第四章「暗渠」
それからの毎日、皆本みなもは、図書委員・哀川みずきの「侍」=アシスタントとして、活動を手伝うことになった。みずきに最初に連れていかれたのは、学校の図書館だった。
「当たり前だろう、あたしは図書委員なんだから。…まさか水芸専門の手品師か何かだと思ってたんじゃないだろうな?」
本を貸し出したり、返却したりするカウンターには、各クラスから図書係の生徒がローテーションで入っている。図書委員じゃない、一般の子たちだ。パソコンに繋がったバーコードリーダーを本にあて、手際よく処理していく。ごく簡単な軽作業だ。
みずきとみなもの仕事は、もっぱらバックヤードである。
「図書館にはよく行ってたのに、みずきちゃんとは会ったことがなかったのは、こういうわけだったのね」
「あたしらの仕事は裏方。縁の下の力持ちってわけさね」
まずは本棚の本を整理する。生徒たちから返却された本を元の棚に戻す。これが結構な重労働だ。図書館の本棚は、独特の配列で並べられているので、みなもは最初の数日は、本を何冊も抱えて棚を探し、図書館中を迷い歩くことになった。本の重さに腕が痺れ、その直後の授業中に、シャーペンが持てなくなることさえあった。
本をチェックして、破損したものがあったら補修する。これはみずきの手際がいい。
新たに購入した図書に、ブックコートと呼ばれる塩ビの透明シートを貼り付ける。気泡が残らないようキレイに貼るには、かなりの神経を使わされる。バーコードシールを貼り付けて、パソコンに登録し、書名、著者名、分類などの、書誌情報を入力する。
館内で作業中のみずきは、普段はかけない、黒縁のメガネをかけている。
「裸眼じゃ視力0.3かそんなもんで、ちょっと離れたところにある本だと、背のタイトルも読めないんだ」
ああ、だからあんなに目つきが悪いんだ、とみなもは納得する。
「ふだんもメガネするか、コンタクト入れたらいいのに」
「やだよ、メガネはめんどくさい。コンタクトなんて、目の中に何か入れるなんておっかない。それに水の中なら両目とも2.0なんだぞ」
みずきは、わけのわからない自慢をする。
「そもそも、陸のことはどうでもいいのよ」
みなもが驚かされたのは、みずきの「選書」だった。
生徒たちが書いた「購入リクエストカード」を、みずきはあっという間に処理する。「許可」「不許可」「保留」と箱が三つあり、ぽんぽんと仕分けていく。
「まんがやラノベは問題外だけど、それ以外なら何でもいいってわけじゃない。特に小説には、風紀を紊乱するものもあるからな」
と、カードの一枚を手に取り、
「こいつ、十冊もリクエストして、全部BLじゃんよ。自分で買え!」
「不許可」の箱に放り込む。
「これもダメ。一般小説を装ってるけど、BL界の大御所・陸奥山愛子の別ペンネームで、三十ページも使ってイケメン能楽師五人の乱交シーンがある」
ぽいっと「不許可」の箱に。
「よく分かるね、みずきちゃん。読んでるの?」
「まあな。パラ読み程度だけど。それに、あたしくらいになれば、読まなくたって中身はだいたい分かるのよ」
リクエストカードの次は、本の問屋である取次から毎月送られてくる、分厚い新刊書のリストだ。ぱっぱっとめくって、必要な本をサインペンでチェックしていく。
「こんだけ大量に本が出版されても、読まれてるのは、ほんのわずかなんだよな」
「そうなの?」
「まあ、うちの学校はそこそこ偏差値高いし、勉強してる子も多いから、読まれる本も多種多様で、その分、選書にも気を使わされるけど、フツーの学校や区立図書館なんかだと、年に何冊もないベストセラーに順番待ちが何十人も並ぶいっぽう、せっかく買っても誰も読まない本が相当量あったりしてさ」
「詳しいのね、みずきちゃん」
「だから、図書委員なんだって。見直したか、ミナミナ? 昭和スケバンが実はバリバリ本を読むインテリゲン子ちゃんだったって」
聞かれていたか、と、みなもは心の中で舌を出す。でも、やっぱり「メガネかけて本に詳しい昭和スケバン」に見えるよ、みずきちゃん。
みずきはみなもに「マナ」について説明する。
「簡単に言うと古い本に宿るエネルギーだ。あたしら図書委員は本からマナを引き出して利用する。どんな本でもいいんだが、本が古けりゃ古いほど大量のマナが宿る。『古い』というのはまずコンテンツとしての古さ。板橋派の図書委員が使う『古事記』は西暦八一二年に書かれたといわれてる。ざっと千二百年の時間がマナを究極に成熟させている。もう一つは本それ自体の古さ。理由はよく分からないけど、印刷された本は最低でも十年くらい経たないとマナが安定せず、うまく引き出せない。また、コンテンツを読み込んで理解すればするほど、大きなマナが引き出せる。板橋派は全員『古事記』を丸暗記している。それで文庫本一冊から、あれだけのマナを引き出せるんだ」
