日常
「追加任務は異世界で。」でスランプ気味になったので、代わりに上げます。
起きてすぐ、夜凪は枕元に置いてある着物を手に取った。名家の令嬢が着るには質素な、使用人服だ。
肩辺りまで伸びた黒髪を纏め、黒い髪留めで固定する。
部屋を出て顔を洗い、作り置きの握り飯を二つ頬張る。塩が利き、梅が爽やかな酸味を放つ。
夜凪は片目を隠すように包帯を巻いた。そして袖を襷で捲る。準備は完了だ。
既に数人の使用人は仕事を始めている。
家の主は未だ起きていないようだ。
台所から、慌ただしい足音と火花の音が聞こえる。
「あら、夜凪様。おはようございます」一人、中年の使用人の女性が言った。
「…………おはようございます」夜凪は静かに頭を下げた。
彼女らは家の主である義家族に振る舞う料理を準備している。その中に夜凪も加わった。
米を炊き、沢庵を切り、卵を焼く。香ばしい匂いが鼻を突くが、既に握り飯二個を食べ終えたので大して食欲は湧かない。香りにつられて小鳥が何羽か寄って来る。
まだ眠気は残るが、家の主に振る舞う食事だ、手を抜くことは許されない。
「夜凪様はもう少しお休みになられても良いのですよ?」女性が隈を浮かべる夜凪の顔を覗き込んだ。「昨夜も忙しかったのでしょう?」
「……心配をかけてしまって、申し訳ございません。私は大丈夫です」
夜凪は白米を盛りながら言った。腕は細く、肌は白く、指には赤切れが走っている。
女性は夜凪にまた何か言おうとした。しかしその言葉が出る前に、他の使用人の呼ぶ声が飛んだ。つい最近入った新人が、どうやら火おこしに手間取っているらしい。
女性はほんの数秒、躊躇った。
そして使用人として働く、家の主の義子の元を後にした。
起きてきた家主は、味噌汁を啜りながら新聞を読んでいる。
そこには一家が集まり、食卓を共にしていた。
父、治蔵喜也は〈殺人事件多発〉の文字を見て眉をひそめた。
母、夏織は婦人用の雑誌を読み、時々目を止めている。
娘、彩菜は眠たげな瞳で沢庵を噛んでいる。年頃の少女らしい美しい着物とよく梳かれた髪が、腕を動かすごとにふわりと揺れる。
そして義子、夜凪は居間の隅で頭を下げて正座している。
「…………ねえ夜凪」
夏織は夜凪の方を振り返った。
夜凪の肩が跳ね上がった。
その額に、夏織は白米の椀を投げつけた。
堅い陶器が直撃し、夜凪は呻いて顔をしかめた。
「お米が柔らかくてよ。怠けていたのではなくて?」
その瞳には、軽蔑と快感が籠っていた。
夜凪は小さく震えながら、頭を更に、床につくまで下げた。
「申し訳ございません」
「昨夜、私、お腹を壊してしまったの。もしかしてお姉さま、変な者でも混ぜたのかしら?」
「何ですって?」
彩菜は眉尻を下げ、上目遣いで母親を見た。
「そんな……私は何も…………」
夏織は立ち上がり、青ざめて震える夜凪の前に立った。
「私たちを呪い殺す気か! この悪魔!」
白い頬を、夏織の手が打った。
姿勢を崩し、腫れる頬を抑える夜凪の細腕を強く掴み上げる。華奢な体を強制的に立ち上がらせ、「お仕置き部屋で反省が必要ね」と呟いた。
義父は素知らぬ顔で茶を啜り、二人を一瞥してまた新聞を読み始める。
夏織は夜凪の腕を引き、居間を出た。それを彩菜は楽しそうに眺めた。
廊下に二人分の足音が響く。一つは大きく規則的で、もう一つは弱々しくやや不規則だ。二人は居間から離れた空き部屋に向かっている。ほとんどの使用人は頭を下げた。しかし一人、中年の女性だけが手を伸ばしかけるが、他の使用人に引き留められて諦めた。
「夜凪様…………」女性は小さな背中を見詰めた。
