【2-5】誤報と疑念|再会は心を惑わせる
あの後、逃げるように山里に戻った。
いつの間にか、いつも襟足で丸くまとめている髪が、半分ほどけている。
前に進むことに夢中だったからか、それとも無意識のうちに髪を掻き乱したからかわからない。
風が吹くたび、横顔が顔をくすぐり気持ち悪いが、髪を結うのも億劫だった。
心も体も重い。考えるのをやめ、今すぐ寝台に飛び込みたい気分だった。
村に配達に行くついでに、変わったことがないか見て来て欲しいとネルに頼まれていた。報告に行かなければならない。
(報告っても、変わったことなんてなかったしな……)
乱れた黒髪を耳にかけながら、ぼんやりと村の様子を思い出す。
スノーゼンの村は平和そのものだった。
右も左も見知った顔ばかり。
ネフリト山から逃げた王政派の話も聞こえてこないし、帝国兵が攻めてくるかもしれない、という噂が広まっている様子もなかった。
解放軍に急いで報告するような収穫はない。
まっすぐ天幕に戻って寝ても、叱られはしないだろう。
体に鞭を打ち、背を丸めて自身の天幕へだらだら向かう。
今日も、解放軍の天幕前に長蛇の列ができている。列の先頭には、軍帽を目深にかぶった生真面目な軍人がいた。
(……あれ、たしか、前に教会に来た少尉殿だよな)
リリウスが、教会の宝物を解放軍に引き渡す際にいた軍人。
確か、ヴァーツラフという名前だったと記憶している。
少尉の方もスレンに気が付いたようだった。
手にしていた書類を隣の兵士に押し付けると、無表情のままドスドスと大股でスレンの方へやってくる。
(……なんでこっち来んだよ)
心の中で悪態をつきながらも、スレンは口角を吊り上げ、近づいてくるヴァーツラフを見上げた。
一言で言えば壁のような男だった。背が高く、体格もどっしりしていて、目の前に立たれると圧迫感がすごい。
「ど、どうも」
愛想笑いを浮かべ、スレンはいかめしい顔つきで自身を見下ろす少尉に会釈した。
少尉は眉一つ動かさない。ただまじまじとスレンを見てくるだけ。
ヴァーツラフは国境戦争帰りで、オルダグを嫌っている。
オルダグのせいで子供が苦手になり、自身の娘の泣き声さえも恐ろしくてたまらないという悩みを、リリウスに吐露していた。
ヴァーツラフの抱える傷を知っているので、彼が不機嫌なのは気にしていない。
ただ、無言で、穴が空くほど見られては落ち着かない。
寝ぼけた熊と鉢合わせたような、妙な緊張感が漂う。
「君は、こないだ教会にいたオルダグの子、だよな?」
長い沈黙のあと、ヴァーツラフはようやく言葉を発した。
スレンがこわごわとうなずくと、険しい顔のまままた黙り込む。
(……レイモンドのおっさんも言ってたけど普通、戦争帰りのやつは、少尉殿みたいな目で見てくるんだよな)
ヴァーツラフを見ると、憎いオルダグの前でも穏やかに微笑むネルの異常さが際立つ。
「あの……何か?」
用がないならさっさと立ち去りたい。探りをいれると、ヴァーツラフは目を瞬かせた。
何か考えにふけっていたのだろう。我に返ったように、慌てて口を開く。
「すまない。ひとつ確認をさせて欲しい。……その、君は教会の子じゃないのか?」
ヴァーツラフがこわごわと尋ねてくる。
質問の意図がわからない。
変なことを言って怪しまれたくないので、スレンは素直に首を振って否定した。
「……では、なぜあの日あんな朝早くに教会にいたんだ?」
「今の時期は日没後天気が荒れるので、帰るのが遅くなるときは教会の部屋を貸してもらうんです。少尉と会った前日、用があって帰るのが遅くなって……」
雪原で見つけた死体を埋めていたせいで遅くなったことは隠し、淡々と事実を述べる。
ヴァーツラフは「なるほど」と呟いたあと、皺の寄った眉間に、太い指を押し当てた。何か大きな失態でもやらかしたような悲痛な面持ち。
「なにかあったんです?」
目に見えて落ち込むヴァーツラフを無視できない。少尉は肩を落とし、大きく息をついた。
「いや、……総督からスノーゼンの教会について調べるように言われていて。……その、間違った情報を伝えてしまったようだ」
俯くと、影で目の下の隈がさらに濃くなる。
疲労感に満ちた顔に貼り付いているのは、すべて失ったといわんばかりの悲壮な表情。
軍属の人間として、上官に誤った情報を渡すことなど、絶対あってはならないのだろう。
(……ま、戦場じゃ間違った情報が命取りになることもあるしな)
国境戦争で、嘘の敵襲情報を流して同士討ちをさせたり、住民を混乱に陥れ、王国軍の動きを封じる作戦に関わった事があるので、ヴァーツラフが苦い顔をするのも分かる。
不安を煽れば、人は簡単に理性を失う。
情報の伝わり方ひとつで、取り返しのつかないことになる怖さをスレンも持って知っている。
「ちなみにその間違った情報って?」
「スノーゼンの教会の導師、リリウス・システィには娘がいると……」
ヴァーツラフはスレンの胡乱げな眼差しから逃げるように、大きな手のひらで顔を覆った。
「……いや、歳とか、見た目とか、どうみても親子に見えないだろ! あと、役所に行けば住民帳もあるだろ!?」
焦る気持ちが分かると、一瞬でもヴァーツラフに同情したことを後悔した。
スレンの指摘を聞いたヴァーツラフは、顔を隠したまま、叱られて耳を折り畳む犬のようにうつむく。
「ヴァーツラフ君をいじめるのは、その辺にしてやってくれないか?」
笑いを噛み殺した声を聞き、ヴァーツラフが息を呑む。
そのまま背筋を伸ばし、声が聞こえた宵闇に向かって敬礼をした。
冷えた空気が、さらにきんと張り詰めたような気がした。
ネフリト山から来た“冬将軍”が山頂の冷気を運んできたのだろうか。それとも雪片が舞う中、宵闇の中から音もなく現れたネルが纏う空気のせいだろうか。
無意識のうちに肩に力が入る。疲れ切っていても、本能はきちんと働くようだ。
「おかえり、スレン」
聞こえてきた声は、ささくれた心に沁みる、あまりにも優しい声色。
スレンはスミレ色の目を瞬かせ、労いの言葉をかけてくるネルを見つめた。




