タバコとサボリ魔|導師は昼下がりに煙と真実を燻らせる
今ならまだ引き返せる、とスレンの中の狡猾な声が囁きかけてくる。
面倒な予感がする死体を、元いた雪原に捨ててしまいたい。
しかし、なけなしの良心が『これ以上、人の道に背くようなことをしてはならない』という。
(……リリウスのとこに運ぶって決めたんだ)
ゾルグの話に乗ったのはスレンだ。今さら泣き言を言っても仕方がない。
今はソリの上の屍が、王政派とは無関係の巡礼者であることを願うしかなかった。
村外れに行くと、途端に人がいなくなる。
道にも薄っすらと凍った雪が残り、ガタガタと荷ゾリが音を立てる。
一人で歩いていると、余計なことを考えてしまう。
内にくすぶる不安に気を取られないよう、スレンはゾルグと雑談をしながら、轍の跡が残る道を進んだ。
数分もしないうちに、雪を被ったモミの木越しに、黒いトンガリ屋根の鐘楼が見えた。
木造の小さな教会に面した道には、巡礼者のためのベンチが置いてある。
ベンチは手入れがされておらず、土台が腐っているのだが、スレンの探し人は、そんな座るのを躊躇うような風貌のベンチでいつもまったりとくつろいでいる。
「――リリウス、王都の導師が処刑されたって話聞いたか?」
「どこの新聞も、その話題ばっかだから知ってるよ」
「じゃあ導師が処刑されたあと、王都の教会の冬聖女がどうなったか知っているか?」
「……ん? 解放軍が回収したんじゃないの?」
「いや、絵を燃やしたらしい。他の聖人画も無事かどうか……」
「罰当たりなことするなぁ……」
風に乗って、世間話が聞こえてきた。
導師リリウスは、よほどの悪天候に見舞われない限り、ボロボロのベンチで郵便配達員のレイモンドと一緒に、タバコ休憩という名のサボタージュを楽しんでいる。
いつもと変わらない昼下がりの光景に、スレンの気も少し軽くなった。
行き倒れの死体を見つけたが、それだけのこと。あたり前の日々が壊れたわけではない。
「解放軍は、王政派が冬聖女に暗号を隠してるって騒いでるらしい。――で、王都以外の教会でも冬聖女を回収してまわってるんだとよ。……リリウス、スノーゼンの聖女様は大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫。うちの冬聖女さまは、歴史があるからね。伝来について"わかりやすく"説明したら、兵隊さんも分かってくれたよ」
「……説明って。……どうせ金払って見逃してもらったんだろ。面倒事を解決できる金があんなら、俺に分けてくれよ」
「金が欲しかったら、サボってないで真面目に働きなよ」
二人は気怠そうに雑談を交わしながら、紫煙を燻らせている。
風に乗って漂う甘苦い煙の匂いを感じ取った瞬間、スレンとゾルグは、半分口を開け、表情をこわばらせた。
散々嗅いだタバコの匂いだが、今でも匂いを感じた瞬間、体が異臭と察知し、固まってしまう。
「おっ、リリウスまた客だ。今日はモテモテだな」
スレンたちに先に気付いたのは、ボサボサのプラチナブロンドの髪に、無精髭がだらしない印象を与える配達員の男――レイモンドだった。
「スレン、ゾルグ、こんにちは」
レイモンドの隣で、手を振り、ゆるい気の抜けた声をかけてくるのがリリウス。
スノーゼンの教会を管理する導師様だ。
たなびくタバコの煙を、北風が散らす。
吹き付けた風が、リリウスの顔の右半分を隠すように伸びたグレーの髪をめくりあげた。
髪の隙間から覗く肌は痛々しい痕を残していた。
目から鼻にかけて皮膚がくすんだ赤に変色し、一部はケロイドになっている。
もう半分が穏やかな顔立ちをしている分、顔の右側の異常さが際立つ。
数え切れないほど見た火傷の痕なのに、胸がジクジクと痛むのは、スレンの過去の罪を映す鏡だから。
「今日もどんよりとした、いい冬空だね」
リリウスがふにゃりと柔らかく微笑む。
あくびがでそうなほど呑気な声が、過去の記憶に沈んでしまいそうなスレンの意識を、今に引っ張りあげる。
「おっさん達、また毒吸ってサボってんのか」
ゾルグが二人が口に咥えているタバコを見て、心底嫌そうに顔を歪めた。
「仕事しろよ、仕事」
五感を研ぎ澄まして猟をするオルダグ族は、タバコのような強い匂いを放つものを嫌う。
スレンもタバコの匂いは苦手だ。
特に二人が嗜むタバコは、独特の甘苦い香りがする。
例えるなら、風邪の日に飲む煎じ薬。いつまでも口の中に残る、独特の苦みとよく似た匂いがするのだ。
嫌がるゾルグをからかうのが楽しいのか、レイモンドが白い煙をスレンたちに向かって吐き出す。
「最低!」
スレンは鼻をつまみ、ゲラゲラと下品な声をあげて笑うレイモンドを睨むと、隣のリリウスも喉をくつくつと鳴らして笑い出す。
「二人揃って鼻つまんで……。ほんと、仲良しきょうだいみたいだね」
