串焼きと囁き|煙は少女を抱きとめる
タバコの吸殻がネズミの口を割るきっかけにつながったと、ネルは嬉しそうに言う。
吸殻を見つけたのはスレンではない。ゾルグだ。
朝、不貞腐れて余計なことを言い、顰蹙を買った同胞の顔がよぎった。
「タバコの匂いに気付いたのはゾルグだ。褒美は全部あいつにやってくれ」
解放軍のお偉いさんに認められれば、箱入りの同胞も少しは自信がつくだろう。
「暗い顔しているね。……もしかして、まだゾルグ君と仲直りしてないのかい?」
ネルが目を細める。
胸の中を漂うモヤを見透かしたような目で見られるのが嫌で、スレンは顔をそらした。
暗い顔をしているつもりはない。
仮にそう見えたとしても、原因は朝、無神経なことを言ったゾルグではない。間違いなくリリウスだ。
「心配しなくても、ゾルグ君には一番に報告したよ。ヴァーツラフ君が国境基地から情報を持ってきてくれたとき、里長と一緒だったからね。彼、俺もやるときはやるんだ! と喜んでいたよ」
その場にいなくても、ゾルグの喜びようは簡単に想像でき、自然と乾いた笑い声が漏れた。
「冷えてきたな」
そう、ぼやいたあと、ネルは黒い外套の前を閉じた。
「スレン、よければネズミの話は私の天幕でしないかい? 彼女たちも夕飯の準備をしたくてウズウズしているようだからね」
炊事場に出入りしている女に、ネルが再び手を振る。
女はネルに気付くと、手に持っていた鍋を竈の上に置き、目立とうとつま先立ちになって両手を大きく振る。
「すぐにご飯運びますねー!」
「ありがとうシレナさん! 三人分支度してもらえると助かるよ!」
ネルに名前を呼ばれ、女の顔がみるみる薔薇色に染まっていく。
「喜んで!!」という感極まった声が、宵闇に響いた。
(……人妻にも躊躇ないな……)
里の女の視線を独り占めするネルを、オルダグの男たちは面白くなさそうに見ている。
不満を口にしないのは、ネルとまともに張り合っても勝てないとわかっているから。
「スレン、行こうか」
ネルが爽やかに微笑む。乗り気ではないが、断りにくい。
答えを渋っていると、ネルはにんまりと笑い、スレンの耳に顔を近づけた。
「……ここだけの話、今日はヴァーツラフ君がいるから串焼きもつけてくれるそうだ」
串焼きという言葉に心が揺らぐ。
現物はないのに、鼻腔の中に、炭火で焼かれた香ばしい匂いが入ってくる。
悪魔のささやきだ。
乗ってはいけないと分かっているが、疲れた体では、焼けた肉の誘惑に抗えない。
「……串焼き。皮付きだと最高ですね……」
ひそひそ話は、ヴァーツラフにも聞こえていたようだ。
いつもの厳しい顔はなく、ゆるんだ表情で喉を鳴らしている。
「腹が減っては頭も働かない。まずは食事にしよう」
ネルは闊達に笑うと、スレンとヴァーツラフの背を押した。
雪鴨に釣られたわけではない。
ネルの言う通り、腹が減っていては集中力が落ちるからだ。
ただでさえクタクタなのだ。効率的に話を聞くには、食事が不可欠と自身に言い訳をしながら、スレンはネルの天幕へと足を進めた。
*
夕飯は、雪鴨のシチューと串焼き。
中でも、お目当ての串焼きは最高だった。
炭火でこんがりあぶった肉は香ばしく、噛めば噛むほど鴨の甘い脂が溢れ出てくる。
食事中、国境基地に収容されている王政派の末路さえ聞かなければ、幸せな気分に浸れただろう。
天はなぜ、幸せと不幸を一緒に運んでくるのか。
恨めしく思いながら、スレンは椀の底に残ったシチューを啜り、口の渇きを潤した。
冷めたせいで、肉の油が固まり口に残るが、野菜と肉の甘みがぎゅっと詰まっていた。
「ゾルグ君がタバコを見つけなければ『飴と鞭作戦』は成功しなかったね」
ネルが満面の笑みを浮かべる。ヴァーツラフも頬を綻ばせてうなずいた。
「まったくです。ネズミにタバコを渡せと言われたときは半信半疑でしたが、まさかあんなに効果が出るとは……」
高らかに笑う軍人に挟まれ、スレンは縮こまっていた。
なぜかネルとヴァーツラフの間の椅子に座ることになり、身動きがとれない。
生々しい拷問話のせいか、胃がむかむかする。
ネルとヴァーツラフは酒も飲んでいないのに、赤い顔で声高に話を続けていた。こちらの顔色が青くなろうが、全く気にする様子はなかった。
リリウスから教会の宝物を受け取り、国境基地に戻ったあと、ヴァーツラフは捕らえた王政派の尋問に取りかかったそうだ。
尋問――と言っていたが、話の内容を聞く限り拷問だ。それも、食事の場では口に出来ないような凄惨な方法の。
「貴族や富豪であれば手こずらないのですが、今回捕らえた相手はしぶとくて。――おそらく、元王国軍の人間でしょう。手を焼いていたので助かりましたよ」
「そうか。……あのタバコは、よほどうまかったようだね」
「えぇ。ただの安タバコなのに、ボロボロと情報を吐き出したときは驚きましたよ。最新の自白剤かなにか入っているのではないかと……」
「……ちょっと待て、タバコ渡しただけ?」
