また視線を川へ戻す。

風が吹き、服の裾が揺れた。

この空気で少し頭が冷える。

気づくと手すりに向き直る気は薄れていた。


「よかったら、少し話しませんか。今日は特に何もなくて。暇なんです。最近の愚痴とか悩みをよければ聞いて欲しいです。」

見ていたのだろうか。それなら普通はもっと焦るはずだ。

…本当に話し相手が欲しいのだろうか。

どうだっていいか。

断る理由も特にない。考えたくないだけかもしれないが。

「…構いませんよ。」

男は少し笑いながら言う。

「ありがとうございます。立ち話も何ですからあそこのベンチに座りませんか。」

男は端にあるベンチに少し目をやると、こちらに視線を向けた。

「そうですね。」


男に促され、橋の端に置かれたベンチへ向かう。

歩き出すと、さっきまで意識していなかった足の重さに気づいた。

背中の痛みが、少し遅れてついてくる。

並んで歩くが、会話はない。

風の音と、下を流れる川の音だけが続いている。

それが不思議と気まずさを作らなかった。

ベンチは金属製で、触れるとひんやりとしていた。

男は何も言わず、先に腰を下ろす。

少し間を置いてから、自分も隣に座った。

距離は、近すぎず遠すぎず。

肩が触れることはないが、離れすぎてもいない。

ただ、同じ方向を向いて座っている。

少しの沈黙の後、男が前を向いたまま口をひらく。

「独り言みたいなものなので、聞き流してもらって大丈夫ですよ。なんなら、途中で帰ってもらっても全然いいです。ほんとに大した話じゃないので。」

横目で男を見た後、小さく息を吐いて、視線を川へ戻した。

返事に困り、曖昧に笑う。

「はは……そうですか」

男は少しだけ悩んだような顔をしてから少しの間を置いて、ぽつりと言った。

「……僕、結構人付き合いが上手くなくて」

こちらは見ない。

「よく言われるんです。自分では分からないですけど、空気が読めなかったり、人の気持ちがわかっていないみたいで。よく会話が途切れたり。」

男は淡々と続ける。

「別に構わないんですけどね。でも、時々それができる人が羨ましいと思う。隣の芝は青く見えるものですね。」

男の方を見てつぶやく。

「分からないこともないですよ。」

少し間を空けて男が呟く。

「……ここにいると雑念が流されていく。そんな気がするんです。だからたまにこの場所に来るんです。」

少し自嘲気味に言う。

「初対面の人に話しすぎましたね。こういうところですかね。」


男は言い終えると、小さく息を吐いた。川の流れる音だけが戻ってくる。

しばらくして、前を向いたまま、また口をひらく。

「……本当は、こんな話をするつもりじゃなかったんです。」

「でも、これから先、会うこともないかもしれないと思うと、どうでもよくなって。」

少しだけ間があった。

「自分の気持ちだけを優先してるつもりはないんですけどね。いや、そうなのかもしれないです。」

「まぁ、たぶん相手の気持ちを“知ろうとしない”方が楽なんでしょう。」

男は肩をすくめる。

「それでも、今日はここに来てよかったと思ってます。」

「話しかけた時、少なくとも、無視はされなかったので。」

風が吹き、橋の上を抜けていく。

男は、少し言葉を探してから続けた。

「……別に、大きな悩みってほどじゃないんです。」

一拍。

「ただ、ずっと引っかかってる感じがあって。」

「今考えても分からないし、あとで考えても分からないんですけど。」

「無視しようとしても、完全には消えないというか。」

男は少し言いにくそうに俯く。

「何となく毎日続いてて、何となく疲れてて。」

「それだけ、って言えばそれだけなんです。本当に」

男はそれ以上言わなかった。

何か返そうとして、口を開きかける。

けれど、言葉が見つからなかった。

男を励ます言葉をいくつか思い浮かべたが、どれも自分が口にしていいものには思えなかった。

少しの沈黙のあと、声が出た。

「……別にいいんじゃないですか。」

自分でも意外なほど、自然に声が出た。

「無視しても消えない感じとか。」

「疲れてるのに、理由がはっきりしないところとか。」

言い終えてから、少し後悔する。言い過ぎたかもしれない、と思った。

「……自分も、似たような感じなので。」

それだけ付け足して、黙った。

男は呟く。

「そっか。」

どこか嬉しそうにも見える。

沈黙に戻った。けれど、居心地の悪さはなかった。

男はこちらをみて少し笑う。

「……似てる、って言われると。」

一拍。

「それだけで、だいぶ楽になりますね。」

独り言のように聞こえる。返す必要がない気がした。

