恐れと願い|冬将軍はすぐそばに
人は信じたいものを信じてしまう。
年端もいかない子供が、赤ん坊を抱いた母親が武器を持っているわけがない。かつてドラゴラードにいた王国軍はそう思い込み、初動を誤った。
(……わたしも同じなんじゃないか)
リリウスとレイモンドは、行き倒れたスレンを救ってくれた恩人。スレンが国境戦争を経験したと知っても、普通の子供のように接してくれた。
そんな“いい人”が、帝国兵をアリノールに呼び込もうと画策する王政派なわけがない。そう思い込み、事実から目を逸らしているのではないか。
「……わたしだって二人は無関係だと思いたい」
信じようとすればするほと、冷めた心の声が大きくなる。
ゾルグの「だったら!」という言葉に、スレンは首を振った。
「……信じたい、だけじゃダメなんだ」
リリウスとレイモンドは王政派ではないと信じたい気持ちはある。しかし、完全に無関係と言い切れる証拠はどこにもない。
山狩の道中、ネルが話してくれた『迷いが、仲間を危険に晒すこともある』という言葉が頭の中から離れない。
ネルは後ろめたさに囚われ、判断を誤った。その結果、友人を危険に晒し、癒えない傷を負わせた。
スレンも、かつてのネルと同じ過ちを犯すのではないか。そう思うと、怖くてゾルグから手を離せなかった。
「二人が、もし、王政派だったら……」
スレンは深呼吸をしたあと、震える声で絞り出す。言葉を紡ぐたび、喉の奥に針が刺さっているかのような痛みが走る。
「……わたしたちは今、解放軍寄りだってことをあの二人は知っている。……もし、あいつらがネズミなら……」
襲われる可能性もある、と口にする前に、ゾルグの大きなため息が、スレンの覇気のない声を遮った。
「あのさぁ……さっきも言っただろう? あいつらが王政派なわけないって」
向こう見ずなゾルグらしい返し。真っすぐで羨ましいが、危うい考えに頭に血が昇った。
「何かあってからじゃ遅いんだ!」
声を抑え、苛立ちをぶつけると、ゾルグは眉を下げた。
「心配症なとこ、ほんと母ちゃんそっくりだな……」
スレンの焦りと不安は伝わっているのだろう。ゾルグは、いつもの決まり文句を優しい声で吐く。
「心配すんなって。本当にやばいって時は、ちゃんと逃げる。で、総督さんに話す」
「けど!」
ゾルグはスレンの肩を叩き、朗らかに笑った。迷いのない表情に、何も返せなくなる。
ネフリト山からの風が騒ぎ出す。迷っている時間はないと責め立てられても、決心が固まらない。
「スレン、落ち着いて考えてみろ。二人がネズミでも、そうでなくても解放軍の調査対象になる」
ただの感情論じゃないと言わんばかりにゾルグは話し出す。スレンは目を瞬かせた。
「おまえも、捕まったネズミがどんな目にあったか聞いてるだろ」
うなずくと、噛んだ唇から血が滲んだ。
ゾルグが言いたいことはわかる。
リリウスとレイモンドが王政派とつながっていても、無関係であっても、王政派の間で流行っている不味いタバコを愛用している以上、解放軍の調査対象だ。
王政派らしき人間は全員捕らえ、必要に応じて聴取をする。それが解放軍の方針とネルは言っていた。
ただの聞き取りで済めばいい。
食事中、ヴァーツラフが口にしていた拷問の話が頭から離れない。
(リリウスたちを取調室送りにしたくはない。……けど、二人が王政派のネズミだったら?)
