【1-3】冬聖女と赤紙|聖女はそれでも微笑む
静まり返った教会には、死の匂いがまだ微かに残っていた。
先に教会に入ったリリウスは、まっすぐ二階に続く階段に向かうが、スレンは後を追わなかった。
鼻にまとわりつく嫌な匂いから気を逸らそうと、スレンは壁にかかっている絵に目を向ける。
もやもやは残っているが、訳ありの死体は埋葬した。解放軍が何か言ってこない限り、掘り起こされる心配はない。
(……さっきはちゃんと見れなかったけど、冬聖女さまの顔に貼ってある紙。あれは何なんだ?)
リリウスを待つ間に見た、冬聖女の顔を隠す赤紙。あれがずっと気になっていた。
死体を運んでいる最中、サーシャから耳にした話。「朝、解放軍が教会に来た」という話が嘘でなければ、冬聖女の顔に紙を貼ったのは、おそらく解放軍だろう。
(レイモンドのおっさんも、解放軍が冬聖女を回収してるみたいな話してたし……)
スノーゼンの冬聖女も解放軍に目をつけられたのだろうか。
赤紙の内容を確かめようと、スレンは壁に駆け寄った。
赤紙に書かれている文字は癖が強く、ひどく読み辛い。
「……治安維持に関する法律……第二条。旧王族崇拝に抵触するため、至急当局の指示に従うこと……?」
眉間を寄せ、悩みながら文字を読み上げていると、階段からリリウスの「あっ!」という叫びが響く。
突然の大声に、反射的にスレンの肩が跳ねた。
肩を縮め固まっていると、リリウスがバタバタと慌ただしい足音を立てながら飛んで来る。
「聖女さま、撤去しなきゃダメなんだった」
リリウスは、憂鬱そうにため息を漏らすと、冬聖女の額縁に手を伸ばした。
「撤去って……解放軍からの命令なのか?」
冬聖女はスノーゼンの教会の象徴ともいえる絵だ。
人々の心の拠り所になっている絵を、教会から排除するのは、さすがに行き過ぎているように思えた。
(……評議会をありがたがってるのなんて、教会でお祈りをするような、一般市民だろうに)
スレンは眉を顰め、心の中で不満をぼやく。
日に日に王政派の影響力はなくなっていっているが、評議会がアリノールを掌握しきったかというと、そうとは言い難い。
スレンは詳しく知らないが、評議会も一枚岩ではないようだ。
情報通のサーシャによれば、王都アリンを中心に王政派との戦闘が続いているのに、評議会南部支部はアリンに応援を送らないそうだ。
南部支部は南部支部で、国境戦争で失ったドラゴラードを取り戻そうと、共和国と小競り合いを繰り広げており、王政派どころではないらしい。
「おれは模範的な導師だからね。……不服でも、ちゃんとお上のいうことは聞くよ」
リリウスはヘラヘラと軽薄に笑って、しかし薄っすら不満を滲ませてつぶやく。
相変わらず腹の中は読めないが、不服とはっきり口にしたのを聞いて、少し安心した。
導師ともあろう人間が、解放軍に媚を売るためだけに冬聖女を撤去するつもりであれば、今までの鬱憤も乗せてリリウスに掴みかかっていたところだった。
「……あんたが何かやらかしたんじゃないかって、ゾルグと話してたけど……まさかやらかしたのが、冬聖女さまの方だとは……」
「やらかしたって……。きみたち、おれのこと何だと思ってるわけ?」
「……色々とあくどい事もやってる導師さま」
スレンが言葉を選びながら毒を吐くと、リリウスはむくれてしまった。
「どーせ、おれは問題導師ですよ」
「……で、聖女様の何が評議会の逆鱗だったんだ?」
拗ねた大人を真面目に相手にするつもりはない。
話を本筋に戻してスレンが尋ねると、リリウスはうんざりしたように目を閉じる。
「髪色がダメなんだってさ」
冬聖女の白い髪の、なにがいけないのか見当がつかず、スレンは小首を傾げた。
「きみはピンとこないようだけど、雪のように白い髪はね、この国で最も貴い方々の象徴なんだ」
リリウスは『最も貴い方々』と回りくどい表現で言い表す。
すぐに意味を察し、スレンは苦い顔をした。
「……あー、評議会と解放軍は、聖女さまと王族と髪色が同じなのが気に食わないんだな。だから王族崇拝か……」
「大正解。……髪を金か黒に塗り直せってさ」
「評議会も、上の命令を素直にきく解放軍も、バカしかいないのか」
あまりにもくだらない理由にスレンが思ったことをそのまま口にするとリリウスは俯いた。喉を鳴らして、低く笑っている。
「……気をつけなよ。きみの今の発言も『治安維持に関する法律』とやらにひっかかるよ」
「はぁ? 何罪になるんだよ?」
「アリノール人民解放評議会への敵対発言かな」
壁から外した冬聖女を脇に抱え、リリウスは目を細め皮肉るように笑うと、あるかどうか怪しい法律を口にした。
冬聖女がいなくなり、古い横板の壁が剥き出しになる。
ぽっかりと空いた隙間をリリウスはじっと見つめている。スレンも横に並び、壁に目を向けた。
スノーゼンの教会の聖人画は、冬聖女を中心に飾られている。
真っ白な聖女の絵は、他の聖人画に比べると小さく、色彩に欠ける絵だが、周りの主張がましい絵を黙らせる力があった。
冬聖女がいなければ、個々の絵がそれぞれ存在を主張し、どこから目をやればいいのかわからなくなる。
「冬聖女のところに他の絵を飾るのか?」
リリウスは「もちろん」とうなずいた。
「解放軍から、評議会のお偉いさんの派手な絵を渡されてね。王政派ではないことを示すために、それを飾れって。ま、上に置きっぱなしなんだけどねー」