風が吹き、橋の上を通り抜ける。男の髪が小さく揺れた。

しばらくして、男が続ける。

「こんなくだらない話に付き合ってくれてありがとう。」

そう言ってから、少し間を置く。

「聞いてもらえるだけで、こんなに楽になるとは思いませんでした。」

「もし時間があるなら、もう少し付き合ってくれますか。」

どこにいく気もなかった。

それ以前になぜかこのまま話すのもいいかもしれないそう思えた。

きっと少し心を許している自分がいるからだろう。

会って間もない、少し変わったこの男に、

言葉にできない不思議さと、妙な安心感を覚えていた。

「いいですよ。こちらこそお願いします。」

男の問いにそう答える。


男は前に向き直し少しだけ姿勢を変え、背もたれに体重を預けた。金属が小さく軋む音がする。

「……寒くないですか」

唐突だった。

「大丈夫です」

そう答えると、男は「ならよかった」とだけ言った。

思えば、自分はあまり何も話していない。

そんなことを思っているうちに男がぽつりと言う。

「こうして誰かと隣に座ってるの、久しぶりで」

理由は続かなかった。こちらを見ることもない。

何か言うべきか迷って、結局そのままにした。

しばらくして、男が小さく息を吐く。

「……さっき、似てるって言われたの」

「正直、ちょっと驚きました」

一拍。

「自分では、あまり他の人と同じって感じがしなくて」

風が吹き、ベンチの下を抜けていく。

「だから」言いかけて、やめる。

代わりに、こう言った。

「まあ、悪い気はしなかったです」

それだけ。

男は背もたれにもたれたまま、しばらく川を眺めていた。

視線の先で、街灯の光が水面に揺れている。

「……川って、夜の方が音がはっきりしますよね」

独り言のようだった。

「昼は車の音とか、人の声に紛れてしまうけど」

「夜になると、川の音だけが残る」

少し間。

「前に、ここでぼーっとしてたら」

「時間がどれくらい経ったのか、分からなくなったことがあって」

男は小さく息を吐いた。

「気づいたら、寒くて」

「それで、ああ、まだ自分、生きてるんだなって」

それ以上は言わなかった。

川の音が続く。

沈黙の間も男を見ていた。

そういえば自分も先ほど同じようなことを思っていた。

男は続ける。

「……変な話ですよね」

少しわかりづらくて首を傾ける。

「別に、何かあったわけじゃなくて」

「何か思いついたわけでもなくて」

一拍。

「でも、あの時は」

「本当に何もないのに、ちゃんとここにいる感じがして」

「なんだか…」

また沈黙。

ベンチの金属が、体温で少しだけ冷たさを失っていることに気づく。

男がこちらを見て、ぽつりと言う。

「今の気持ちも少し似てます。」


男は少しだけ顎を引き、川の方へ視線を戻した。

街灯の光が、水面でゆっくりと歪んでいる。

「……さっきより、風おさまりましたね」

そう言ってから、少し間があった。

本当に気づいたことを、そのまま口にしただけ、という感じだった。

確かに、風の音は弱くなっていた。

服の裾が揺れる感覚も、さっきほど強くない。

「……そうですね」

短く答える。自分の声が、思ったより静かに聞こえた。

男は小さく頷く。

「不思議ですよね」

「さっきまで、あんなにうるさかったのに」

また沈黙。川の音だけが、一定の速さで続いている。

しばらくして、男がぽつりと言った。

「人間は、何事にも理由を欲しがるんですけどね、理由なんてわからなくても、こうやって変わっていく。」

こちらは何も言わない。否定も肯定もしなかった。

男は続ける。

「世界から見たら別に、良くなったわけでもなくて。悪くなったわけでもなくて。」

一拍。

「ただ、今は今、なんだろうな。」

その言葉を聞いて、なんとなく自分の体に意識が向く。背中の痛みは、まだ残っている。

でも、さっきより呼吸は浅くない。

僕は今生きている。

あの時ほど死にたい、とは思えない。

男は川を見る。


「…こうやって川を見ていると、なんでかはわからないけどよく今までの自分を思い返せるんです」


僕は黙ったまま、川の方を見つめる。

橋の手すりに登った時、何を思っていたのだろう。

あの時は、何も感じていないつもりだった。

でも今、落ちるはずだった川を見ると、わずかに胸の奥がざわつく。

少し、怖い。


「さっき、理由を求めたがると言いましたけど別に否定しているわけじゃないんです。むしろ、僕も理由を欲しがりますから。」


目を閉じたのは、死にたいと思ったからなのか。それとも、死にたくないと思ったからなのか。今となっては思い出せない。

