選択と餞別|赦しはすれ違う
「前にあんたも言ってただろう? 王政派の人間がアリノールに帝国兵を呼ぼうとしてるって」
起きるかもしれない最悪の未来を口にすると、声が大きく震えた。
スレンは小さく息を吸う。痛いほど冷え切った空気が肺を冷やす。
「……スノーゼンが戦場――次のドラゴラードになるかもしれない」
一拍間を置いて、スレンは絞り出した。
目の前のリリウスは困ったように眉を下げ、スレンを見下ろしていた。
夜のネフリト山には、人喰い狼がいるという作り話を真に受け、泣く子供にどう接すればいいのかと、はかりかねているような顔。
「……だからって、きみが解放軍に入る理由にはならないでしょ? まだただの噂だし。ネルにいいように騙されてるだけだよ」
リリウスはそう子供を宥めるように言う。
噂話と一蹴するものの、語気にどこか圧があった。
解放軍に入ることは許さない。そう遠回しに言われているような気がして、顔が熱くなる。
「解放軍も実際に動いている。嘘じゃない」
返す言葉に力がこもる。
言い返してくると思わなかったのだろう。
リリウスが氷のような薄青の瞳を瞬かせている。
冗談でも、軽い気持ちで言ったわけではない。
迷って、考え抜いた上での決断だと、リリウスに伝えたかった。
「……もう、戦争は嫌なんだ」
口の中にひっついた舌をなんとか動かして、今の率直な気持ちを吐き出す。
「だから解放軍に入って、ネズミを捕まえる。……きな臭い連中がいなくなれば、この国も少しは平和になる」
「だからって――」
リリウスが険しい顔で口を動かす。
遮られる前に気持ちをぶつけなければ。スレンは息継ぎをする間もなく続けた。
「王政派がいなくなれば、評議会が教会を睨む理由もなくなる! 冬聖女さまを飾っても文句言われない! ……あんたも、安心して暮らせる」
「……なにそれ。……おれのため、ってこと?」
いつもの笑みが消えた。氷のような薄青の目が真っ直ぐ向けられる。
なぜ、そんな冷たい目をするのか。なんで、わかってくれないのか。
スレンはただスノーゼンでの日常を守りたいだけ。
なのに、どうしてリリウスは、分かってくれないのだろうか。
「……べつに、あんたのためだけじゃない」
たまらず、誤魔化すような言葉が漏れた。
突き放すような言い方になってしまい、あとに続く言葉が思いつかない。
この苦くて煮えたぎるような感情を、どう言葉にすればいいのだろうか。
ただ気持ちだけが喉にこみ上げてきて、息が詰まった。
悔しさなのか、悲しさなのか、分別ができない思いを外に出そうと、スレンは強く手を握りしめた。
「だとしても、君が軍人になっても、誰も喜ばないよ。……サーシャちゃんを心配させるの? レイモンドがどんな顔すると思う? ――それに、ゾルグは? 同胞にのうのうと守られたいと思うと?」
名前が上がった人たちの反応が容易に想像できる。的確にスレンの罪悪感を抉る言葉。けど、折れるわけにはいかない。
「……だとしても……」
顔を上げ、真っ直ぐリリウスを見つめる。
長い前髪に隠れた、赤く変色した肌が見える。
「みんな、嫌な顔をするかもしれない……。けど、わたしは世話になった皆を守りたいんだ。……ドラゴラードみたいなことが起きないようにしたいんだ。……それが、わたしにできる、罪滅ぼしだと思うから」
「……そう」
返ってきたのはその一言だけだった。
リリウスは手にしていたタバコを、傾いたベンチに押し当て火を消す。話は終わったと言わんばかりに。
ベンチが嫌な音を立てて軋む。
いつもは火を消すとすぐに地面に捨てるのに、今日は火が消えても、タバコをベンチに押しつけるのをやめない。
「……きみの気持ちはわかった。……けど、どうして、おれに教えてくれたの?」
どうしてと問われても、明確な理由が思いつかない。
(……別れを告げられず、戦地にいくことになるかもしれないから?)
解放軍に入れば、きっとスノーゼンにはいられない。リリウスと別れることになる。
だとしても、正式に解放軍に入ったあと、挨拶にくればいいだけだ。
今、わざわざ報告する必要はない。
「……これはおれの勝手な想像だけどさ」
リリウスは喉の奥で笑い、上目でスレンを見上げてくる。
氷のような瞳が、蔑むように細められる。
「まだ迷ってるんじゃない?」
からりとした声で問われ、スレンはたじろいだ。
「……迷ってる?」
「そう。だから背中を押して欲しくておれに話した。……違う?」
違うかときかれても、わからない。
答えを口にはできなかった。しかし、心臓が痛いほど跳ねる。
認めたくないが、リリウスの言う通りなのだろう。
胸を押さえ、うなずくこともできずに固まっていると、リリウスは唇の右端を吊り上げた。
いつもと同じ、感情を奥底に隠す嘘くさい笑み。本心を巧みに隠す笑顔の仮面。
ただ、笑みを浮かべる口元のすぐそばには、赤く変色した火傷痕がある。
嫌になるほど見慣れた傷なのに、怖くて直視できなかった。
「それがスレンのしたいことなら、おれは応援するよ。解放軍になろうが、王政派に鞍替えしようが、それがきみ自身の選択だっていうなら尊重する」
リリウスは目を三日月のように細めたまま、スレンの門出を祝福するように、ほがらかな声で言う。
「どんな選択をしても、きみがきみであることは変わらないしね」
明るい声なのに、熱を全く感じない。
冷たい風が吹き抜けた。
リリウスの顔の右側を隠す長い前髪の隙間から、赤く変色した肌が覗く。
ところどころ皮膚が引っ張られたように膨らんだ痛々しい火傷痕が、スレンの胸を抉った。
『きみがきみであることは変わらない』という言葉が響く。
何をしてもスレンはスレンであることに変わりはない。
これから先、善行を積んだとしても、スレンがドラゴラードでした行いは消えない。そう言われたように感じた。
「そんな不安そうな顔しなくても大丈夫。きみは、強い子だ。どこでもうまくやれるよ」
励ましの言葉。なのに、怖くてリリウスの顔を直視できなかった。
リリウスがスレンの動揺に気付いているか、いないか、声色から読み取れない。
「……そう言ってもらえて、うれしい」
スレンは俯き、消え入りそうな声でリリウスに返した。
それ以上なにも言えなかった。
唇を噛み締め、こみ上げてくるものを力付くて塞ぐ。
口を開けば、きっと情けない嗚咽が漏れてしまう。情けない顔を見られたくない。
俯いたままスレンは、荷ゾリのロープを握りしめる。手足の先の感覚が鈍い。
無言で立ち去れないので、かたちだけの会釈をして、一歩足を踏み出した。
固くなった雪を踏みしめ、歩いているうちに息が苦しくなった。
詰まっていた呼気を吐き出すと、白い息が漏れた。
泥で汚れた雪の上に、大粒の雫が落ちる。温かさでほのかに湯気立つ。
出どころはひとつしかない。スレンは目を乱暴に拭った。拭っても拭っても、涙はとめどなく溢れてくる。
涙も心も体も全部凍ってしまえばいい。
そうすれば、この訳のわからない気持ちに振り回されずに済むのに。
何度も何度も、涙をぬぐいながら、スレンは帰路についた。