治蔵家は元々、夜凪の実母の実家だった。夜凪が一歳の頃に当時の当主が死に、経済面で困窮していたある名家の次男だった喜也が婿養子として治蔵家の当主に代わった。しかし夜凪が三歳になり、実母が病で死亡した。そのすぐ後に嫁いできたのが夏織だ。しかし、治蔵家への婿入り以前から喜也と恋仲にあった彼女が共に連れて来たのは、夜凪と一つしか歳の違わない喜也の実娘。つまり夜凪の実母に対して、喜也は愛情の類を持たず、結婚中に子を儲けていたのである。
夏織が立ち止まった部屋は、掃除の行き届いていない狭い荷物部屋だった。何匹もの蜘蛛が壁を這い、白い糸が張り巡らされている。
夏織は掴んでいた細腕を、部屋の中に投げた。
夜凪の体は汚い床の上に転がった。
夏織は襖をぴしゃりと閉じ、外から棒を立てかけて塞いだ。
そしてそのまま居間に帰って行った。
居間の襖を開いた夏織は、小さく溜息を吐いた。
「全く、あの忌子の折檻も疲れるわ」
「お姉さまったら、お母様の手まで煩わせて…………」
彩菜は魚を摘まんだ。
喜也は軽く夏織に睨まれて僅かに頭の位置を下げる。
「貴方があんな女を娶らなければ……」
「いやあ、家が上手くいってなくてなあ、仕方なく……」喜也は頭を掻いた。
室内の使用人は息を詰まらせた。
いつもやつれた、不自然な笑顔で自分たちを気遣う夜凪。自分よりずっと厳しい仕事を課せられているというのに、彼女が弱音を吐いた場面を見たことが無い。そんな彼女が蔑まれるのは、どうしても良い気分とは思えない。
”あの姿”さえ無ければ、彼女が受ける仕打ちは幾分か軽かっただろうか。
彩菜がくす、と笑った。
同刻。
荷物部屋で膝を抱える夜凪の包帯は、夏織に打たれたことで外れかけていた。
包帯の下から右目が覗いた。
黒い左の瞳。しかし右の瞳は、紅と二藍と翠の混ざったような、歪で不気味な色が渦巻いていた。そして本来白い筈の余白は黒く染まっている。その片目の睫毛だけが、冬の曇天のような淡い灰色だった。
薄い暗闇の中で寂しく、異形の瞳が潤んだ。
「ところでお父様、私、新しい着物が欲しいの」
義姉が監禁されている中、彩菜は甘えた声で父親に言った。
両手を組み、上目遣いで顔を見上げる娘に、喜也は優しい笑みを向けた。
「良いだろう。何柄をお望みかな?」
「私、桜が良いわ」
「あら貴方、あまり買いすぎると家が着物まみれになってしまいますわよ」
「そうは言ってもなあ、可愛い娘の頼みだ」
夏織は「まあ」と、楽しそうに苦笑した。
使用人は複雑な内心がにじみ出る顔を伏せ、三人の話し声が聞こえないようにじっと時間の経過を待つ。
「じゃあ、私はお部屋に戻りますわね」彩菜は立ち上がった。「貴女たち、片づけをお願いね」そして使用人に振り向いた。
使用人が頭を下げた。
両親が見送る中、彩奈は優雅な所作で居間を出た。
向かうのは自室_____ではなく、屋敷の北東端だった。自分が通る度に頭を下げる使用人には見向きもしない。
ある部屋の前で立ち止まり、彩菜の笑みが濃くなった。
「お姉さま。居るかしら?」
あまり響かない甲高い声が襖の向こうに届く。
間もなくして、くぐもった返事が聞こえて来た。
「…………はい、居ります」
「私ね、また新しい着物を買ってもらえるの」
自慢げに告げると、物置部屋に閉じ込められる少女が黙った。
彩菜は続けた。
「綺麗な桜色よ。とってもお姉さまみたいな”悪魔”には似合わないような」
夜凪からの返答は無い。
彩菜の口から笑いが漏れる。
「それとね、お姉さま。私…………真名矢さまと、一月後に結婚するの」
真名矢_____二人の幼馴染。世の女性全員に憧れと色欲の眼差しを向けられる青年。
「え……?」夜凪が驚愕の声を小さく零した。
「お姉さまも結婚式に招いてあげるわね? 私の晴れ姿が見れて、嬉しいでしょう?」