ただ、失敗した瞬間、ほんの一瞬だけ、安堵した自分がいた。


「理由なんて、本当かどうかはわからない。でも……起きたこと自体は、消えませんからね。まぁ僕はそう思います。」


男はそういうとこちらに微笑みかける。

川の音が、さっきよりも静かに聞こえた。

おそらく僕は、生きていることが辛かった。生きていたくなかった。

それでも今、こうして生きている。

今もこうやって男と話している。

きっと僕は死にたくはないのだろう。


男は少しハッとしたようにして、困ったように笑った。

「……僕ばっかり話してますね」

一拍置いて、付け足す。


「もうこうして会うことはないかもしれない。きっとすぐ忘れてしまう。」


少し、照れたように男は言う。

「……なんだか」

「一人じゃない、って思えました。共感もしてくれますから。」


男は再び川を眺め、聞こえるかどうかの声でポツリと言う。


「…あなたにもきっと」


そこで、言葉が途切れた。

続きがあるようで、ない。男はそれ以上、何も言わなかった。

沈黙が落ちる。川の流れる音だけが、一定の速さで続いている。

僕は、その続きを待っている自分に気づく。

何を言われると思ったのか。何を言われたくなかったのか。

わからないまま、息を吸う。

「……あの、別に」

声が出たことに、自分でも少し驚いた。

「別に、大したことじゃないです」

そう言ってから、言葉を探す。

否定したいわけでも、誤魔化したいわけでもない。

ただ、本当にくだらないことな気がした。

男は、こちらを見る。相槌は打たない。続きを急かさない。

だから、僕は――少しだけ、続けてしまう。


「……ほんとに、くだらないんですけど」

自分で言って、少しだけ喉が詰まる。くだらない、と決めつけることで、これ以上深くならないようにしているのがわかる。

「なんていうか……」言葉が続かない。

続けようとすると、どこから話せばいいのかわからなくなる。

男は、ただ聞いている。

こちらを見てはいるけれど、表情は変わらない。

何を考えているかわからない。

「うまく説明できないんです」

「別に、何かがあったわけでもなくて」

一度、息を吐く。

川の音に紛れるくらい、小さく。

「毎日、ちゃんと過ごしてたと思います」

「やることもできる限りやってたし、周りから見たら……できないことも多かったですけど、多分本当に普通で。」

普通、という言葉が、思ったより重く落ちる。

「でも」それだけ言って、止まる。

続きがあるのは自分でもわかっているのに、形にならない。

男は何も言わない。

うなずきもしない。

それでも、立ち去る気配はなかった。

だから僕は、もう一歩だけ進む。

「……普通なのに、なんでこんなに息苦しいのか」

「それが、ずっとわからなくて」

言い終えたあと、胸の奥が静かになる。

誰にも言ってこなかった。

見ないふりをしてきた。

少し、言ってしまったことに焦りを覚えつつ、とても安心感を覚えた気がした。

男は、すぐには反応しなかった。男は、腕時計にちらりと目を落とす。

「……急がなくていいですよ」



それだけ言って、視線を川に戻す。

それ以上、こちらを見ようとしなかった。

少し、助かったと思う。

顔を見られたままだったら、たぶん言葉が止まっていた。

「……たとえばですけど」

自分の声が、思ったより低い。

「何か失敗したとか、怒られたとか」

「そういうはっきりした理由なら、まだ納得できるんです」

川の水面を見つめながら続ける。

「でも、特に何も起きてない日でも」

「朝起きると、もう疲れてる感じがして」

一度、言葉を切る。

それ以上言うと、何か大きなものに触れてしまいそうだった。

「……それで、理由を探してしまうんです」

「自分が怠けてるからなのか、とか」

「気にしすぎなのか、とか」

男は何も言わない。

「結局、どれも違う気がして」

「でも、違うって言い切れる理由もなくて」

息を吐く。

「だから」

「こんな自分が、いちばん信用できなくなりました。自分が嫌いです。」

なんだか、今まで言ってこなかったものを吐き出すことができて少し嬉しくなった。

答えは出ていない。

でも、言葉にはなった。


男はしばらく黙ったまま、川を見ていた。すぐに何かを言う気配はない。

やがて、小さく息を吸う音。

「……信用できなくなった、かぁ」

それだけ繰り返す。確認するようでも、問い返すようでもない。

「結構、しんどいですね」

声は低く、淡々としている。

慰めようとも、励まそうともしていない。

「理由が見つからないのに苦しいのは…」

「行き場のない感情に追い詰められていく。」

