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    目覚めと不機嫌の理由|不安は導師を蝕む



 眼前のリリウスは、動揺を隠しきれていない、こわばった笑みを浮かべ、再び「スレン」と名前を呼ぶ。

 行き倒れて死にかけた夜に聞いたのと同じ、優しさに満ちたあたたかな声。



 スレンは肩で浅い息を繰り返し、首を振って拒絶する。

 そんな声で呼ばないで欲しい。突き飛ばして、殴りつけてほしい。

 そうされても仕方ないことをスレンはしたのだから。



「目が覚めた、みたいだね……」



 リリウスはふわりと安心したように微笑み、スレンから手を離した。


 おそらくリリウスは、身を守るために本気で力を込めたのだろう。

 スレンの象牙色の肌には、くっきりと赤い手形がついていた。

 痛みと痺れが、現実に戻ってこれたことを教えてくれる。



「ゆっくり、深呼吸して。意識を目の前に向けて」



 リリウスに言われるがまま、深く息を吸う。

 耳鳴りがおさまると、色々な物音が聞こえてくる。


 スノーゼンでは『冬将軍の大号令』と呼ばれているやまおろしが、古い教会を軋ませた。

 凍える風の音、暖炉の薪が爆ぜる音、微かなリリウスの息遣い。

 どれも静かだが、スレンが現実にいることを教えてくれた。



 首筋と背中を濡らす冷たい汗が乾いた頃、スレンはリリウスから逃げるようにうつむき、口を開いた。



「……悪い……寝ぼけてた」



 気持ちが落ち着くと、今度は気まずさと罪悪感、羞恥心が一気にせり上がってくる。

 どんな顔をしてリリウスを見ればよいかわからない。



「……ほんとだよ。芋の皮むき手伝うって言ったのに、座って五分もしないうちに爆睡するなんて」



 魘されていたとはいえ、スレンはリリウスの首を絞めようとした。非難めいた言葉が飛んでくると思ったのに違った。

 リリウスはいつもと変わらない、気の抜けたゆるい声で、何もなかったかのようにつぶやく。



「寝ぼけて暴れるなんて、ゾルグのこと笑えないよ」



 軽口に「そうだな」と返したかったが、舌が回らなかった。


 リリウスは相変わらず笑顔だ。

 しかし、細められた目の奥にはこちらの様子を窺う、冷たい光が宿っているような気がした。



 スレンは、長い前髪で隠れているリリウスの顔の火傷痕に目を向けた。

 リリウスは何も言わない。スレンも黙り込む。

 外に出せない罪悪感で胃がずしりと重くなる。



 先に動いたのはリリウスだった。スレンに背を向けて流しへ向かう。

 きっと、途中で放り出した夕飯の支度をするのだろう。



「朝、早かったの?」



 世間話をするように、リリウスは話を振ってくる。

 まだ気持ちを切り替えきれていないが、黙ってやり過ごすのも気まずい。



「べつに……いつも通りだよ」



 スレンはかすれた声で返した。変に力が入って、声が硬くなる。

 無意識のうちに浅くなる呼吸を整えようと大きく息を吸い込むと、焦げたバターの匂いがした。

 リリウスはスレンの要望通り、シチューのパイ包み焼きを作ってくれたのだろう。



 胃が痛いほど腹は減っているのに、食欲がわかなかった。

 濃厚なバターの匂いが、夢の中に出てきた、血にまみれた鉄臭いクッキーと結びつく。


 生々しい悪夢の光景がよみがえり、胃液がせり上がってくる。

 スレンは口元を手で押さえた。胃のムカつきを抑えようと腹を抱え、うずくまっていると、リリウスが飛んでくる。



「どうしたの? やっぱり具合が悪いの?」



 リリウスは気遣うような声をかけたあと、スレンの背を撫でた。

 春の陽だまりのような温かな体温。優しい手つき。

 どちらも弱った心に沁みる劇薬だった。こらえきれず目が熱くなる。



(……泣くな!)



 スレンは自身を叱咤すると、込み上げてくる感情を、吐き気と一緒に呑み込んだ。

 首に手をかけられたリリウスが何も言ってこないのだ。

 手を出したスレンが、子供のように感情を曝け出すわけにはいかない。



 スレンは「大丈夫」と声を振り絞ると、リリウスの手を拒むように、椅子の背もたれにもたれかかった。



「腹が減りすぎて、気持ち悪くなっただけだ」



 唇の端を必死に持ち上げ、精一杯強がってみせた。

 リリウスは眉間を皺だらけにしながらも、再びスレンに背を向けた。

 夕飯の支度に戻るのだろう。



(……なんとかやり過ごせた)



 無理やり笑ったせいで、頬がつりそうになる。

 こんなに気を使うのなら、ゾルグと一緒に宿に行けばよかった。

 そんな後悔が押し寄せてくる。



(けど、宿に行けばサーシャちゃんがいるんだよな……)



