大人になるって
私の名前は霧籾香澄。57歳独身女子だ。
仕事は小さな会社だが社長をやっている。まぁ、会社は親から受け継いだもので、名前だけの社長であるが。
本来社長がするような仕事はすべて専務の平井くんにやってもらっている。彼は私と違って社交的なので助かる。
ああ、そういうことだ。私はいわゆる二代目ボンクラ社長。自分よりもずっといい給料を平井専務に渡して、遊んでばかりいるのだ。
遊ぶといってもゴルフとか酒場巡りとか、そんな社長らしい遊びではない。
主に私の遊びはマンガをレンタルして読み漁ることである。
キュンキュンするような少女マンガが好きだ。BLもいいが、やはり男女が青春してるやつが一番好きだ。
青春は、いい。
特に青春などというもののなかった私には、とてもいいものに思えるものだ。物々しいほどにそう思う。
少なくともマンガを読んでいる間は、私は恋する主人公になることが出来る。何しろ経験がないものだから、邪魔になるような知識などもなく、ゆえに大いに妄想に没頭する能力を有している。
マンガの中に入り込み、主人公の気持ちになって笑い、泣き、怒り、好きな男の子のことを心底からかわいいと思い、身をよじる。
40年以上、そういうことをしていたら、いつの間にかこんな年齢になってしまった。
精神年齢はJKのヒロインと同い年ぐらいだ。親からはもう諦められているようだ。実際、孫をプレゼントしてあげられることに関しては絶望的だ。
私はまともな大人ではないのだろう。
いいのだ。私は死ぬまでマンガの世界に生きる大人でありたい。
一体誰が大人の定義を決めたというのだ?
私は私らしい大人の形を選んだつもりだ。
「社長」
私が社長室で『アオッパライド』を読んでいると、専務の平井くんが入ってきた。
「ちょっと相談したいことが……」
彼は有能だ。しかしまだ24歳。わからないことがあればすぐに私に相談しにくる。
私のほうが仕事は出来ないのだから、他の誰かを選んだほうがいいと思うのだが、なぜかいつも私を頼る。
「どーしたんだい、平井くん」
私はマンガから目を離さず、聞いた。
「仕事のことならいつも通り、君の思う通りにすればいいんだよ」
「仕事のことではありません」
平井くんがまっすぐ見つめてくるので、つい私もマンガから目を離してしまった。
「話というのは……」
そう言って黙り込んだ平井くんの、閉じたまぶたにホクロがあった。
私の大好きなマンガのキャラと同じだ。歳も近い。あちらは教師だが。
平井くんが目をカッ! と開いた。
ま……、まさか求婚されるのであるまいな?
「社長っ! いえ……、香澄さんっ! 僕と結婚してくださいっ!」
当たりかよ。
「目的は……カネか?」
そう聞いたが、うちの会社は小さい。借金を引いたら資産などマイナスになるほどだ、たぶん。そしてそれについては彼のほうがよく知っている。
平井くんは言った。
「僕……、社長のような大人の女性を他に知らないんです」
「私を大人だと認めてくれるのか」
「社長は……素敵ですっ! 僕なんかどうせ33年もしたらふつうのよくあるつまらない大人になっているに違いない。社長みたいには、きっとなれません!」
「ならんほうがいいだろ」
「なろうと思っても私にはなれません! 57にもなってそんな若さを保てるなんて……素敵だ!」
「フフ……」
マンガを置くと、私は彼の前でシャキーンと立ち上がった。
「若さの秘訣はな、イマドキのマンガを読み、ネットで若者とディスり合い、そして決して同年代の者と話はせぬことだ。毎日チキンナゲットやハンバーガーを食い、運動はせずとも体内のサナダムシに肥満を防いでもらい、ゴロゴロしていても姿勢はまっすぐにするのも大切だ。そして何より、心だ。私は大人だが、私の心はいつまでも10代のままなのだ」
そこまで一気に言うと、なぜだか涙が止まらなくなった。
「正直、立派な大人のなり方なんてわかんねーんだよう。みっともねーとは思ってんよ。でも、わかんねーんだ。大人になるって……、何?」
平井くんがゆっくりと近づいてきた。
私の細い体をぎゅっと抱きしめてくれた。
そして、言ってくれた。
「いつまでも若くいてください。たとえあなたがボケて子供のようになっても、僕が面倒を見ますから」
「平井くん」
「香澄さん」
二人のくちびるがくっつきそうになったところで目が覚めた。
掛け布団を口にくわえながら、呟いた。
「私は……、平井くんのことが好きなのだろうか」
飛び起きて、顔を洗うため洗面所へ向かった。
「よし! 今日は平井くんに告白してみよう!」
平井くんは『33歳離れた社長と専務が恋に落ちるって変ですか? 大人になるってどういうことですか?』というマンガに出てくる美青年キャラだ。