【1-1】冬風と腐臭1|風は声なき声を運ぶ
色のない荒涼とした雪原を満たすのは、痛いほど冷え切った空気と、ネフリト山の尾根から降りてきた風の音だけ。
切れ長のスミレ色の瞳を伏せ、スレンはうんざりしたように白い呼気を吐き出した。
少女は冬が嫌いだった。
吹雪で道を見失い、行き倒れた経験があるから……というのも理由のひとつだが、単純に厚い鈍色の雲に覆われた空の下にいると、昔を思い出してひどく気が滅入るからだ。
(……早く春が来てほしいな)
腕をさすり、うんざりしたように内心でぼやく。
邪魔にならないよう、髪を襟足で丸くまとめているせいで首筋が冷える。
首巻きで防寒はしているが、寒いものは寒い。
早く仕掛け罠の回収を済ませて、火にあたりたい気分だった。
憂鬱な気分をため息と一緒に吐き出した瞬間、凍て風が、女の悲鳴のような音を立てて顔面にぶつかってくる。
くせのない黒髪が、ふわりと持ち上がる。
髪を押さえ、スレンは目を閉じた。
雪を舞い上げながらぶつかってきた強風は、いつもと少し違っていた。
生き物も植物も眠りにつくこの時期の風には匂いがない。
なのに今、匂いを感じた。微かな甘い匂いだった。
花の香りとは異なる、鼻に残る嫌な甘さ。
それは彼女が子供の頃、嫌というほど嗅いだ死の匂いと同じだった。
風が止む。スレンは目を閉じたまま、猟犬のようにすんすんと小鼻を動かした。
感じた腐臭が、気のせいではないと確かめたかった。
(……やっぱり、なにかある)
微かな異臭を感じ、目を開けて辺りを見回す。
山の裾野まで白い世界が広がるだけで、生き物の影はどこにもない。
目ではなく、鼻を動かし、微かに漂う死臭を辿る。
視覚に頼らず、匂いに集中しすぎたせいで、足元から注意がそれた。
膝下まで雪に埋もれて、ようやく街道から大きく外れていることに気付いた。
それでも構うことなく、雪うさぎと同じ色をした真っ白な外套を翻し、スレンは鳥獣の足跡ひとつない雪深い道を開拓する。
「おいスレン! どこ行くんだよ!」
静まり返った雪原に怒声がこだました。
突然の声に肩が跳ねた。すぐに、声の主は連れだと気付く。
意識を匂いに戻し、スレンは黙々と新雪を踏みつけ、道なき道を往く。
腐臭といっても、鼻を突くような異臭はなかった。
一度意識を逸らしてしまえば最後、二度と気がつけないような、か細く弱い匂いだった。
対して、声の主は突然いなくなることはない。
どちらを優先するか、考えるまでもなかった。
スレンの野生の勘が、匂いのもとはそう遠くないと告げている。
雲の隙間から差す、弱々しい陽の光を反射する雪面に注意を向ける。
数歩進んだ先で、雪と同化した白い布が風を受けゆらゆらとはためいているのが見えた。
捜し物らしきものを確認したあと、スレンは後ろを振り返った。
「ゾルグ! こっちだ!」
大きく両手を振ると、再びがなり声が返ってくる。
「オレのこと無視して、なにが『こっちだ!』だ! ふざけんなよ!」
スレンの同行者の青年――ゾルグがひとつに束ねた黒髪を揺らしながら、スレンがつけた足跡を辿ってくる。
「勝手な行動は慎めって、習わなかったのか!?」
口を開くのも嫌になるほど寒いのに、ゾルグはスレンの傍に来るまでの間、ずっと文句を言い続けていた。
数分反応しなかっただけで、随分な言われようだ。
風が入りこまないよう白い外套の前をあわせ、ゾルグはスレンの向かい側にしゃがみ込んだ。
「……で、何見つけたんだよ。くだらないもんだったら、オレのぶんの荷物を持たせるからな」
険のある顔でじとりと睨んでくる。
「くだらないもんのために、里長の息子たるあんたを振り回したりはしないって」
同胞の刺すような視線をかわし、スレンはスミレ色の瞳を地面へと向けた。
積もった雪を払いのけて最初に見えたのは、青白い肌だった。
次は、大きく見開かれ絶望を映した灰色の瞳。目はすっかり乾ききっていて、光がなかった。
(……恨みたっぷりな目をしてるな……)
軽口を叩き、鼓動が速くなる心臓をなだめる。
死体は見慣れているが、死体の“目”を見るのは、今も苦手だった。
大きく見開かれた双眸には、絶命する直前の記憶が映り込んでいるような気がして、たまらなく恐ろしい。
スレンは目が合わないよう視線を泳がせながら、亡骸の顔へと手を伸ばした。
目と口を閉ざしてしまえば、罠にかかった獣と同じ、ただの屍。怖くはない。
「ただの行き倒れの死体に、ビビりすぎだろ!」
ゾルグが嘲笑うように言うが、必死になって張り上げている声は、いつもより高い。
声に反応したように、亡骸の白い髪が、枯草のようにゆらゆらと揺れる。
ゾルグは喉から小さな悲鳴を漏らし、上体を反らした。
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