準備と祈り2|祈りは死者を慰める
スレンとゾルグは、リリウスの指示に従い黙々と動く。
支度が終わるとリリウスは、スレンたちに労いの言葉をかけてから、死者と向き合った。
火傷を隠す長い髪が邪魔で、スレンの位置からリリウスの表情は読み取れない。
髪の隙間から微かに見える薄い唇は、固く引き結ばれている。
肩が小刻みに震えている様子は、悲しみに耐えているというより、怒りを必死に堪えているように見えた。
「神は貴方の行いを全てご覧になっています。神により正義は成され、悪は滅ぶ。世の理は……」
リリウスは外で唱えたものと同じ、祈りの言葉を再び口にし始めた。
悪は滅ぶ、が他よりも強い口調に聞こえた気がした。ただ、違和感はほんの一瞬だったので、スレンの思い込みかもしれない。
祈りの続きを紡ぐ声は、春の陽だまりのように柔らかで、怒りは微塵も感じられない。
どんな者にも等しく、慈悲深く語りかける様は、神の叡智を地上の民衆に伝える役目を負う、導師の威厳に満ちていた。
つい先ほどまで体に毒のタバコをふかし、ヘラヘラと気の抜けた笑みを浮かべていた男とは思えない。
リリウスの柔らかな声が、吹雪の夜、スレンが聞いた声と重なる。
(……あの夜、……リリウスの声が聞こえてなかったら……)
声は思い出したくない記憶を呼び覚まし、考えたくない“もしも”を思い浮かべてしまう。
もし、リリウスが雪の中で行き倒れているスレンを見つけなければ。「しっかりしろ」と声をかけてくれなければ、スレンはきっと、長椅子の上に横たわる死体と同じ末路を辿っていただろう。
誰にも気付かれることなく、雪に埋もれ寒さと恐怖に包まれ、意識が薄れていく。
リリウスの声のおかげで、意識を保つことができ、命拾いをしたが、死にかけた記憶は生々しく頭にこびりついている。
スレンは身体の震えを止めようと手を握りしめた。
「……スレン、寒いのか?」
ゾルグが小声で心配そうに声をかけてくる。平気だという前に、ゾルグはスレンを引っ張り、暖炉の傍に立たせる。
「長くなるし、二人とも座っていいよ」
リリウスが言葉を切り、ふわりと微笑みながら言う。
ゾルグが座ろうと言うので、暖炉の傍の長椅子に腰掛けることになった。
座ると、息が漏れた。きっと疲れていたのだろう。
背もたれにもたれかかり、肩の力を抜くとまぶたが重くなる。
そこに暖炉の熱と、リリウスの凛とした祈りの声が加わると、一気に睡魔が襲いかかってくる。
「寝るなよ」
ゾルグが小声で釘を刺してくる。教会の教えを信じていないのに、まじめだ。
スレンはあくびをこらえ、うなずいた。
(……ちゃんと導師さまやってたら胡散臭くないのにな)
リリウスの後ろ姿を見ながらスレンはぼやいた。
ちゃんと導師を演じているリリウスを見ると、はじめて彼と会った夜のことを思い出す。
あの晩、スレンは真っ白な世界を当てもなくさまよっていた。
空腹と寒さで身体が動かなくなり、柔らかな雪の上に倒れた。
助けを呼ぼうと絞り出した声は、ネフリト山から降りてくる風に掻き消され、体の上に降り積もる雪のせいで体温と気力も奪われた。
野垂れ死ぬのを覚悟したスレンの前に現れたリリウスは、神の使いのように見えた。
(……なんで真夜中に外をほっつき歩いてたか知ったら、神さまの使いなんて思えないけど)
理由を思い出すと、変な息が漏れる。
リリウスはスレンを見つけた日の晩、サーシャの宿でレイモンドと賭け事に興じていたらしい。
負けが続き、掛け金がなくなったので、教会に金を取りに帰る道中、村外れで倒れていたスレンを見つけたらしい。
『おれが逃げたと思ってレイモンドが追いかけて来なかったら、一緒に凍死してたかもね』
リリウスはそうヘラヘラと笑って、スレンを見つけた日の詳細を教えてくれた。
はっきりと覚えてないが、スレンはあとから来たレイモンドにおぶられ教会に運ばれたらしい。
ぼんやりとした記憶の中にあるのは、タバコの甘苦い煙の匂いと人肌のぬくもり。そして、リリウスの『大丈夫だよ』という声。
教会に着くまでの道中、リリウスが声をかけてくれたおかげで、スレンは意識を保つことができ、生還につながった。
(……お行儀のいい導師さまじゃないから、いいのかもな)
教会は正しい人の道を説く場所という思い込みがあり、好きではなかった。
かつて戦場で人を殺し、人の道に背いたスレンがいるべき場所ではない、そう考えていた。
リリウスはスレンが過去、何をしたか知っている。
知った上で、スレンに色んな話を聞かせてくれた。
自分もスレンと同じ戦争に行ったこと、スレンのような子供を殺めたことを淡々と話してくれた。
『おれはいい大人じゃない。……だから、きみもいい子でいなくていいよ』
教会に世話になるわけにはいかないというスレンにリリウスはそう言ってくれた。
いい子でいなくていい。その言葉を聞き、涙が溢れた。
祈りの言葉に意味があるかはわからない。ただ、スレンはリリウスの言葉に救われた経験がある。
聖智恩教会の教えに興味はない。だが、誰かを想う言葉は相手に届く。
きっとリリウスの祈りも故人に届くとスレンは信じていた。
「どうか、神の御下で魂が癒されんことを」
リリウスが締めの言葉を口にしたのと同じタイミングで、スレンは目を閉じ、故人の魂が癒されることを願った。
*
簡易的な葬送の儀式が終わり、死者を埋葬する準備を行う。
リリウスが故人の身を清めたあと、導師が身につける白のローブを着せ、再び長椅子に死体を横たえた。
あとは土の中に埋めるだけとはいえ、襟元がおれていたり、裾がめくれていたりと、仕事が雑だった。
『彼も男だし、身支度は自分がやる』と、袖をまくって得意気に言ったのはリリウスだ。
(……最初からわたしに任せればいいのに……)
内心で不満を呟きながら、スレンは足元のめくれたズボンの裾を整える。
リリウス当人はというと、襟元に手をかけたまま亡骸を見下ろし、ぼんやりと突っ立っていた。
「リリウス?」
リリウスは、蒼い顔でどこか遠くを見ていた。
スレンに名前を呼ばれ我に返ったようで、すぐに口元に笑みを貼り付けて、なんでもないように取り繕う。
「ごめんスレン! ゾルグに用ができたんだ。服を整えるの任せていいかな」
リリウスはスレンの返事を待たずに、棺桶を組み立てているゾルグの元へ向かった。
衣服の調整よりも棺桶の組み立てのほうが労力がかかる。
ただ、リリウスがゾルグを手伝いに行ったとは思えなかった。
怪訝に思いながらスレンは、リリウスの背中を目で追う。
リリウスはゾルグの隣に腰をおろすと、薄っぺらい笑みを浮かべたまま、口を開いた。