悪夢と戦いの記憶|少女は地獄の夢を見る
*
建物を揺らす風の鳴き声が聞こえ、スレンは目を覚ました。
冬の始まりは夜になると、山から吹き付ける強風が雪雲を運んでくる。
この民家を軋ませる季節風のことを「冬将軍の大号令」と呼ぶのだと教えられた。
(……誰に教えてもらったんだっけ)
スレンは霞がかった重い頭を働かせる。
寝起きの頭は鈍く、断片的な記憶を紡ごうとしても、途中、無関係な過去が中に混じってしまう。
スレンは鈍く痛むこめかみを押さえた。
過去を掘り返すのではなく、直近のことから記憶を整理することにした。
(死体を拾って、リリウスのとこに運んで埋めて、それから……)
今日の記憶を手繰り寄せていると、視界が白い光でいっぱいになる。寝ぼけ眼には毒なほど眩しい光。直視出来ず、スレンは目を閉じた。
『ちょっとスレン! 聞いてるの!?』
舌足らずな声がスレンを呼ぶ。
声に反応して目を開くと、先ほど襲いかかってきた痛いぐらいまばゆい光はどこにもない。
部屋は暗く、明かりは一本のロウソクだけ。
声の主を探すため、スレンは光に焼かれた目を闇に慣らす。
ぼんやりとした暗闇の中から、顔中煤まみれの少女が飛び出してきた瞬間、驚きで心臓が飛び出そうになった。
少女の顔は煤で汚れていたが、オルダグ族の特徴であるすみれ色の瞳だけは澄んでいた。
大きな瞳には困惑するスレンの顔が映り込んでいる。
『寝ぼけてないで見て! 今日はごちそうなんだよ!』
少女は両手いっぱいに食べ物を抱えて、無邪気に笑った。
話についていけないが、嬉しそうに笑う相手を無下にすることもできない。
眉を下げスレンは「よかったな」と自信のない声で少女をねぎらった。
かけた言葉は正解だったようだ。少女が人なつっこい猫のようにすり寄ってくる。
スレンは少女の柔らかな黒い髪を撫でながら、鈍い頭を回す。
(……どこなんだ……わたし、スノーゼンの教会にいたはずじゃ……)
部屋の空気は埃っぽく、焦げ臭い。
近くの炊事場で誰かが料理を焦がしたのかと思ったが、場に漂う空気全体が油臭く、煤けている。
この様々な物が燃えたせいで鼻を突く、独特の匂いをスレンはよく知っている。
知っているからこそ、嫌な汗が止まらない。
(……わたしはスノーゼンにいた。死体を埋めて、教会に戻って……)
椅子に座って、リリウスから出された、ジャムの入ったお茶を飲んで一息ついていたはずだ。
スレンは少女の髪を撫でる手を止め、あたりを見回した。
立て付けが悪く閉め切らない扉。
廃材で塞がれた窓の残骸を見て、息が詰まった。
(……違う。そんな訳ない!)
認めたくない。見たくない。目を閉じ、頭を抱えて縮こまる。
目を閉じて逃げても、街中に染み付いた油の匂いが、轟々と騒ぎ立つ風の音が、ここがどこなのか告げてくる。
記憶の奥底に封じ込めても、無意識のうちに表にでてきてしまう戦火の街。
(……ドラゴラードなわけない! 夢だ! 夢なんだ!)
悪夢の中にいると気が付いても、目が覚めることはなかった。
かつての戦場にいるとわかった途端、頭の中を覆っていた霧が晴れる。
まるでスノーゼンの日々が夢で、この煤けた部屋の中が日常なのだと体が伝えてくるようだった。
(……そんなわけあるか!)
