微笑と敵意|紳士はネズミの尻尾を掴む
「元々地方は住民情報の管理がずさんでね。……加えて、地方領主が我々への嫌がらせで資料を焼いたり、改ざんしたりして、あまりアテにならないのだよ」
ネルが苦い顔でこぼした。
きっと、ヴァーツラフを庇っているのだろう。
当の少尉は弁明することなく、肩をすぼめ、巨体を縮こまらせている。
「なるほど。お貴族様ならやりそうだ」
そう返した時だった。「総督さんだ」と色めきたった声が、炊事場から聞こえてくる。
ネルの声を聞きつけたのだろう。里の女たちが、ぞろぞろと集まり、手を振っている。
(……随分おモテになることで……)
愛想よく微笑み、女たちに手を振り返すネルを、スレンはじとりと横目で見つめた。
「話は途中から聞いていたよ、ヴァーツラフ君。君が報告してくれた、導師――リリウス・システィの娘は彼女だったんだね」
ネルが苦笑する。ヴァーツラフは勢いよく頭を下げた。
頭を下げるだけで斧を振り下ろしたときのような風切り音がした。
機敏な動きにスレンが目を見張っていると、ネルが口元を手で押さえた。肩が小刻みに震えている。
(……少尉をからかって遊んでるな)
リリウスが『あいつも悪い大人』と言っていたのを思い出す。
スレンは、小さくなったまま頭を下げ続けているヴァーツラフに、憐れみの視線を送った。
「……総督さん、リリウスと知り合いなんだろう? 少尉殿の報告が間違ってるって、すぐ分かったんじゃないのか?」
見ていられないので助け船を出すと、ネルは驚いたように目を瞬かせた。
「それは……導師リリウスから聞いたのかい?」
「あぁ。国境戦争の戦友だって言ってた」
ネルは「そうか」とつぶやいたあと、目を伏せた。
思うことがあるのか、綺麗に整った顎髭に手をあて遠くを見ている。
(……もしかして、余計なこと言ったか?)
一瞬、不安になったが、ネルからヒリヒリとした嫌な感じはしない。
「スノーゼンの導師は、私の知るリリウスのようだね」
目を閉じ感情を隠そうとしているようだが、口元が微かにほころんでいる。
ネルの話を聞き、うんざりしたリリウスとは真逆の反応。
リリウスの様子から二人の仲はあまり良くないと思い込んでいたが、違うようだ。
「悪いね、ヴァーツラフ君。君の言う導師リリウスが、私の知るリリウスかどうか確証がなかったんだ」
ヴァーツラフに頭を上げるよう手で指示を出しながら、ネルは言う。
ヴァーツラフは勢いよく体を起こした。
背中の上に石を置いておけば、投石器代わりになりそうな、勢いのある動きだった。
「最近、君が故郷で捕まえた導師の名前も、リリウスだっただろ? このあたりはリリウスという名前の導師が多いからね」
(……たしかにそうだな)
スレンは渋い顔をした。
リリウスという名前は、聖智恩教会の信徒によくつけられる名前で、特段珍しいものではない。
スレンが知る限り、スノーゼンにはリリウスという名の人物は四人いる。
昔、村の中でリリウスとはぐれたときに名前を呼んだら、見知らぬリリウスが、集まってきたことがあった。
(……あのときは意味がわからなくて泣きそうになったな……)
「スレン?」
ネルに名前を呼ばれ、スレンは頭を振り、過去の苦い記憶を遠くへ追いやった。
「いや、導師を捕まえたって言ったよな。それが気になって」
ネルがさらりと流した、隣村の導師“リリウス”を捕まえたという話が引っかかっていた。
サーシャも同じ話をしていた。解放軍に捕まった隣村の導師が帰ってこないという話。
「ヴァーツラフ君が捕まえたのはネズミだ。心配する必要はないよ」
ネルは朗らかに微笑んで言った。
(ネズミ……か)
さすがになぜ隣村の導師を“ネズミ”と判断したのかまでは話してくれなかった。
隣村の導師に“王政派”とのつながりがあったのなら心配ない。
だが、上が教会全体をクロだと決めつけて動いているなら他人事ではない。
スレンは、謝罪の言葉を繰り返しているヴァーツラフと、それを笑って受け入れるネルをみつめる。
生真面目そうなヴァーツラフと、オルダグにも分け隔てなく接するネル。彼らは忠実な人間だ。
だからこそ、信じていいかわからないのだ。
組織が腐っていれば、人も狂う。
特に“軍人”は上が誤っているなんて、考えたりしない。粛々と上が掲げる大義のために動く。
(正しくは、難しいことをごちゃごちゃ考える余裕がないだけだけど……)
国境戦争中、常に肩に力を入れていた頃を思い出してしまった。
(やめよ。……疲れてるときにあれこれ考えても仕方ない)
スレンは重いまぶたを閉じ、息を吐いた。
考えても気力を削るだけだ。
それに、ヴァーツラフが教会に来た日、リリウスは自分は賢いし、解放軍が来てもうまくやると豪語していた。
スレンがあれこれ心配しなくても、きっとうまくやり過ごすだろう。
「スレン、里を出る前にした話だが、考えてくれたかね」
リリウスのことよりも考えたくない話題を、ネルがにこやかに切り出してきた。
「里を出る前にした話……? スノーゼンに変なやつがいないかって話か?」
ネルが即座に首を振る。とぼけてみたがダメだった。
「それも聞きたいが、解放軍に入らないかという方だね」
朝、ネルの誘いに『考えさせてほしい』と返し、里を出た。
戻る前に答えを出すつもりだったが、里を出たときよりも、自身の気持ちが分からなくなっていた。
帝国兵をアリノールに呼び込もうと画策する王政派を捕まえ、スノーゼンを守りたい気持ちは変わらない。
踏ん切りがつかないのは、リリウスの『きみがきみであることは変わらない』という一言のせいだ。
何をしてもスレンはスレン。人殺しであることに変わりはない。そう、リリウスに言われたような気がした。
人殺しが解放軍に入ったところで何が変わるのか。王国軍の次は王政派を殺して回るのか。そう責められているようで。思い出すと、息が詰まった。
「まだ……悩んでいて」
スレンは言葉を濁した。
正しくは、リリウスの言葉が怖くて、決断できなかったが理由だが、わざわざネルに言う必要もない。
煮え切らない答えに愛想をつかされるかと思ったが、ネルは穏やかに微笑み、うなずくだけだった。
「わかった。……もし、なにか不安なことがあれば、遠慮せず我々に相談してくれ」
じっとこちらを見る藍の瞳は、スレンの迷いを見抜いているようで。スレンは目をそらし、曖昧に笑ってうなずいた。
会釈し、今度こそ立ち去ろうとしたが、再び引き留められてしまった。
「何度もすまないね。……スレン、君に伝えたいことがあるんだ」
はやく休みたいのに。辟易とした思いが顔に出ないよう、スレンは顔に力を込めた。
「君とゾルグが見つけてくれたタバコの吸殻。あれのおかげで、捕まえたネズミが、仲間の情報を吐いた」
よほど嬉しい報せなのだろう。
ネルが賭けに勝ち、大金を手にしたときのように破顔した。
そこには、女たちを骨抜きにした紳士然とした表情はない。
獲物を前に舌なめずりをしている獣のような獰猛な顔付きだった。




