少女と総督3|傷は未来を照らす
「オルダグの兵士のほとんどは若い女性、子ども、年寄りだった。……幼少の頃から守るべき者として教えられた相手なのに、あの戦争では敵だった」
滔々と語る、低い艶のある声は震えていた。ネルは声の震えを寒さのせいにするように、腕をさすった。
「……殺される前に、殺さなければならないという現実に耐えられなくなってね……」
「……それで、死のうとした、と」
スレンの問いにネルは恥じるようにうつむき、白い息を吐いた。
「通りに、親とはぐれて泣いている子供がいたんだ。……友人は罠だと私を止めたが、私は耳を貸さなかった」
なぜ、と訊くと、ネルは疲れたように肩を落とす。
「……敵の罠であれば喜んで死のう、そうじゃなければ助ければいい、そう思ったんだ」
ネルは口を開けた。笑おうとしたようだが、喉から漏れたのは乾いた咳のような声だった。
笑えないのに、笑って誤魔化さないとやってられない気持ちはスレンもよくわかった。
戦争の話をしていると、当時の生々しい気持ちに呑まれてしまいそうになる。
笑って、過去を茶化さないと、苦しくて息ができないのだ。
「……その子は、逃げ遅れた子供だったのか?」
スレンは恐る恐るネルに尋ねた。
ネルは生きている。それに見える範囲に火傷や傷跡もない。
同じ泣き落とし作戦で体を焼かれたリリウスは、今も顔や体に痛々しい火傷痕が残っている。
ネルは逃げ遅れた子供を助けただけ、という結末で話が終わると思った。
「残念ながら敵だったよ。……敵の火炎瓶が飛んできてね。……友人が私を庇ってくれなければ、きっと死んでいただろう」
ネルは眉を下げた。
唇の両端を持ち上げ、笑みを保っているが、瞳は少し潤んでいるように見えた。
ネルを庇った仲間がどうなったのか、焼かれる仲間を見るネルがどんな思いだったか、想像したくもなかった。
ただ胸が潰れたように息苦しい。
浅い息しか吐けない。スレンは震える手で口元を押さえた。
過去の話だ。今願っても、祈ってもどうにもできない。
「そんな顔しないで。私を庇った仲間は生きてるよ」
生きてる。スレンは顔をあげた。
「運よく腕のいい軍医にみてもらえてね。……命は助かったんだ」
よかった、という力の抜けた声が漏れた。
スレンが言う資格はないとわかっていても、つい口から安堵の息と一緒に言葉が溢れた。
ネルも柔らかく微笑み、本当によかったと喉の奥から声をかすらせながら囁く。
「友人は一命を取り留めた。……けれど、火傷のせいで、右目がほとんど見えていない状態だと……彼を診た看護婦が言っていたよ」
痛みを堪えるようにネルは続ける。話すことで罪を贖っていると言うように。
「……友人に一緒癒えない傷を負わせて、ようやく自分がいかに身勝手な行いをしたか思い知らされたよ」
判断を誤った結果、痛い目をみたのが自分自身であれば、ただの自業自得で済む。
ネルは仲間――それも友人と呼ぶほど親しい相手を巻き込んだ。悔恨の念、心痛を想像するだけで息が苦しくなる。
「軍は私を罰しなかった。……友人も、私を恨まなかった。むしろ笑って、無事でよかったと言うんだ」
「……それは……つらいな」
知ったような口を叩いてしまい、スレンはすぐに頭を下げた。ネルは「気にしてないよ」と乾いた笑みと一緒に言う。
「……君の言う通り、辛かったんだ。当時は気持ちの整理なんてつかないから、死んで償うしかないって考えてたんだ」
けど……と、目を細め、遠くを見つめながら続ける。
「……友人の怪我の具合を教えてくれた看護婦に怒られたんだ『生かされた命だ、有効活用しなさい。それが責任だ』と」
「……責任」
スレンのつぶやきにネルは深々とうなずいた。
「そう。身を挺して私を庇ってくれた友人のために、犬死するな。……死ぬつもりなら、命を仲間のため、故郷のために使えと言われたよ」
奥歯を噛み締め、苦いものを飲み込むように表情をくしゃりと歪める。
正論はただ痛い。ネルが苦い顔をするのもわかる。
「考えることをやめ、後ろにいる友のため戦った。……そうしているうちに、気が付くと戦争は終わっていた。責任は果たした。もう楽になっていいだろうと思えば、また次の争いが起きた」
「……内戦?」