 何かと探りをいれてくる天敵の女将の顔が、脳裏に浮かぶ。

 サーシャの質問責めに耐えるか、リリウスと互いの神経をすり減らすような会話を楽しむか。究極の二択だ。



 疲れ切った今はどちらの相手もしたくないが、どちらがマシか問われたら、リリウスの方がまだいい。


 サーシャは下手なことを言えば、明日にはスノーゼン中に話が広まる。

 後ろ指さされて笑い者にされるぐらいなら、まだリリウスと話すほうが後に響かない。



 あれこれ考えていると、テーブルを挟んだ向から年寄り臭い声が聞こえた。

 意識を目の前に向けると、リリウスが向かい側の椅子に腰を下ろしていた。

 夕飯の支度をしないのかと尋ねる前に、リリウスが浮かない顔で「ごめん」と切り出してくる。



 何に対しての謝罪なのか分からない。

 返答に迷うスレンにかまうことなく、リリウスは指を組み、苦い顔で話を続けた。



「おれのせい、だよね。……戦争の話を持ち出したから」



 リリウスが暗い、思い詰めた声を絞り出す。


 スレンは眉を寄せた。

 その通りだ、今更何を言い出すのか。悪態が喉まで出かかるが、ぐっと堪える。


 夜、眠った際に悪夢の続きを見てしまいそうなので、今は戦争の話は聞きたくないし、したくもなかった。



「……関係ないって言っただろ。疲れてるせいだ」



 リリウスが余計なことを口走らないよう、ばっさりと切り捨てる。

 スレンの声から拒絶を読み取ったのか、リリウスは形のいい眉を下げた。

 顔にはいつもの嘘くさい笑みはなく、口角は下がりきっている。



(……これは、本気で落ち込んでいるな……)



「べつに……あんたも好きでドラゴラードの話をしたわけじゃないだろ」



 口から気遣いの言葉が出た。

 しかし内心は、さっきまでスレンの傷を抉った人間を、なぜ気遣わねばならないのだという不満でいっぱいだった。



 溜まった鬱憤を晴らすために、リリウスに不満をぶつけてもいい。

 きっとリリウスは反論せずにスレンの言い分を聞いてくれるだろう。



 今日のように昔の話をして、口論になったことは何度もある。


 スレンが挑発に乗り、リリウス個人には関係のない、戦争の恨み言をぶつける。

 すると、リリウスの死人のような白い顔が、嬉しそうに歪むのだ。


 リリウスも国境戦争を経験している。スレンの同胞を数多く殺めた。

 きっとリリウスは、自身の中に燻る罪悪感を晴らすために、定期的にスレンの怒りを爆発させ、自身を攻撃するように仕向けてくるのだろう。



(……絶対、あいつのペースには乗らない)



 特に今日は、久々に地獄の夢をみる羽目になったのだ。

 リリウスの、自傷行為のような憂さ晴らしに付き合う気はなかった。



 スレンは胸に詰まった息を吐き出した。

 再び息を吸い、頭を冷やす。

 怒りに任せたままでは、リリウスの望む言葉を吐いてしまいそうだ。

 感情を押し殺し、静かにリリウスの名前を呼ぶ。



「……あんた、なんか嫌なことあったんだろ?」


「嫌なこと?」



 できるだけ冷静になり、寄り添うような言葉をかけると、リリウスは嫌そうな顔をした。

 予想外の言葉に動揺しているようにも見える。

 どちらにせよ、嘘くさい笑顔を剥がせて少し気が晴れた。



「ごまかせると思うなよ。あんたがドラゴラードの話をするときはな、決まって機嫌が悪いときだ」



 リリウスは「そんなことない」と弱々しい声でつぶやき、逃げるように笑った。

 逃げ道を与える気はない。

 リリウスの薄ら笑いを潰すため、じっと薄青の瞳を睨みつける。



 目を合わせられるのが嫌なのか、リリウスは視線を泳がせ、部屋の隅に向ける。

 後を追うと、イーゼルが目に入った。



(……冬聖女?)


 

 イーゼルの上には見知った穏やかな微笑みを浮かべる聖女がいた。

 顔に貼られていた赤紙がいつの間にかなくなっている。



 等しく注がれる慈愛の眼差しが今は痛い。

 ずるい、というリリウスへの不満が込み上げてくる。


 同時に、冬聖女にこんな暗い感情を見られたくないという気持ちで、胸がいっぱいになる。

 胸中に湧く、いたたまれなさをスレンは舌打ちでごまかした。



「機嫌悪いの……朝来た解放軍が原因か?」



 声を喉の奥から絞り出す。リリウスはわかりやすく目を泳がせ、スレンから逃げた。

 しかしやや間を置いてから、大きなため息をつき、観念したように口を開く。



「……レイモンドの話のせいだよ」



 沈みきった声が告げたのは、予想外な名前だった。



「レイモンドのおっさん? あんたら喧嘩してたのか?」



 リリウスとレイモンドは、スレンたちが教会に来た時、いつも通りタバコを喫んでいた。

 思い返しても、揉めていたような感じはなかった。



「喧嘩はしてないよ。……レイモンドから王都の様子を聞いたんだ。で……気分が悪くなってね」


「……王都の?」


「うん。第二のドラゴラードになるかもしれないって……」



 リリウスは指先で顔の火傷痕に触れながら、沈痛な面持ちでつぶやいた。

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