襖の奥の少女は黙りこくったまま、十数秒が流れた。
彩菜は清々した様子でその場を去った。「惨めだこと」と捨て台詞を残して。
五日後、日本屈指の名家である白陀丹家の嫡男、真名矢が治蔵家の屋敷を訪れた。妻となる彩菜への大量の贈り物と共に。
「久しぶりだね、彩菜」
「ええ、真名矢さま。お会いしたかったです」彩菜は美しい笑顔を浮かべた。
真名矢は有名な美男子だ。色素の薄い絹のような髪、大きな瞳、優し気な表情。
そして横に並ぶ彩菜も、真名矢に劣らぬ美しさを持っている。
風に吹かれて、二人は甘い空気を漂わせていた。それを眺める使用人の何人かが仕事を忘れかけるほどに、美しい光景だった。
この日、夜凪は庭の掃除に出ていた。普段は建物の中しか命じられていないのに、である。
運悪く、そこに世間話をする二人が歩いて来た。
「あら、お姉さま」
「……彩菜様…………」
夜凪は穏やかな顔を青ざめさせた。
彩菜は真名矢に気づかれないようにほくそ笑む。夜凪の視線は、その隣の美しい青年へと移った。
「お久しぶりです、夜凪さん」真名矢は笑顔のまま小さく頭を下げる。
「真名矢様……!」夜凪は足元が見えるほどに深く腰を曲げた。
「良家のご令嬢が……何故このような場所で、そんな恰好を?」
「お姉さまが言ったのよ。お手伝いさせてって」
彩菜は優しい表情を貼り付けて、慈愛に満ちた瞳で姉を見遣った。
夜凪は顔を上げない。
「そうなのですね。夜凪さん、私と彩菜の結婚のことは、ご存じでしょうか」
夜凪の肩が揺れた。
「…………はい、存じ上げております」
「貴女にお礼が言いたいのです。こんな風に彩菜が元気でいるのは、ご両親、そして姉である貴女のお陰でもあります」
「いえ……そんな…………」夜凪は更に頭を低くした。
その時、二人を眺めていた彩菜が真名矢の袖を引いた。
真名矢が振り返ると、愛らしい上目遣いで自分を見上げる美しい少女の顔があった。
「もう行きましょ? お姉さまの邪魔になってしまっては悪いわ」
彩菜が袖を半ば強引に引くと、真名矢は素直に、一礼した後に夜凪に背を向けた。
一瞬、彩菜が夜凪に目を向けた。
嘲笑と、妬みに満ちた視線を。
夜凪が肩を震わせるも、真名矢は彩菜を見ている。
二人の姿が建物の角の向こうに消え、庭に夜凪だけが残された。風の無い、無音の庭に。
弱々しい手が、ぎゅっと箒を握り締めた。
「夜凪様、旦那様がお呼びです」
使用人の声が目を覚ます。特に良く接してくれる、中年の女性だ。
いつの間にか、十数秒ほど経過していたらしい。夜凪は箒を置き、やや駆け足で玄関に向かっていった。
使用人の女性は心配そうにその後ろ姿を見詰めた。
夜凪が玄関の戸を開くと、早速話し声が響いてきた。
「喜也様も、お元気そうで何よりです」
「よく来てくれたな、真名矢君」
喜也は快く笑って言った。
居間の隅では、夏織が正座して二人を呆れた風に微笑みながら眺めている。
そこに、夜凪が入って来た。静かに障子が開かれた。
「お呼びでしょうか」
夏織が一変、不機嫌そうに夜凪を睨んだ。夜凪は慌てて頭を下げ、縮こまっている。
「三人とも、ここに座りなさい」
喜也は居間の中心に腰を落とした。
その正面に、夜凪、彩菜、真名矢の順で正座する。
喜也は一つ咳ばらいをした。
「伝えておいた通り、真名矢君と彩菜の結婚が、一月後に決定した。真名矢君は婿養子として、この家で我々と暮らす」
それを聞いた彩菜が輝くような笑顔を真名矢に向けた。
真名矢も、それに嬉しそうな表情で返した。
「本当なの?」
「ああ。君も、家から離してしまっては寂しいだろう? 私は大丈夫だから、お願いしたのさ」
二人は幸福を顔に浮かべて見つめ合った。