ネルは首を横に振った。
「内戦のきっかけになった事件だね。――国境戦争の負傷兵への給付金。王政時代は、あれの支給条件が厳しくてね。働けない兵士が嘆願のため、アリンの宮殿前広場に詰めかけたことがあったんだ。……近衛兵は耳を貸すことなく、広場に集まった兵士とその家族に向かって発砲した」
ネルは報告書の中身を読み上げるように淡々と流す。
感情的になれば、収まりが利かない。だから自身の感情に蓋をして、ただ事実だけを語ったのだろう。
(……解放軍が王政派を目の敵にするわけだ)
解放軍は国境戦争帰りの者が多い。
国境戦争の負傷兵に対して補償はほとんどなかったという話はリリウスから聞いていた。
生きるための糧を求めれば、王に殺される。
国のため尽くした人間にそのような仕打ちをすれば、いつか自身の身に返ってくると王は考えなかったのか。
(まぁ、考えなかったから……この国から王がいなくなったんだけどな……)
苦い気持ちと一緒に、国境戦争のとき大人たちが声高に叫んでいた『王は民を守っているのではない。自らの財を守っているだけ』という言葉がよみがえった。
「少し前までは、戦争で負傷した戦友とその家族の生活を守るため、王とその軍勢と戦った。……成果あって、評議会統治下になってからは見舞金がきちんと出るようになった。――で、今はこの国に異国の兵を呼び込もうとするドブネズミ退治の真っ最中だ」
ネルは肩を下げ、うんざりとした顔で言う。スレンは同情するように相槌を打った。
「……何をしても友人に癒えぬ傷を負わせた事実は変わらない。けど、あのとき自暴自棄にならず、罪滅ぼしのため闘うことを選んだから、友人に救ってもらったこの命を、有効に使うことができたと思うんだ」
「有効に使う……」
「そう。よく言うだろう、過去は変えられないけど未来は変えられると」
綺麗事だ、とスレンは内心でつぶやく。
出立前に聞かされた『スレンを恨んでいない』という綺麗事とはまた別の不快感に襲われる。
(……やったことは取り消せないのに)
暗澹とした気持ちになる。
脳裏にリリウスの顔が浮かんだ。長い髪で隠している顔の右側。赤く変色した痛々しい肌。
リリウスの火傷はスレンが直接負わせた傷ではない。
しかし、この世のどこかにはスレンが負わせた傷で苦しんでいる誰かがいる。
「……開き直れというわけではない。けど、過去に囚われていても仕方がない。同じ過ちを繰り返さないため、自分に何ができるか。考え、動けば、少なくともこれから先、同じような辛い気持ちを味わわずに済む」
苦い顔をしてうつむいていると、ネルが優しく、諭すように言ってくる。
無責任な励ましではない。きっとネルの経験に基づいた言葉なのだろう。
重みがある助言は、そんな考えもあるのかと、少し心の靄を晴らしてくれた。
完全に心の靄が晴れないのはネルの助言が役に立たないからではなく、スレン自身の問題。過去を清算できていないから。
「……あんたの話は難しい」
スレンは小さな声で悪態をついた。
「自分の気持ちと折り合いをつけるのは簡単じゃない。……難しいと思って当然だ。けど、スレン。君はまだ若い。君は君のペースで過去と折り合いをつけていけばいい」
励ますようにネルはスレンの肩を叩いた。
じんじんと甘い痛みが肩から全身に広がる。
気が付くと坂道を下りきっていた。
少し先のモミの木の下にいるゾルグが手を振っている。
つい話し込んでしまったが、今はネズミ狩りの真っ最中だ。お悩み相談をしている場合ではない。
気持ちを切り替えなければと、スレンは顔に力を込め、拳を握りしめた。
「私でよければ、いつでも話を聞くよ」
ネルは人の良い笑みを浮かべて言う。ついつられて頬が緩んでしまった。すぐにスレンは口を曲げいつもの無愛想な表情を作る。
「……故郷を焼いた敵によくそんなぬるいことを言えるな」
仲良くなったつもりはないという嫌味を込めて、ネルに言うと、ネルは眉を下げて困ったように、しかしどこか微笑ましげに笑う。
「私は君たちを恨んでないからね」
お決まりの返しをされ、スレンは奥歯を噛んだ。
「……やっぱあんた、まともじゃない」
負け惜しみと思われようが、そう、言わずにはいられなかった。




