総督と少女1|優しさは罪の痛みに変わる
「ネズミは気配に敏感だ。殺気をだしたり、不自然に気配を消したりしたら、すぐに逃げてしまう」
谷へ下る緩い坂道が続く。
足を滑らせないよう慎重に、固くなった雪を踏みしめながら進んでいると、ネルがあっさりと、先ほどの奇行のネタばらしを始めた。
「経験上、真面目に探すよりも、ただの行楽客のように雑談しながら探したほうが、ネズミの発見率も高かったりするんだよ」
丁寧に整えられた顎髭を撫でながら、ネルは言う。
口元には穏やかな笑みを浮かべているのに、目は笑っていない。王政派のネズミを捕捉しているかのような鋭い目で前を見ている。
「……たしかに、解放軍が鳥の鳴き真似をしてふざけてるなんて思わないだろうし」
一瞬、王政派か解放軍の間で使われている符丁かと本気で思ってしまったのが恥ずかしい。
冷たい穏やかな風が、木の枝からハラハラと落ちる雪を散らす。
風が頬を撫でても、まだスレンの頬の熱は冷めなかった。
昨日リリウスから言われた『君は思い込みが激しいところが欠点』という言葉がよぎり、思わず苦い顔になる。
「これも、君たちの作戦から学んだんだよ」
追い打ちをかけるようにネルは言う。
また古傷を抉る戦争の話につながると思うと、辟易とした気分になる。
(……本当にオルダグがお好きだな、この総督さん)
ネルのいう“オルダグの作戦”とは、一市民に紛れて敵を攻撃する卑劣な戦い方のことだろう。
王国軍の後継組織である解放軍が、寄せ集めの軍勢であるオルダグの戦い方を手本にしているのは、あまりいい気がしない。
「……天下の解放軍さまが、臆病者、卑怯者の手法の真似をするなんて」
心の中で呟いたはずの呆れが口に出てしまう。
「そんな風に悪くいうのは感心しないな。戦力差を覆し、勝つには実に理に適った方法だ。だから我々も同じ手を使うのだよ」
きっとネルからすれば“勝つ”ことが絶対の正義なのだろう。
人手不足にあえぐ解放軍の上の人間からは、乏しい戦力で王国軍を負かしたオルダグの戦い方は魅力的に見えるのだろうか。
(……それが、人の良心を踏みにじるようなものでも……)
昨日教会で会った、ヴァーツラフ少尉の顔が浮かんだ。
自分の娘すら恐ろしくてたまらないと吐露していた生真面目な軍人。
ヴァーツラフは、戦場でオルダグの子供から騙し討ちをうけたせいで、自身の娘と向き合えなくなってしまった。
今のネルの言葉をヴァーツラフが聞いたらどう思うのだろうか。
かつてのオルダグの戦い方は、勝つため理に適った方法とのたまうネルの言葉を素直に受け入れるのだろうか。
(……どれだけ善人のふりをしても、軍人は軍人だ)
周りの部下や、昨日の山狩に参加した里の男たちの様子から見るに、ネルは部下にも気を配れる男と思っていたが、そんなことはなかったようだ。
綺麗事を言って善人ぶっても、人殺しを生業としている人間が、まともな道徳心を持ち合わせているわけがない。
ネルになにを期待していたのか。
勝手に裏切られた気になって、さらに気持ちがもやもやする。
「スレン?」
沈んだ気分で歩みを進めていると、ネルの心配そうな声が降ってきた。
冷徹な軍人の癖に、気遣うような物言いが癪に障る。スレンはじとりとネルを睨んだ。
「あんた、ドラゴラードの有り様を見てるんだよな。……よくもまあ、あんな地獄を生み出した敵の戦い方を褒められるもんだ」
スレンの棘まみれの言葉を真正面から受け止めたネルは、逡巡するように目を伏せた。
「難しい質問だ。……一言で言えば、それは、それ、ということだよ。大人は色々と切り分けて考えないとやっていけないからね」
(……どっかの導師さまみたいな物言いだ)
同時に、暗に子供と言われているような気がして、スレンは口を曲げる。
「何度もしつこいかもしれないが、私はオルダグを恨んだりはしていない。……君たちは、家族や仲間を守るために最善を尽くしただけだ。後ろめたく思う必要はないんだよ、スレン」
「……よくそんな綺麗事言える」
無意識のうちに声が漏れた。見開かれたネルの目と目が合い、バツが悪くなる。
スレンは白い息を吐き出すと、足を早めた。
ネルを引き離したいが、当人は手を後ろに組み、息も切らさずにぴったりと横に並んでくる。
相手がリリウスであれば、と奥歯を噛んだ。
運動不足気味の導師さまであれば、簡単に引き剥がせたのに。
「……あんたは軍人だから、人を殺してもなんとも思わないんだ」
言い過ぎたか。少しヒヤリとしたが、同時にこれぐらい言わないとネルには伝わらないと言い訳をする。
ドラゴラードで戦っていた時は、ネルの言う通り、人を殺すことに何の躊躇いもなかった。
同胞のため、自由と正義のためと大人は言っていたが、スレンはそんな大層な志のために戦っていたわけではない。
敵を殺さないと、自分が殺される。だから戦う。そんな野山の獣じみた思考で、人を手に掛けていた。
戦争が終わると、当然人殺しは罪に問われる。
平和な街中で、理由もなく人を殺すのは異常で咎められるべき行為。
人殺しが悪である日常に戻ると、自分が異常者だったという事実を突き付けられたような気になり、過去を正視できなくなった。
スレンは平時であれば、裁かれるべき行いをした。
なのに、誰もスレンを裁かない。
そんな事実に耐えきれなくなり、故郷を飛び出した。
そして、望み通り、野垂れ死にそうになった。
ようやく償える。そう思い目を閉じたが、天もスレンを罰してくれなかった。
助けられてしまった。それも、国境戦争でオルダグに顔を焼かれたリリウスの手によって。
今でも、逃げようとするスレンを罰するために、天はリリウスを遣わせたのではないかと思うことがある。――リリウスの前では口が裂けても言えないが。
「君は……今も苦しんでいるんだね」
「……はぁ?」
知った風な口を叩くネルをスレンは反射的に睨んだ。
ネルの言葉はただ優しいだけだ。敵意も悪意もかけらもない。なのにスレンの心の一番柔らかなところを的確に抉る。
こちらに向けられる藍の目も腹立たしい。
可哀想なものを見るような、憐れみに満ちた目で見下されると、大人から強い酒を飲まされた時のように、頭がカッと熱くなる。
抑えがきかなくなった心が、思いつく限りの罵声を目の前の善人ぶった男にぶつけろと命令してくる。
罵って、追い詰めて、善人の皮を剥いでやれ。
そんな声に導かれるがままスレンは口を開けた。
乾いた冷たい空気を吸い込んだ時、ネルがその場で足を止めた。