「そして夜凪」喜也の表情が能面のように固まった。「お前には、かの黒葉多緋貴様に嫁いでもらう」
木の壁に、歳で少ししわがれた声が反響した。
沈黙が、甘酸っぱい空気の漂っていた部屋に降りた。
夜凪が絶望の色を左の瞳に映した。
黒葉多緋貴______半人半鬼として有名な軍人。冷酷無慈悲な性格で、過去に子供を食い殺した噂も立っている。故に巷では、「人食い軍人」と恐れられている。そしてその力は強大で、一つの街を滅ぼしかけた妖を単身で討伐したとも言われている。
だが黒葉多家も、白陀丹以上の名家として有名だ。その家と関りを持てば、治蔵家は莫大な利益を得ることが出来る。______つまり、夜凪は売られるのだ。義家族の名誉のために。
彩菜と真名矢が目を見開いた。
「お姉さまが……そんな危険なお方と…………」彩菜は袖で顔を覆った。
真名矢が呆然と空中を見詰め、崩れ落ちる彩菜の肩を支える。
しかし、袖の下の彩菜の口元は口角が吊り上がっている。夏織もまた、にやけを抑えて憐れみを貼り付けていた。
死刑宣告に等しい言葉を娘にかけた父親の顔色は一寸たりとも変わっていない。
「明日、迎えが来る。お前は黒葉多家、緋貴様の元で暮らせ」
更に恐ろしい命令が浴びせられた。
畳の上の白い手が震え、冷や汗が頬を伝っていった。
「話は以上だ。二人は自由に過ごしてくれ。夜凪、お前は引き続き掃除をしていろ」
「夜凪さん!」
雑巾の入った桶を持って廊下を歩いていた夜凪に、切羽詰まった声がかけられた。
振り返ると、肩で息をする美しい青年の姿があった。
「……、………………真名矢様」
「黒葉多家に嫁ぐって……本当なのですか?」
「……はい……もう決まったことです」
夜凪は視線を桶の中に落とした。
冷たい、鋭利な痛みが、真名矢の心臓に走った。
そして彼は着物の内側から”或る物”を取り出した。白い布で包まれた、爽やかな甘い香りを放つ小さな花袋だった。
それが乗った手を差し出し、不器用な笑顔を作って真名矢が言った。
「お守りです。噂の真偽は分かりませんが、貴方が危険な目に合わないよう、『白菊』の力で呪いをかけました」
真名矢の右肩に、白く気品のある鷺が舞い降りた。彼の遣う妖だ。
「……どうしてこれを、私に…………?」
夜凪は左の瞳で白い顔の青年を見上げた。
真名矢は顔を赤くして目を逸らした。
「貴女が傷ついてしまうと、彩菜が悲しみます。婚約者の悲しい顔を見たくないのです。それに……貴女は私の義理の姉となる人なのです。私自身も、貴女に傷ついてほしくない」
そこまで言って、真名矢は元来た場所に速足で去ってしまった。
廊下には、棒立ちする夜凪一人が残される。
手の上に置かれた花袋を眺め、長い前髪の下で僅かに微笑み、そして桶を持ち直して廊下を歩いて行った。
その背後の角では、彩菜が冷たく、その弱々しい背中を睨んでいた。
夜凪が彩菜に呼び出されたのは、真名矢が帰った夜だった。
晩飯の片づけをしていた所、突然彩菜が夜凪を連れて物置小屋に向かった。
小屋内では、彩菜が華奢な体で手を振るい、夜凪の顔を打っていた。足蹴にされ、何度も殴られた体には無数の傷跡が生々しく刻まれている。
「お姉さま、真名矢さまから何を貰ったの?」
「……申し訳ございません…………!」
殴るのを止め、痣の出来た夜凪の顔を覗き込む。
夜凪の着物から、美しい花袋が零れ落ちた。
「なあに? これ」
花袋を拾い上げ、彩菜が夜凪を見下ろした。
「…………真名矢様が……っ、お守り、と……」
その瞬間、彩菜は花袋を踏みつぶした。
土の上に花の汁が溢れ、ほのかな香りが土と古木の匂いに掻き消される。
その様子を、痣だらけの夜凪は固まって眺めていた。
