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第八章「川の名前」

 夏休みに入った七月も終わりに近いある日の夕方、みなもはみずきに誘われて「暗渠(あんきょ)散歩」に行くことになった。東武東上線上板橋(かみいたばし)駅前で七時に待ち合わせる。夏至(げし)から一か月ほど。太陽は沈んでいるが、空にはまだ十分な明るさが残っている。

 みなもは白のポロシャツにベージュのキュロット。「今日は歩くからな」とみずきに言われていたので、足元はしっかりしたウォーキングシューズで固めている。

 みずきの方は深紅のタンクトップに、大胆にショートパンツ寸にカットしたウォッシュアウトジーンズ。足元はいつものビーチサンダル。小さなポシェットを持っている。

 トップモデルの休日スタイルみたい、と、みなもはみずきのかっこよさに、あらためて感嘆する。

 だが、そのままだと右肩のシーホース…タツノオトシゴのタトゥーが丸見えなので、みずきは薄いニットのカーディガンを羽織っている。これは、みなもからの要求。

「タトゥーも、お化粧やアクセといっしょで、ファッションの一つだって分かっているけど、欧米じゃともかく、日本じゃやっぱり人目につくし、そういう人と一緒に歩くのには、抵抗を感じるよ」

 そうでなくても、みずきちゃんて、昭和スケバンで、時々…いえ、しばしばヤクザみたいだし。と、これは思っても言わないこと。

「暗渠散歩は、昼間よりも宵のほうがいいんだ。さ、行こうか」

 みずきにうながされて、二人は駅前の商店街を歩いていく。


 ときわ通りの商店街から、右に折れて住宅地内を歩いていく。庚申塔(こうしんとう)や赤い鳥居の小さなお稲荷さんがあったりする、古い住宅地だ。駅から徒歩十分ほど。「そこ」は、とある商店の店先だった。元々は酒屋さんだったのだろう。食料品や雑貨も置いている小さな店だ。店の前の歩道に、狭い階段があって、下に降りられるようになっている。階段を降りると、コンクリートに三方を囲まれた、ちょっと不思議な空間だ。上の道からは二メートル以上低くなっている。そこから、細い道が先に続いている。クルマはもちろん入れない。自転車でなら抜けていけるか、というくらいの道幅だ。

「ここが前野川(まえのがわ)の『水源』なのさ。谷の一番奥、三方を崖に囲まれたところに水が湧く。それが流れて川となる。ミナミナんちの天諏訪(あますわ)神社もうそうだろう?」

 確かに、とみなもは思う。ここよりもずっと広く、周囲の崖は高いが、天諏訪神社もここと同じ地形だ。

「前野川って名前なのね」

「下流が前野町を通って流れていたから、そう呼ばれていたってだけ。本当の名前は…」

「本当の名前?」

「あ、まあ、それはいいんだ。さあ、行くぞ」

 みずきが先に立ち、二人並んで、すたすたと歩き始める。


 道は、くねくねと曲がりくねりながら、先へと続いている。一見、住宅地内の生活道路だが、普通の道とは様子が違うことに、みなもは気づく。最近建てられたと(おぼ)しき住宅はそうではないのだが、古い住宅や町工場は皆、道に「背中」を向けている。お勝手口みたいなドアがあったりするが、玄関を向けている家が無い。ところどころ、コンクリートの壁面から排水管のようなパイプが付き出していたりもする。

「道だと思うとへんてこだけど、元々は川だった、と思うと、何となく納得できるだろ?」

 と、みずきが解説する。

「暗渠って『上を塞いだ川』って意味だよね? ということは、この道の下の地面を川が流れているの?」

「そういう暗渠もある。ミナミナんちの神社の参道とかね。残念ながら、ここにはもう水は流れていない。かつて流れていた水は、もっと大きな下水道に誘導されていて、前野川のこのあたりは、完全に埋め立てられて何十年にもなる」

「そうなの」

 みなもは適当に相づちを打ちつつ「タモリみたい」と、同じ感想を、もう何度目になるだろう、心の中でリフレインする。地形マニアって、女子においては、あまり一般的ではないような…。でも、こんな風に解説し、熱く語ってくれてるみずきちゃんも、悪くない。オタクな男の子とのデートも、こんな感じなのかな?


「…という歴史があるわけだけど…」

 そこまで言いかけて、みずきの表情が変わる。

「どうしたの?」

「ミナミナ、振り向くんじゃないぞ。後ろからDQ獣(どきゅじゅう)があたしらを付けてきている」

「DQ獣?」

「それも、けっこう大きな奴だ。パピー級、いやラクーン級かもしれない」

「どうするの?」

「まずは距離を稼ごう。次のカーブを曲がったら、あたしが合図する。そしたら走るんだ。走れるよな?」

「がんばってみる」

 で、「今だ!」とみずきが小さく言って、二人は走り出す。運動部経験ゼロのみなもは、たちまち息が切れる。でも、みずきに手を引かれて、一生懸命走る。道端に放置してある自転車にぶつかりそうになり、転びそうになるのを、みずきが支える。

 二〇〇メートルほども走っただろうか。みずきが足を止める。

「よし、ここで迎え撃とう」

 そこは道幅がちょっと広くなっている場所で、ふり返ると後方の道は真っ直ぐ見渡せる。ここだったら、少なくとも後ろからの不意打ちは防げるだろう、と、みなもは思う。さすが、みずきちゃんだ。喧嘩(けんか)、というか、戦闘のセンスは抜群なんだ。