一拍。

「自分を疑うしか、なくなりますし」

男はそこで言葉を切り、また川の流れに視線を落とす。

「……それに」

ほんの少しだけ、間を置いてから。

「自分の気持ちを認めると言うのも難しいものです。だいたいは見て見ぬふり。」

こちらは何も返せない。

「でも心の底ではわかってるから辛くて、苦しくて」「…明日が怖くなる。」



その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。驚いたわけでも、はっとしたわけでもない。


――明日が怖い。

それは、ずっと感じていたのに、気づけなかった。

いや、わかっていたのかもしれない。

今日が終わるのは平気なのに、…次の日が来ると思うと、理由もなく身構えてしまう。

その曖昧な重さを、男はまるで自分が感じてきたように言葉にした。

なんと表現すればいいかわからない。

ただ、「そう感じてもおかしくないのだ」と、思えた。


男は何も続けなかった。

川を見つめながら、僕は思う。

この人も、同じように感じたことがあったのかもしれない。

あるいは、今も感じているのかもしれない。

僕にはわからない。

ただ少なくとも今は、自分の感じているこの息苦しさを、「間違いだ」と決めつけなくていい気がした。


男はしばらく、そのまま川を眺めていた。

何かを言い足す気配も、立ち上がる様子もない。

ただ、同じ景色を見ているだけだ。

やがて、思い出したように口を開く。

「……さっき言ってたでしょう」

「理由を探してしまう、って」

こちらを見ないまま、続ける。

「理由が見つからないと、不安になるのは自然です」

「ちゃんと説明できないと、自分が間違ってる気がしてしまう」

一拍。

「でも」

「理由がないからって、感じてることまで嘘になるわけじゃない」

川の音が、少しだけ強くなる。

風が、水面に細かい波を作っていた。

「説明できない気持ちは」

「ただ、説明できないままそこにあるだけで」

男は、肩をすくめるように息を吐く。

「それ以上でも、それ以下でもないのに」

「人は、つい意味をつけようとする」

僕は、その言葉をすぐには受け取れなかった。

否定したいわけでも、納得したいわけでもない。

ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

理由がなくても、そこにあるままの気持ち。

それを、今まで考えたことがなかった。

男は、ほんの一瞬だけこちらを見る。

視線は合うが、探るような感じはしない。

すぐに、また川へ戻る。

「……それをやめろ、って話じゃないですよ」

「別に悪いことではないと思いますから。そんな簡単じゃないですし」

静かな声だった。

「ただ」

「きっと、理由なんてなくてもいいんです。」

「それに、理由を探していて、見つからない時間も、無駄じゃないって言いたいだけです。」

それだけ言って、口を閉じた。

川の流れを見ながら、僕は自分の胸に意識を向ける。

僕は確かに今まで色々なことに理由を求めていたかもしれない。

でも、今は理由が分からないまま、ここにいる。こうして話を聞いている。



しばらく、何も言えなかった。

言おうとすればできた気もする。

でも、なんと言えばいいのかわからなくなっていた。

「……たぶん」

自分の声が聞こえて、少し驚く。

考えるより先に、口が動いた。

「理由がないと、不安になるのは」

「自分が、ちゃんとしてない気がするからだと思います。その理由に縋っていたいんだと思います。」

男は何も言わない。

だから、そのまま続ける。

「説明できないと」

「自分が怠けてるとか、逃げてるとか」

「そういうただの言い訳をしてるみたいで。実際そうなんですけどね。」

一度、息を吸う。

冷たい空気が、胸に入る。

「……でも」

言葉を探しながら、川を見る。

「なんで今こうやってあなたと話してしまっているのか」

「正直、わからないです」

それでも、立ち去りたいとも、思わなかった。

「それでも」

声が少しだけ、はっきりする。

「理由がわからないままでも」

「こうやって話せている。」

一拍。

「……理由なんていらないことのいい例ですね。」

少し笑ってしまう。

「今後会うことがないって言ってたじゃないですか。だからかもしれないですけど。まぁ、これ以上は考えないでおきます。」


男は、少しだけ口の端を上げた。

笑った、というほどでもない。

「……それでいいと思います」

一拍。

「考えないっていうのも」

「ちゃんと、あなたが選んでるってことですから」