「真名矢さまは私の婚約者なの。お姉さまなんかが彼の気を引こうなんて思うものではないのよ」
足を退けると、原型を失った花と、破れた袋が転がっていた。
黒髪を引っ張り上げ、囁くように彩菜が告げる。
「私、真名矢さまと結婚して国で一番の女になれるの。姿も、教養も、婚約者も、私が一番になる。お姉さまはずっと私の下。黒葉多さまのお屋敷で、不幸な暮らしをして一生私に追いつけず終わるの」
華やかな少女は、醜い欲を露にした。
呻く夜凪の眼には涙が浮かんでいた。
顔に作られた痣と傷が明日に治る見込みは無いだろう。
その日の夕刻、一台の車が治蔵家の門前に停まった。
夜凪はお世辞にも似合うとは言い難い、派手な花柄の紅の着物を着せられている。顔と腕、そして右の瞳には包帯が巻かれ、その姿を不気味な物へと変えていた。
門を出たとき、運転手が飛び跳ねかけた。
夜凪は無言のまま車に乗った。
隣には、黒い軍服を纏った若い男が静かに座っている。帽子で顔は見えずその正体を計ることは難しいが、この状況だ、思い当たる人物は一人しか居ない。
黒葉多緋貴だ。
冷たい空気を纏わせる軍人と少し離れて、夜凪は椅子に腰かけた。
門に見送りは居ない。使用人たちは許可されず、義家族は見送る気すら無かった。
寂しい静寂が降りる中、車が発進した。
緋貴は一言も喋らず、ただ窓の外を帽子の下から眺めている。
夜凪は出来る限り頭を伏せた。包帯で覆われた化け物のような顔を窓から出すわけにもいかず、緋貴に見せることも出来なかったからだ。
運転手は居心地が悪そうだった。何せ、包帯だらけの奇妙な女と、半鬼の軍人を乗せているのだから。
行き交う人々は、そんなことなど知りもせず伴侶と店を探している。
一人の少女と軍人の時間は、重くゆっくりと流れた。
緋貴の屋敷は、治蔵家以上に広々としていた。
庭はよく剪定され、小池には数匹の鯉がゆらゆらと優雅に波を立てている。草花に無駄は無く、しかし堅苦しくも無い、完璧に手入れされていた。
門から玄関までの道で視界に入った庭に、夜凪は感嘆の息を漏らした。
緋貴は無言で玄関を開けた。更にまた無言で夜凪が入れるように体を横にずらす。
玄関の靴は無い。あるとすれば、今二人が履いている軍用ブーツと下駄のみだ。
誰もいない家は静かで、どこか空虚さすら感じさせた。
夜凪はすぐ、自室となる部屋に案内された。と言っても、その案内というのは無言の手招きだった。そこは立派な箪笥と化粧机が設置され、実家の部屋と比べてずっと豪華で広い。
持たされた小さな荷物を置き、振り返ると、先ほど襖を開けた婚約者の姿は無かった。
微かな夕日が障子から差し込む。
包帯だらけの少女は、初めて安らぐ時間を与えられていた。しかしこの家の主は自室に去り、未だ声すら聴いていないし顔も分からない。
黒葉多緋貴は他者と関わらない。軍人としての実力は確かだが、鬼の血を継ぐ彼は人食いと噂されて恐れられている。もしそれが本当ならば、夜凪に待つのは絶望に満ちた死だ。
夕日に差されながら烏が間抜けに鳴いた。
夜凪はまず、持ってきた日記を風呂敷の中から取り出した。
何か書こうと筆を執る。その時。
「夜凪」
低い声が名を呼んだ。
襖の向こうに人影がある。背が高く、体は細い。しかし隙間から覗く程度で顔までは見えない。
「荷を整えて着物を変えたら、部屋に来い」
それだけ言って、人影はまた消えた。
夜凪は閉められた襖を少し見て、また筆を執りなおした。
さらさらと毛筆が紙の上を滑り、文字が白い面を汚していく。しかしその日は殆どが準備と車内での出来事、記す内容はさほど多くはなかった。