話が読めず、スレンは会話に割ってはいった。
「そんなんで、口割らなかったやつが話すもんなのか」
疑問を口にした瞬間、タバコに魅入られた大人の顔が浮かんだ。
スレンはすぐに頭を振り、しまりのない顔をする二人の姿を払い去った。今、彼らはなんの参考にもならない。
「ゾルグ君が見つけたタバコ。――あれは、王政派連中の間で流行っているものでね。……いつまでも亡霊に縋るネズミ共にお似合いの安タバコだよ」
ネズミが口を割った瞬間を思い浮かべているのだろうか。
机の上のランタンに照らされたネルの笑みは、かつてスレンがドラゴラードで見た兵士たちと同じだった。
――訓練で使う人形を壊して笑う、人を物としか見れなくなった兵士。なにをどうすれば壊れるか知っていて、徹底的に相手を痛めつける嗜虐的な顔。
天幕の中にはストーブがあり、一度入れば外に出られなくなるほど暖かい。それなのに、嫌な寒気が背にまとわりついてくる。
スレンは手を握りしめた。唇を引き結び、なんともないふりをする。
余計な口を挟まずにやり過ごしたいが、ネルと目が合ってしまう。
「……あんな吸い殻からよく調べられたな」
当たり障りのない言葉で場を濁すと「そうなんだよ」とネルが前のめりになり、嬉しそうにうなずいた。深い藍色の目がぎらりと輝く。
「私も大した収穫はないと思っていたが、愛煙家も吸わない、癖のある安タバコと報告があがってきて、ピンときたんだ」
「……まさか連中が『天使の囁き』なんて、わかりやすいものを持っているとは」
ヴァーツラフが鼻で小馬鹿にするように笑った。
「天使の囁き?」
「安いだけが取り柄のタバコだ。匂いが独特で、とにかく不味い。不人気すぎてアリノールではもう出回っていない。わざわざ好んで吸うやつは、帝国の貧乏人か、鼻がいかれてる変り者ぐらいだ」
そう淡々と言い放つと、ヴァーツラフは胸ポケットからタバコを取り出し、火を付けた。
鼻がいかれてると酷評するだけあって、立ち昇る煙は独特の匂いがした。
おそらく、価格を抑えるため、正規のタバコでは使わないような葉を詰めているのだろう。
(……けど、この匂い……)
確かめたいことがあり、煙に顔を近づける。
勢い余って大量に吸い込んでしまい、スレンは手で顔を覆った。
最初に苦い香りがして、あとから薬草の嫌な甘さがする香り。
例えるなら、熱が出た日に飲む薬湯。いつまでも舌に残る、ただただ不快な甘苦さ。
「ほんと……ひどい匂いだ。ヴァーツラフ君、はやく消したまえ」
ネルが手を振って、漂う煙を払う。
ヴァーツラフは慌てて、タバコを机に押し付けた。
「……ちょっと外の空気、吸ってくる」
スレンは顔を手で押さえ、ヴァーツラフの前を通り過ぎると、天幕の外に飛び出した。
外に出た瞬間、スレンは顔を覆っていた手を離し、大きく息を吐き出す。
大した距離ではないのに、坂道を全力で駆け上がったかのように心臓が早鐘を打つ。
うるさい左胸を黙らせようと、スレンは服を掴んだ。
(……あの匂い)
誰にも顔を見られないよう、うつむく。
耳にかけていた髪がサラリと垂れる。髪にあのタバコの煙の匂いが染み付いているようで、さらに気分が悪くなる。
あのタバコ独特の――重くて、甘苦い匂いをスレンは知っている。
あれは、昼下がり、教会から漂う煙の匂いと同じだ。
頭の中に浮かぶのは、だらしない顔で煙をふかす二人の大人。スレンはすぐに首を振って頭に浮かぶ記憶を振り払う。
(……ありえない。いや、あるはずがない!)
片方はサボリ魔の配達員、片方は年金暮らしの聖職者。金が無いから、仕方なく安タバコを吸っているだけにきまっている。
ただのタバコ。嗜好品だ。深い意味なんてない。
(……落ち着け。前にリリウスが言ってただろ、思い込みが激しいのがわたしの悪いところだって……)
それらしい情報を聞き、身近な人物と結びつけてしまっただけ。
二人はたまたま王政派と同じ安タバコを吸っている。ただ、それだけのこと。
不安に思うことはなにもない。
(……なのに……なんで)
心臓の鼓動は、どんどん早くなるのか。なんでこんなに息苦しいのか。
「スレン」
うるさい心臓を黙らせようと胸を押さえて、うつむいていると、誰かに呼ばれた。
ネルかヴァーツラフが様子を見に来たのか。寒いはずなのに、全身から汗が吹き出した。
(……落ち着け。……落ち着け)
胸を押さえ、呪文のように何度も唱える。だが、裏目に出てしまいどんどん息は詰まるし、視界は狭まる。
いっそ倒れてしまった方が楽なのではと思った時、肩になにか温かいものが触れた。
「スレン」
二度目の呼びかけははっきりと聞こえた。
まばたきをして顔を上げると、真っすぐなスミレ色の目と目が合った。
ゾルグ――と名前を呼ぼうした瞬間、ゾルグは口に指をあて、静かにするように言う。
「……あの天幕の裏まで歩けそうか?」
こわごわとうなずくと、ゾルグはスレンの手をとった。
「よし、じゃあ行くぞ。……なるべく人に見られないように、こそっと、な」