そう間延びする声でいうと、リリウスは住居になっている二階へと続く階段に向かって歩き出した。
スレンもその背を追う。
「その、評議会のお偉いさんは、どんなありがたい聖人なんだ」
教会にある絵は、文字を読めない民衆に神から賜った知恵を広めるためにある。
例えば、壁の一番左端に飾られている【水浴びをする民衆】は、体を清潔にして疫病を防ぐという教えを表現したものらしい。
教会に飾れというからには、評議会のお偉いさんの絵にも、何か教訓めいた意味があるのだろう。
「民から搾取した金で肥え太った王を倒し、アリノール人を圧政と貧困から解放した聖人、らしいよ」
異国の呪文でも唱えるような胡乱げな調子で、リリウスは言う。
「……何したかよくわからないおっさんの絵って、素直に言えよ」
回りくどいリリウスの嫌味にスレンが辟易としながら毒吐くと、リリウスが小さく吹き出す。
「スレン、口には気をつけなよ。捕まったらどうするの」
階段を上りきってダイニングに足を踏み入れたリリウスが、小言をこぼす。
「今の愚痴もダメとか、評議会も器が小さいな。……王さまのときは、どれだけ文句を言っても捕まりはしなかったのに」
「スレン」
今度は軽口ではなく、強く咎めるようにリリウスがスレンの名前を呼ぶ。
「……シュネーさまが帝国に連れて行かれてから、解放軍がピリピリしてるの、きみも知ってるよね」
リリウスは硬い声で言う。
国王の次女である王女シュネーが、帝国に亡命したのは去年の年の瀬のことだった。
祝祭前で浮かれた解放軍の警備の隙をつき、王政派が監禁されていたシュネーを連れ出した。
そのままアリノールを出て、母方の親族がいる帝国へ逃亡した事件。
評議会はシュネーが王政派に担ぎ上げられるのをなにより恐れている。
現にシュネー亡命後から、王都アリンに立て籠もる王政派勢力は勢いを増し、解放軍も苦戦をしいられているらしい。
「連れて行かれたって……人攫いにさらわれたみたいな物言いだな。お姫さまは自分から帝国に逃げたんだろ?」
スレンが口を曲げて言うと、リリウスは静かに息を吐く。
「……サーシャちゃんの噂話を真に受けるんじゃありません。噂に踊らされると、痛い目みるよ」
「事実だろ」
「自分の目で見てもいないのに、どうして事実ってわかるんだい?」
返ってきたのはいやに棘のある声だった。
スレンは訝しげにリリウスを見る。
どこか不機嫌そうな導師さまは、スレンに構うことなく、ダイニング机の上に雑多に置かれている調味料の瓶や、カップをよけ、冬聖女を置いた。
「遠く離れた場所の情報なんて、自分の目で見れるわけないだろ。なんのために新聞屋がいるんだよ」
「……国境戦争がはじまったとき、その新聞がなんて書いたか知ってる? それを見た人間はなんていったと思う?」
矢継ぎ早に、リリウスがスレンに問いかけてきた。唇の片側を吊り上げ、意地悪く笑いながら。
リリウスはどんな話をすればスレンが黙るか知っている。狙い通り、言葉が全く出ない自分の単純さが嫌になる。
「怠け者のオルダグ族がまたストライキをした。働く場所があるのに何が不満なのか。――獣みたいな暮らしをしている奴らに人間の暮らしはまだ早かった。……他に何があったかな」
リリウスは悪意に満ちた言葉を淀みなく口にする。当時の恨みを晴らすように、暗く晴れ晴れとした様子で語る。
「……わかった。……わかったから……もういい」
自分の口から出たものとは信じたくないほど、情けない、弱々しい声だった。
瀕死の病人よりも力のない掠れた声でも、リリウスにはしっかり届いたようだ。
「……言い過ぎたね、ごめん」
頭の上から聞こえたリリウスの声も弱々しいものだった。
目を向ける。リリウスは目を閉じ、頭を下げていた。
「……余計なお節介かもしれないけど、聞いてスレン」
赤く変色した右頬に添えられている指先は、小さく震えている。
「……噂だけを信じて、後から後悔するのはとてもつらいんだ。……きみにはそんな思いをしてほしくない」
まるで、自分は後悔した経験があるような口ぶりでリリウスは言う。
「周りのいうことを素直に信じちゃだめだよ。……ちゃんと自分の目で見て、聞いて、信じられるかどうか判断するんだよ」
説教臭いと言ってやりたかったが、リリウスがあまりにも真剣な顔で言うので、悪態をつくことができなかった。
モヤモヤとした、言葉に出来ない不快感が胸の中に膨らんでいく。
「……正しい道を説く導師さまのお言葉も疑ってみろって?」
先ほどの毒に塗れた言葉の仕返しと言わんばかりに、リリウスを揶揄する。
リリウスはゆっくりと目を伏せ、机の上の冬聖女を火傷痕が残る指でそっと撫でた。
「……そうだよ。……おれがいつも正しいことを言っているとは限らないからね」
「なんだよ、それ。……導師さまがそんなこと言っていいのか?」
「いいの。……公平で正しい人間なんてこの世にはいない」
リリウスはそう言うと、口を閉ざした。薄青の瞳は、乞うように冬聖女に向けられている。
「大変な日にする話じゃなかったね。お詫びに甘いお茶をいれるよ。さ、座って」
スレンがひどい顔をしているのだろう。リリウスは椅子を引き、座るよう促してくる。
スレンは俯きながら、ふらふらとした足取りで、堅い椅子に近付くと、腰をおろした。