それ以上、何も言わなかった。


川の流れが、一定の速さで続いている。

風はもう、さっきほど冷たくない。


僕は、その言葉をすぐに飲み込めなかった。

正しいとか、間違っているとか、

そういう判断をする前に、

胸の奥で何かが、少しだけ緩んだ気がした。


選んでいる。

そう言われて、初めて気づく。


ここに立っていることも。

話をやめなかったことも。

立ち去らなかったことも。


理由は、相変わらず思いつかない。

生きたい理由も、

ここに残るべき理由も。


それでも今、

足の裏に橋の感触があって、

冷たい空気を吸って、

こうして川を見ている。


「……許されている。自分で選ぶことができるんだ」


ぽつりと、こぼれた。

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


男は、こちらを見ないまま、

短く息を吐いた。


「ええ」

「そんな大げさなものじゃないですけど」


少し間を置いて、続ける。


「誰もが、行動することは許されている。何かを望む権利を持っている。」

「たとえ、どんな理由だろうと。その理由がはっきりしてなくても」


どこか、自信に満ちた声でぽつりという。


「他人からどう思われてるとか」

「迷惑かけてるんじゃないか、とか」

「自分自身を信用できないとか」


一拍。


「そういうのがあっても」

「この世界ではどんなことでもしていい」


少しだけ、言葉を探す間があって。


「人間が支配する世界とかじゃなくてもっと大きい世界規模で見るとの話ですけど。」


男はこちらに微笑み、肩をすくめる。


「まぁ」

「僕はそう思っている、ていうだけです。」



男の言葉は、そこで終わった。

少し受け入れ難いが、否定しきれない気もした。

「……そうなんですね」

自分の声が、思ったより静かだった。

納得したわけでも、理解できたわけでもない。

ただ、否定する言葉が浮かばなかった。

「なんだか、スケールの大きい話ですね。」

少しだけ間を置く。

「ちょっと、僕には難しいというか、」

「わからないわけでもないのですが、なんというか」

不思議な感じがする。

許されている。

なんだか、この人に許された気がした。

川面を見ながら続ける。

少し口角が上がるような気がした。

「でも」

「そっかぁ」

それだけ言って、口を閉じた。

それ以上言葉を重ねても、答えが出てくると思えなかった。

それどころか答えから遠ざかるそんな気がした。

男は、相変わらず川を見たまま、うなずくでも首を振るでもない。

ただ、ほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。

「まぁ」

短く、それだけ。


男は、川から視線を外し、こちらを見る。

ほんの少し微笑みかけてから、口をひらいた。

「……そろそろ、行きます」

それだけ言った。理由を添えるでもなく、時間を確認するでもない。

「あ、はい」

間の抜けた返事になった。

引き留めたい気持ちはなかった。

だからといって、名残惜しくないわけでもない。

男は、一歩だけ踏み出してから、立ち止まる。

振り返らずに、言った。

「あなたと話せて楽しかったです。」

「これから会うこともないでしょうし」

「さっきの会話も、きっとすぐに忘れますよ」

軽い調子だった。

冗談のようでもあり、本気のようでもある。

「それに、たぶん」

「忘れたとしても、困らないと思います」

少しだけ間が空く。

「それでも」

「こうやって、話すことができて面白かったですよ。ありがとうございます。」

それだけ言って、今度こそ歩き出した。

特別な雰囲気も、重たい余韻もない。

ただ、夜の橋を歩いていく一人の男。

角を曲がり、姿が見えなくなるまで、僕はその場を動かなかった。

川の音が、またはっきり聞こえる。

風が、コートの裾を揺らした。

どのくらい話していたのだろう。


——不思議な人だった。

今になってそう思う。

どこか見透かしているようで、

楽しんでいるようでもあり、

そのくせ、興味がないような——

そんなおかしな人だった。

でも、嫌な感じはせず、懐かしさすら感じる安心感があった。

そういえば名前も、素性も、結局わからなかった。

もう会うことも、きっとない。

それなのに、この夜がなかったことになるとは、思えなかった。

僕はもう一度だけ、川を見てから、ゆっくりと橋を渡り始めた。

橋を渡りきるころには少しすっきりとした気持ちで空を見上げた。

月が綺麗だ。

帰り道、コンビニの明かりがやけに眩しい。