あってたまるか。そう吠えても、身体はこの場に適応しようとしている。
指先から順に体温が下がっていく。
蒼い顔のスレンとは対照的に、目の前の少女は笑顔で黒ずんだ布の上に戦利品をひとつひとつ並べていく。
『黒パンにハム、それにソーセージでしょ』
少女が並べたハムとソーセージのパッケージには赤黒い染みがつき、剥き出しの黒パンにはハエがたかっている。
『あと、お菓子もあったよ』
少女は口元を押さえるスレンを気にかけることなく、無邪気にクマのキャラクターが描かれたクッキーの袋を掲げた。
クッキーの袋を握っているのは少女だけではなかった。
小さな子供の手のような物が、袋にへばりついていた。
断面にジャムのような、赤く粘ついた液体がこびりついている。
手のように見えるだけのゴミ。たまたまクッキーが変な形をしていた、とごまかすにはその異物は生々しすぎた。
スレンが声にならない悲鳴を喉の奥であげると、少女も袋にへばりつく異物に気が付いたようだった。
『あ、なんか付いてるね』
少女は袋にへばりついた赤黒い異物をつまむと、床に投げ捨てた。
服についた埃をはたくような、捨てた物に対して特別何かを思うわけでもない動作。
スレン自身が何かされたわけでもないのに、胃を鷲掴みにされたようにぎゅっと痛む。
『今日は兵隊さんのおうちに行ったから、いろいろついちゃってるね』
少女は澄んだすみれ色の瞳を細めて、あどけなく笑う。
なぜ笑えるのか。少女を問い正したくなるが、すぐに自分の中で答えが出てしまう。
(……これが、この街の日常だから)
目の前の光景は、必死に記憶の奥底に閉じ込めた、地獄の日常だった。
床の上に転がる小さな手から目が離せない。
床に、赤黒い染みが広がっていく。
黒パンの上に群がっていた蝿が、不快な音を立てて飛び立ち、土色の手のひらの上に止まる。
数年前まで日常だった光景だ。
見慣れた風景のはずなのに、胃液がせり上がってきて喉を焼く。
込み上げてきた苦いものを吐き出しそうになった瞬間、粗末な扉が勢いよく蹴破られた。
「動くな!」
乱入者は、顔の右半分が、赤く焼けただれた兵士だった。
氷のように冷たい薄青の瞳は、スレンではなく、目の前の少女に向けられている。
兵士は躊躇うことなく、手にしていた銃を構え、引き金を弾いた。
発砲音が、無邪気に戦利品の話をしていた少女の声を遮る。
伏せろ、と叫んだ喉が痛い。伏せたところで至近距離で狙われてしまえば意味がない。
分かっていたが、反射的に言葉が漏れた。
少女はスレンの目の前で、糸が切れた操り人形のように床の上に倒れた。
見慣れた光景。だが、全身の震えが止まらない。
なんの感情も宿っていないガラス玉のような目が向けられる。
言葉がなくてもわかる。次はスレンだ。
(……逃げないと)
心の中で念じるが、スレンの手足は凍りついたように床にくっつき、指一本動かすことができない。
男は、床を軋ませながらゆっくりと近づいてくる。
額に銃口を突きつけられた瞬間、スレンは息をすることを忘れた。
「スレン」
名前を呼ばれた。こんな気遣わし気な声でスレンの名前を呼ぶのは、両親ぐらいだ。
(……二人のわけない)
だって二人は王国軍に殺されたのだから。
死の際にいるから、聞こえてはいけない声が聞こえるのだろうか。
近くにいない人間の声が頭の中に次々と溢れる。
『こんなとこで死んでいいのか』と共和国から来た教育係の怒声が響く。問いに対して『殺される前に、相手の喉笛を噛み切る』と、この世にいない友人が返す。
(……殺される前に、相手の喉笛を噛み切る)
野垂れ死ぬな。親を、兄弟を奪ったアリノール人を一人でも多く殺して死ね。
その言葉は、夜闇を赤々と焦がす、篝火だった。冷えきって動かない手足に、再び熱を注いでくれる。
じんわりと指先の感覚が戻ってくる。
大丈夫。ちゃんと動く。
動けるなら、敵を殺せる。
スレンは男の喉仏に向かって手を伸ばした。
「スレン!!」
再び誰かが名前を呼ぶ。
さっきとは違い、切羽詰まった声だった。
目を瞬かせると、スレンの眼前には、変色した肌があった。
灰色の髪の隙間から、赤く変色したケロイド状の肌が覗く。
目線を上に向けると、氷のような薄青の瞳と目が合う。
「落ち着いて! おれだよ、リリウス!」
リリウス、とスレンは乾いた舌を動かして反芻する。
瞬きを繰り返し、ぼやけた視界を晴らしていく。
背中が汗で湿っている。雨に打たれ、そのまま寝込んでしまったみたいに身体が冷え、重い。
ゆっくり意識を目の前に向けると、リリウスがスレンの手首を掴んでいた。目を見開き、必死の形相で。
とんでもない過ちを犯した気がした。血の気が引き、嫌な耳鳴りが響く。
机の上に置かれたランタンの明かりが目に染みた。
強烈な光に目を焼かれてようやく、スレンの意識ははっきりと覚醒した。