次に、白い布にくるまれた、母の形見である手鏡を机の上に出す。鏡面にはひびが入り、まともに自分の顔を確認することも出来ないが、あくまで形見、使えなくても何でもいい。
そして着物。質素な着物が二着入れられている。用意されていた、令嬢らしいというには質素な着物には義家族の無関心と蔑みが現れている。
夜凪は紅色の着物の帯を解き、質素な着物の一つに手を伸ばす。
布の音だけが部屋に響いた。
着替えを済ませた時、既に日は沈みきっていた。
空には星が散りばめられ、月が神々しく冷たく淡い白光を地上に振らせている。
鳥の泣き声も姿を消し、屋敷は涼しい沈黙に包まれる。
屋敷の主、黒葉多緋貴の部屋に来客があった。
「入れ」
「……失礼します」
遠慮がちな少女の言葉と共に、腕と顔を包帯で覆った夜凪が書斎に入って来た。
正座をして婚約者に頭を下げ、そして視線を上げると______そこに居たのは、人外じみた美貌を持つ青年だった。
青みがかった黒髪に、鬼と呼ぶに相応しい紅い瞳。白い肌。月光に照らされる姿は妖よりも神と表す方が妥当だ。
夜凪は緋貴に魅入っていた。
「婚約者となる身だ。名乗っておく。_____黒葉多緋貴だ」
神聖な低い響きが部屋の壁に消えた。
我に返った夜凪が慌てた様子で額を畳に擦り付ける。
「治蔵夜凪と申します」
上ずった名乗りは特に何も残さず、緋貴のそれと同じように消えた。
初々しい動作で顔を下げている夜凪の脳内に、突如鋭い低音が刺さった。
「演技はもう良い」
月光の下で、緋貴はただでさえ睨んでいるような瞳を吊り上げた。
「…………演技……?」
夜凪は思わず、といった動作で顔を上げた。
月光の影になる表情には疑問と驚きが滲んでいる。
「それを止めろと言っている。俺に偽装は通用しない。お前の本性も、隠し持っている力も、だ」
緋貴の、細い体から殺気が放たれた。
鬼、そして軍人の持つ力の融合したその殺気は、目の前の人物を殺さんとする勢いで爆ぜる。気弱な少女ならば、息を止めてそのまま死んでしまうかもしれない。
夜凪も殺気に当てられて死ぬ________________
筈だった。
夜凪は俯いていた。震えもせず、ただその場に存在していた。
呼吸は続けられ、それは意識を飛ばしている際の安定した大きな呼吸ではない。
奇妙な空気が書斎を流れた。
その時。
「…………………………くくっ」
どこからか笑い声が漏れた。
夜凪からだった。
肩を震わせている。しかしその口からは、低い笑いがまだ漏れ出している。
「くくっ…………ははは!」
やがてそれは、豪快な笑いに変わり始めた。
徐々にその表情が露になっていく。
緋貴は殺気を解かなかった。
「あっはははは!」
包帯に覆われた少女が浮かべていたのは、邪さを僅かに含んだ笑顔だった。
笑い声は少女、しかも令嬢のそれにしては低く、目を瞑っていれば少年がそうするように聞こえた。
夜凪は正座を崩した。
「……あー、いや、失敬。さっすが半鬼の軍人、見抜くの早いなあ」
それは気弱な少女の言葉ではなくなっていた。
少女はゆっくりと、自信に満ちた所作で腰を上げた。
緋貴もそれに合わせるように立ち上がる。
当然ながら、緋貴の方が頭一つか二つ分ほど背が高く、夜凪は見下ろされる形になる。
「あの家に居たときは周りが凡人と馬鹿ばっかりで楽だったのに。あーあ、演じるのも大変だね」
夜凪は顔に巻き付く包帯を引っ張った。
そして一気に解いた。
傷も、痣も無い、しかし非人間的な色を宿した右目が露になった。震えていた唇はにやりと、意地の悪そうな弧を描く。
気弱な少女の面影は、月光の影のどこかに沈んで消えた。
少女は言った。
「改めまして。_____俺は夜凪。土蜘蛛の父と鬼女の母の子。これからよろしく頼みますよ、緋貴さま」