何を買うか少し迷って、結局いつもと同じものを手に取る。

レジに並びながら、ふと思う。

――今日はおかしな1日だった。

あの男に会わなければ、今頃自分は、

そう思うと、少しおかしくなってきた。

あんなことがあったのにいつも通り家に着いてしまった。

本当にいつもと同じだ。これから元通りの生活を送るのだろう。

でも、不思議と重かった体が軽く感じられる。

そのまま僕は布団に入り、眠りについた。



やはりそれから何ヶ月も同じような日々を過ごした。


「すいません。佐藤さん」

「…これ明後日までのなんですけど、頼めますか?」

少し申し訳なさそうに声をかけてくれたのは、有田さんだ。仕事を思い浮かべる。そこまで、多くはない。

少しだけ迷ってから、口をひらいた。

「あ、…わかりました。」

「ありがとうございます。助かります。」

有田さんは少しお辞儀をしながらそう言うと、自分のデスクへ戻っていった。

その背中を見送ってから、また名前を呼ばれていたのに返事をしていなかったことに気づく。

しばらくして、課長からプレゼンテーションの件で呼び出された。

少し、修正してほしいところがあったらしい。

「以上だ。もう一度確認しといてくれ。」

軽く会釈して席に戻り、再び仕事に戻る。

仕事が終わった。

今日も少し仕事が長引いてしまい、いつもより遅くなってしまった。

会社にいる人はもう少ない。

建物を出たとき、いつの間にか雨が降っていた。

傘を持っていなかったが、濡れることは気にせずそのまま歩き出す。

本当に変わり映えのない1日。

少し気分が落ち込み、いろいろなことを考え始めてしまう。

僕は川へ向かった。

あの日のように明るい考え方へ導かれることを少し期待して。

橋へと足を踏み入れる。


川の音。

冷たい空気。

手すりに肘をつて川を眺める。

あの日からたまにここへくるようになった。

今日は生きていたくないと思っていた日々と久しぶりにここにきたあの日を思い出す。

「死にたい」

そう思っていたのにここにくるとそんな思いは薄まり、一人で立ち尽くし川を眺めていた。

いざとなるとやはり怖かったのか、気が狂っていたのかまるで神の視点かのように世界を自分を冷静に見られるようになった。

この川が自分の思いを全て受け止めてくれるように自分の考えが整理されていく。

そんな気がした。

あの時から生きていたいと思えるようになった。

しばらく川を見つめひと段落つくと家へと向かう。

僕がいてもいなくても世界が変わることはないだろう。

それどころか、もっと円滑に仕事が進められるかもしれない。

僕がいない方がいい理由なんていくらでもある。

そんな僕でも生きていてもいい。

理由なんかなくても生きることを望んで、生きてしまっていてもいい。

そんなことを考えながら歩いているうちに、家に着く。

扉を開けても、誰の迎えもない。

静かで、暗い部屋だ。

最近ハマっている本が目につく。

今日はもう遅い。

そう思い、することを済ませてから眠りにつく。




観測は、予定通り終了した。


人間は、与えられた言葉を受け取り、

自分で考えたような顔をして、用意された範囲の中で答えを選ぶ。


選んでいるつもりで、

ただ、用意された道をなぞって進んでいる。


その過程に、特別な逸脱はなかった。


能力も、奇跡も、いわゆる特別なものは使っていない。

ただ言葉を与えただけ。

それだけで思考は十分に揺れ、方向を変える。


やはり、人間の思考や感情は扱いやすい。

複雑そうに見えて、

構造は驚くほど単純だ。


あの男も、

自分で選んだと思い込んだまま、変化した自分を受け入れていく。


どこでそうなったのかは忘れ、

なぜそうなったのかも説明できず、

それでも「そう考えるようになった自分」だけが残る。


当然だ。

今の彼にとって、私は最初から存在しなかったのだから。


結果として、

観測対象は生きることを選んだ。


……それだけのことだ。


予測通り。

誤差なし。

想定外の感情反応もなし。


結論として、

今回の観測は成功している。


ただ、

個人的な感想を述べるなら――


あまりにも、

退屈だった。

最後までお読みいただきありがとうございます。

私は普段あまり小説を読まないのでChatGPTと一緒に書いたもののまだまだ稚拙な文章かと思います。

誤字などがございましたら、ご報告していただけると嬉しいです。

ご意見なども大歓迎です。

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