ゾルグがくぐもった声で「誰と誰がきょうだいだ!」と抗議の声をあげる。
ゾルグの声があまりにもおかしいので、またベンチでくつろぐ二人がゲラゲラと笑い出す。
(……昼間っから酒でも呑んでんのか)
スレンは腹の内で悪態をついた。
いつにも増して絡み方が鬱陶しい。得体のしれない死体を運んでいる焦りで、そう感じるだけかも知れないが。
(用があるのは、リリウスだけ。さっさとレイモンドのおっさんを追っ払わないと)
レイモンドは不真面目な人間だ。サーシャと違い、自分から面倒事に首を突っ込んだりはしない。きっと死体を見ても、何もなかったふりをしてくれる。
(けど、教会は解放軍に睨まれてるし……。リリウスは他の人間に知られたくないかもしれない)
腕を組み考え込んでいると、視線を感じた。
察知した微かな熱源を辿り、顔を向けると、リリウスの薄青の目と目が合う。
リリウスが目を細めて微笑む。スレンの焦りを見抜いているようだった。
「若者に怒られちゃったし、そろそろ真面目に仕事しますか」
「さすが導師さま。真面目だな」
タバコの火を消すリリウスを見て、レイモンドは煙と一緒に冷やかすような言葉を吐き出す。
「いや、レイモンドのおっさんも仕事しろよ。……わたし、スノーゼンに来て三年ぐらい経つけど、おっさんが手紙運んでるとこ見たことないぞ」
タバコ休憩を切り上げようとするリリウスにスレンは乗っかる。
一切誇張していない事実をぶつけても、図太いレイモンドは、酔っ払いのようにヘラヘラと笑うだけで、気にする素振りも見せない。
「褒めんなよスレン、照れるだろ」
鈍感な配達員は、風で乱れた寝癖頭を押さえて照れくさそうに笑う。
おもわず舌打ちが漏れた。
「ほんと、レイモンドは前向きだね。羨ましいよ」
「導師さまにまで褒められるとは……。嬉しすぎてもう一本吸いたくなるな」
「おっさんもタバコ休憩は終わりだ!!」
匂いに耐えかねたゾルグが、レイモンドの手からタバコをひったくった。
まだ長いタバコが地面に落ちる。
回りくどいやりとりをするより、最初からタバコを取り上げるのが正解のようだ。
「……ゾルグくんはおじさんに厳しいな」
「オレはスレンと違って、あんたらに恩はないからな。ほら、さっさと仕事しろ! しごと!」
「あーもう、うるさいガキだな。喚く男はモテないぞ」
「サボり魔の大人に言われたくない!」
ゾルグがレイモンドの手を引っ張り、ベンチから立たせたことによって、タバコ休憩は強制的に終わった。
「……リリウス。まだまだサボりたいが、潮時だ」
レイモンドは目を伏せ、物憂げな表情でリリウスを見る。
無駄に長い睫毛が、顔に陰を落とす。憂鬱な顔がサマになっているのが腹立たしい。
「かっこつけてもだめだよ」
「お前もさっきまで仲間だったのに、裏切り者め……!」
レイモンドの恨みがましげな目が向けられるが、その場にいる誰一人、サボり魔の配達員に味方する者はいなかった。
何を言っても、仕事に行けと言われると悟ったのか、レイモンドは肩を落とし、とぼとぼと歩き出す。
雪の重みで傾いた木の柵に、便箋マークが刺繍された配達カバンがかかっている。
カバンは随分放置されていたようで、うっすらと雪が積もっていた。
中の手紙が水気を吸って台無しになっていないか心配になるが、レイモンドはまったく気に留めていないようだった。
カバンを肩にかけると、レイモンドは、引き留めてもらいたそうにスレンたちを横目で見てくる。
もちろん誰も相手にしない。ため息をつく音がした。
そのまま仕事に戻るのかと思ったが、すぐにリリウスを振り返り、口を開く。
「あ、そうそう。リリウス」
「おっさん、しゃべってないで仕事行け」
ゾルグが間髪入れずに突っ込むと、レイモンドが「業務報告だ」と不機嫌そうに反論する。
サボり魔の口から、業務なんて言葉が出てくると思わなかった。
スレンとゾルグは揃って訝しげな視線を向ける。
「……お前ら失礼だな。まぁいいや。隣村の教会の鐘が壊れたらしいぞ。ここの教会も年季が入ってるからな。念のため、点検しといた方がいい」
鐘が鳴らないと時間が分からなくて困るからなと、レイモンドはぼやく。
「ありがとう。明日にでも見てみるよ。――じゃあレイモンド、しっかり働くんだよ」
レイモンドは嫌そうな顔をしながらも、それ以上長居しようとはせず、大人しく村の方へ去っていった。
ようやく本題にはいれる。
スレンが周りに人がいないことを確認していると、先にリリウスが口を開いた。
「さて、サボり魔もいなくなったし、用件を聞きましょうか」
リリウスは薄い青の瞳を細めて、柔らかく微笑んだ。
1章序盤、最後までお読みいただきありがとうございました。
次話から、いよいよ“死体の埋葬”が始まります。
怪しい死体は、ただの行き倒れなのか――
※次回更新は6/2の20時頃を予定しています。