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    日常と願い|風は変化を連れてくる



 リリウスとレイモンドは寒空の下で、いつも通りタバコを喫んでいた。



「なんだそのしょぼくれた顔は。解放軍に拷問でもされたのか?」


「レイモンド。その冗談、全然笑えないよ」



 煙を吐き出しゲラゲラと下品な声で笑うレイモンドを、リリウスがちくりと刺す。



 タバコの煙は相変わらずひどい匂いを振り撒いている。

 鼻を動かすと、反射的に眉間に皺が寄る。



 苦いくせにどこか甘みもある、思わずしかめっ面になる不快な香り。

 同時に、スレンにとってはなじみ深い、昼下がりの匂いだった。



 タバコの匂いは苦手なのに、不思議と肩の力が抜けていくのだ。

 まるで慣れ親しんだ家に帰ってきたようで。ほっとした気持ちになる。



(……帰る場所、か……)



 スレンはぼんやりと、タバコをふかしている二人を見つめた。



 かわり映えのしない昼下がりの風景。

 だけどスレンにとっては、なによりも眩しい光景だった。



 ずっと見ていたい。

 そんな気持ちが、甘い痺れと一緒に全身に広がっていく。



 両親はとっくの昔に死んだ。

 戦争を思い出したくないから、故郷も捨てた。

 自分に帰るべき場所はないと思っていた。



 スノーゼンはたまたまたどり着いた場所で、故郷ではない。

 ただのいっときの止まり木。そう割り切っていた。



(……割り切っていたはずなのに……)



 この温かい場所から離れたくない。失いたくない。そう心が叫ぶ。


 スノーゼンは居心地がいい。できるなら、ずっとここにいたい。それが本心なのだろう。

 気付きたくなかった思いに触れてしまい、息が詰まった。



(……長くいるつもりはなかったのに)



 スレンは奥歯を噛みしめた。

 もう二度と、故郷で経験した痛みを味わいたくなかった。

 だから、特別なものを作りたくはなかった。

 なのに、どこで間違ったのだろうか。



 体力が回復したら、リリウスのもとを離れるつもりだった。

 教会に荷物を届けに来たゾルグと出会わなければ。

 ゾルグがいなければ、リリウスも『オルダグの里の世話になればいい』なんて言わなかった。



(……けれど、ゾルグがいたから……)



 国境戦争で失くした日常を取り戻せた。

 ゾルグと一緒に山へ行って狩りをして、村におりてリリウスやレイモンド、サーシャとお喋りをする日々が当たり前になった。



 そんな“当たり前”の日々がこれからも続いて欲しい。

 そんな欲が生まれてしまうほど、今が幸せだった。

 だから、先のことを考えるのが恐ろしい。



 音もなく通り過ぎていった凍て風が、スレンの黒髪を乱した

 リリウスが不安そうに「スレン」と名前を呼ぶ。



「大丈夫? ……顔色悪いよ?」



 答えようと口を開いても、喉が詰まって声が出なかった。


 ずしりと肩が重くなる。ネルの手が肩に乗っているような感覚。傍にいないのにスレンの心中を見透かしているようで。

 里を経つ前、ネルが柔らかな声色で話してくれた“もしもの話”が頭によぎった。



『もし、王政派が帝国軍を呼び込めば、国境のネフリト山とスノーゼン一帯は真っ先に戦場になるだろう』



 それは、なによりも恐ろしい言葉だった。

 思い出すだけで、手足が震える。


 また奪われる。また焼かれる。

 またスレンの前からみんないなくなってしまう。


 そうなればきっとスレンは、あの痛みに耐えることはできない。


 不安が全て顔に出ていたのだろう。

 ネルが『大丈夫』と続けてくれた。

 なにが“大丈夫”なのかと睨むと、ネルはスレンの肩に手を置いた。



『スレン。国境戦争を知っている君は、誰かのために戦うことができる人間だ』



 ネルは落ち込む生徒に道を示す教師のように、ゆっくり柔らかな声で語り出す。



『ネズミ共が導火線に火をくべる前に、我々と共に王政派を根絶やしにすればいいんだ』



 簡単なことと言わんばかりにさらりと言う。

 爛々と輝く藍の目を見れば、ネルが本気で王政派を潰そうと意気込んでいるのが伝わってくる。



『……帝国を唆すネズミがいなくなれば、戦争は起きない。ドラゴラードのときのような思いをしないで済む』



(……ネズミがいなくなれば、戦争は起きない)



 本当の気持ちに気付いた今、ネルの言葉が慈雨のようにスレンの心に沁み渡った。



(……本当に、そうなら……) 



 スレンは右肩へ手を伸ばした。当然、そこにネルの手はない。

 なのに、まるで手が置かれているかのように右肩が重い。



 スレンは息を呑んだ。

 代わり映えのしない当たり前の日々を失いたくない。そんな欲がどんどんと膨らんでいく。



(……ドラゴラードとは違う。まだ、止められる)



 あの時とは違い、まだ戦争は起きていない。

 ネルは、王政派のネズミの企みを潰せばいいと言った。


 ネズミが帝国に援軍を要請しなければ、日常は保たれる。

 スレンは帰る場所を、大切な人たちを失わずに済む。



「スレン?」



 リリウスと目が合う。

 再び、ネフリト山からやってきた風が通り過ぎていく。長いグレーの前髪の隙間から、赤く変色した肌がのぞく。



(……過去は変えられない。――けど、同じことを繰り返さずに済む)



 迷いを断ち切れた気がした。

 スレンは顔をあげ、口の端で笑った。

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