 みずきはカーディガンを脱ぎ捨て、ポシェットから文庫本を取り出す。角川文庫版の「古事記(こじき)」だ。合掌した両手の間に本を挟み。念を集中する。

 …が、何も起こらない。

「あれ?」

「どうしたの?」

「しまった。前回のパトロールの時に使っちゃって、そのまんまだったんだ。電池切れ、ってやつ?」

 道の後ろから、何か真っ黒なものがゆっくりと近づいてくる。五〇メートルほど離れた、街灯の明かりに照らされた場所に姿を現わす。DQ素(どきゅそ)が凝って生まれた真っ黒な獣、DQ獣だ。ずんぐりとした、犬で言えばチャウチャウぐらいの大きさだ。

「ラクーン級だ。それも二体、いや三体。こいつはちょっとしたピンチだぜ」

 と、みずきはつぶやくが、あまりあわてた感じはしない。

「まずは、これだ」

 みずきはポシェットから茶色いガラスの小瓶を取り出す。「オロナミンC」だ。

「ミナミナ、ちょっと冷たいけどかんべんな!」

 小瓶を開け、中の液体をみなもの頭に注ぎかける。

「あるま・あくあ」

 みずきがリンガ・ビブリアを唱えると、液体は薄青いスライムのようなものに変わって、みなもの全身を薄く覆う。

「みずきちゃん、これって?」

天諏訪(あますわ)神社の真名井(まない)の水。緊急用に持ってるんだ。あの水には元々マナが含まれている。ダシ入りの味噌みたいなもんよ。これでミナミナは大丈夫、と」

「でも、みずきちゃんは? 水はもう無いんでしょ?」

「ミナミナ、忘れたんか。ここは前野川の暗渠。つまり、あたしらは『川』の、まさにど真ん中にいるんだぞ」

「だけど、もう何十年も前に埋められて、水は流れてないって」

「川はある。今もここに。忘れちゃってるだけだよ。自分が川だったことを。だから、あたしが思い出させてやるんだ」

 みずきはあらためて合掌し、リンガ・ビブリアを唱える。

「川よ、川よ、数百年、いや数千年もの間、草を木を獣を鳥を、そして人を、この地の生きとし生けるものすべてを潤していた美しき川よ。思い出せ、汝の名を、汝の美しき名を。そして我に告げよ!」

 目を閉じて、意識を集中する。

 DQ獣どもは、すぐそこまで近づいている。身体から放出されるDQ素が、濃い黒い霧となって、空中に漂っているのが、みなもに見える。前にわたし、あれを吸い込んじゃったんだ、と、みなもは思い出す。頭が痛く、気が遠くなりそうだった。今、わたしが平気なのは「あるま・あくあ」、つまりアクアの「水の(よろい)」で守られているから。だけど、みずきちゃんは? みずきちゃんは大丈夫なの? みなもは両手の拳を固く握りしめる。

 みずきはまったく動じていない。やがて、ゆっくりと目を開く。

「聞こえたよ。本当に小さな、かすかな声だったけど、あたしの耳にしっかりと届いた。《メム・トイ・フレ・ナイ》。メムは泉、ナイは川、そしてトイ・フレは赤い土。すなわち『赤土の泉の川』。それが君の本当の名前、真名(まな)なんだ。教えてくれてありがとう」

 にっこりとみずきは微笑む。

「古き縄文の昔より、ここ武蔵野の台地に流れ、人々に大いなる(さち)をもたらしてきた(うるわ)しき川、《メムトイフレナイ》よ、今ここに図書委員・哀川(あいかわ)みずきが命ず、甦れ!

 いん のおみな びぶりおてかりあ まぎか!」


 みずきがリンガ・ビブリアを唱えると、ごおっと凄まじい音が周囲に響き渡る。そして、みなもの目の前が、突然、真っ青に染まった。煙? 霧? ちがう、水だ。

 道全体に、なみなみと水が満ちて、ごうごうと流れる巨大な水路と化している。その水の中に、みずきとみなもは立っている。水中なのに息が出来るのは、なぜ?

 みなもが見れば、ラクーン級のDQ獣三体は、地面から浮き上がって、水中にでバタバタともがいている。溺れているんだ、とみなもは気づく。真っ黒な身体の表面が激しく泡立ち、その泡はしかし、水面に上がる前に水に吸い込まれて消えていく。

「DQ獣を溶かしてDQ素を中和してやがる。凄まじいマナの力だぜ」

 みずきが茫然とつぶやく。

「もう、あたしには何もすることがないってか」

 DQ獣の身体は、次第次第に小さくなる。アライグマが、小イヌに、小ネコに、ネズミくらいに縮んで、そして、消え失せた。

 その十数秒後だっただろうか、周囲の水それ自体が瞬時に消滅した。

 みずきとみなもは、前と同じ路上に立っていた。服も身体もまったく濡れていない。足元の地面は乾ききっている。

 みなもは、想像を絶した事態に、立ったまま硬直している。

「ありがとう、《メムトイフレナイ》『赤土の泉の川』」

 みずきは深々とお辞儀をする。みなももあわてて後にならう。


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