二人は、ゾルグが解放軍とつながっていることを知っている。
解放軍と与するスレンたちは、彼らの敵だ。
話したところで、解放軍が仕組んだ罠だと信じてもらえない可能性もある。
(……信じてもらえないだけならまだいい)
最悪、二人がゾルグを解放軍の間者と思い、危害を加えてくるかもしれない。
特にリリウスは“国境戦争”で“オルダグ”がどんな手を使って戦ったか知っている。過去にオルダグに焼かれた経験もある。
敵と分かれば、きっと容赦しないだろう。
「わたしが行く」
スレンが二人を説得すべきだ。二人に銃口を向けられたらその時はその時だ。
(……二人に救われた命だし)
二人に殺されることになってもいい。
「ダメだ」
ゾルグが即座に却下する。
「なんでだよ!」
納得できず、スレンはゾルグに詰め寄った。
「わたしのほうがうまくやれる!」
「うまくやれる? ……二人がネズミだったら、どうする気なんだ?」
「……それは――」
続きの言葉を言おうとした瞬間、手が大きく震え、視界が滲んだ。
胃がムカつき、空気を吸うだけで食べたものを戻しそうになる。
スレンは口を手で押さえた。くぐもった嗚咽が漏れる。
なぜだかわからないが、身体が思うように動かない。
「……そんなふらふらな状態で、冬将軍が来る山を下りれると思ってんのか?」
「……けど……!」
「ガキみたいにグズグズ泣いてるやつを行かせられるわけないだろ! スノーゼンに着く前に目が凍るわ!」
ゾルグに指摘され、スレンは頬に指を這わせた。
いつの間にか、視界は滲みゾルグの顔も輪郭しか捉えられない。
瞬きをしても、袖で拭っても涙が滲む。鏡がなくてよかった。情けない顔を見たら、さらに惨めな気持ちになって涙が止まらなくなっていただろう。
「不安なのはわかる。……頼りないかもしれない。けど今はオレに任せてほしい」
ゾルグが袖を掴むスレンの手を握ってくる。
「二人がネズミだったら、オレたちの敵だ。……おまえ、さっきそう言ったよな」
温かな手の体温が、冷えきった身体にじんわりと沁みわたる。
「もしネズミだったとしても、おっさんたちは“オレたち”の敵じゃない」
ゾルグの言葉の意味がわからず、スレンは小首をかしげた。
「ネズミは総督さんの――解放軍の敵だけど、オルダグのスレンとゾルグの敵じゃない。そうだろ?」
「……屁理屈だ」
鼻を啜りながら言うと、ゾルグはにかりと笑う。
「屁理屈じゃない。事実だ。――二人を安全なとこに逃がしたら、すぐに戻ってくる」
ぐずる子供をあやすようにゾルグは言う。
「だから、心配すんな」
なんの根拠もない言葉。なのに自信だけはたっぷりで。
スレンは顔をあげた。目の前が滲んでゾルグの顔ははっきり見えない。
「おまえが想像するような、悪いことは起きないって約束する。だから、オレを信じてくれないか?」
スレンは目を瞬かせた。涙の膜が剥がれると、ゾルグの真剣な眼差しが真っすぐ突き刺さる。
不安がないわけではない。
だがゾルグの言う通り、今のスレンでは、二人に会うことすら叶わないだろう。
(……リリウスも、レイモンドのおっさんも……わたしより、ゾルグの方が信用するだろうし……)
ドラゴラードで散々手を汚したスレンとは違い、ゾルグはまっすぐで、嘘もつけない子だ。二人もそれを知っている。
疑いの目を向けはしても、話も聞かずに手荒な真似をすることはない。ゾルグも隠し事一つせず、実情を打ち明けるだろう。
ゾルグが「スレン」と催促するように名前を呼ぶ。
唇から滲む血のせいで口の中が気持ち悪い。
血の味がする唾を飲み込むと、再びじんわりとぬるい涙が滲む。
信じなければ、物事は悪いほうに進むだけ。なら確証がなくても、信じるしかない。
「……絶対、無茶はすんなよ」
スレンは、声を震わせながら言うと、ゾルグの袖から手を離した。
すぐに「おう!」と、明るい声が返ってくる。
「天気が荒れる前にサクッと行ってくる」
スレンはうなずいた。
任せると決めたのだ。いつまでも泣いているわけにはいかない。
ゾルグを心配させないよう、せめて笑って送り出そうと、乱暴に手で涙をぬぐった。
「スレン、つらいなら帰って休めよ。……総督さんに話しづらいなら、オレが言っといてやるから……」
「……大丈夫」
口角を上げ、自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「総督さんのとこに戻る。情報を集めたいし……」
「そっか。あんま無理すんなよ」
ゾルグは歯を見せて明るく笑う。深刻さのない、軽い言い方が今はありがたかった。
「じゃ行ってくる!」
スレンの肩を叩き、ゾルグは走り出した。
あっと言う間に背中が宵闇の中に溶けていく。
ネフリト山から猛烈な風が吹き降りてくる。
風が鳴き出せば、天気が荒れる合図。スノーゼン付近では『冬将軍の大号令』と呼ばれている気象現象だ。
風が、甲高い悲鳴をあげて走り去っていく。
嵐の前触れのような風の音に胸がざわつくが、いつまでもじっとはしていられない。
スレンも立ち上がると、できるだけ具合の悪そうな顔をして、ネルの天幕へと戻っていった。
2章完結です。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
リリウスとレイモンドは王政派?
かつての“王の時代”を取り戻すため、戦火を招こうとしている?
二人を信じたいスレンですが、真実は未だ、霧の中――。
それでも彼女は、決断のときに向き合わねばなりません。
誰を信じるのか。
何のために、そして、何を守るために、動くのか。
次の章では決断を迫られそうです。
リアクション等いただけますと、大変励みになります!
3章も引き続き、お付き合いいただけますと幸いです。