「『古事記』以外でもいいのね?」
「同じように、たとえば北区…北派の図書委員は『聖書』、豊島派は『楚辞』を使う。練馬派は板橋派と同じ『古事記』だ。元々は同じ区だったからな。特別に読み込んだ本以外からもマナは引き出せるが、そうだな…うちの図書館の蔵書が一万冊として『古事記』十冊分くらいかな。効率が全然違う」
みずきはみなもに文庫本の「古事記」を見せる。
「あたしは常に三冊は持ち歩いてる。予備のバッテリーみたいなもんだよ」
「みずきちゃんは、水の力を使うアクアなのよね」
「他に火の力を使うイグナ、風の力を使うウェンタ、大地の力を使うテッラがいる。東京じゃほとんどがイグナかアクアで、ウェンタは一割もいない。世田谷とか杉並の方に片寄っていて、今の板橋派には一人もいない。逆に関西はウェンタが多い。特に京都は八割以上がウェンタだ。空を飛べるんだぞ。テレビで観たことないか?」
「ああ、京都の夏の祇園祭の時に、清水の舞台から中学生の子たちが風呂敷みたいなのをしょって飛ぶセレモニーね」
「ウェンタの羽衣だ。マナを風の力で使い、その風を羽衣で受けて、ハンググライダーみたいに飛ぶんだ。新人はでかい風呂敷が必要だけど、上級生になれば学校の制服のまんまで、何百メートルも飛べるらしい。『天狗』と自称している」
「あとはテッラね」
「テッラは希少種で百年に一人と言われている。今日本にいるのは紫蓮院香織ってアラフォーおばさんで、全国の図書委員会のヘッド。旦那は衆議院議員だったと思ったけど…落選してなけりゃ」
「偉い人なのね」
「別格だよ。ぐらびて・てっら…通称『地獄のハンマー』という大技で、半径一キロの地面を陥没させられるらしい。核兵器並みだよ」
「もう一つ、みずきちゃんの『十両十五枚目』ってのは何なの?」
「それは…」
と、みずきは軽く赤面する。
「相撲取りみたいな番付表があるんだ。前年の実績によって、序の口、序二段、三段目から、幕下、十両、前頭、そして三役と。あたしは今年『十両』の十五番目ってことだよ。図書委員全体で言えば、中の上くらい」
「なんでまた番付なのよ?」
「あのな、図書委員の中には協調性がなく、わがままで勝手な奴もいて、組織の統制を乱しかねない。番付で上下関係を明確にしとく必要があるわけよ」
なるほど、みずきちゃんみたいなのがいるからね、とみなもは納得するが、顔にも口にも出さない。
「これは東京だけの風習で、大阪じゃ違うんだろ? 花組とか月組とかトップとか。京都じゃ花魁の位を使ってるらしいし」
その週の終わり、金曜の夜、みなもはみずきの「パトロール」に初めて同行した。午後七時に相生陸橋近くのスポーツ施設「ラウンドワン」の前で待ち合わせる。みなもは「校外活動時の服装」と校則に書かれている通り、制服のセーラー服だ。みずきは、いつもの着崩しセーラー。ちょっと離れた、人目につかない路地で、みずきは持参した「古事記」からマナを引き出してチャージする。みずきの身体に、ぼんやりと薄青いオーラが宿る。
「あたしの担当地区は西台、若木、中台で、坂道だらけでけっこうしんどい。でも、みなもんちの天諏訪神社があるんで助かってる」
「どういうこと?」
「今に分かるよ」
二人は若木通りの坂道を登り、若木小学校前を左折する。細い坂道が複雑に交差し、ところどころに「このさき行き止まり」「車輌通行不可」などの標識がある、立体迷路のような住宅地を歩いていく。
「このあたりで三年前に大規模なDQ素噴出事故があってな。DQ素中毒者が何万人も出て大変だった。それ以来、重要パトロールエリアになっているんだ」
「DQ素って、マナの正反対のエネルギー…だったっけ?」
みなもはみずきのレクチャーを思い出す。
「そう。マナが知識と理性の源なら、DQ素は無知と退廃の元凶の黒い霧。浴びた人間の知性を奪い、ゾンビみたいな獣に変えてしまう」
「ゾンビって…」
「そのうち、ミナミナも出くわすことになる。でも、あたしがいれば大丈夫。タイタニック号に乗ったつもりでいればいい」
「タイタニック号って、処女航海で氷山に激突して沈没した?」
「間違えた。クイーンエリザベス2世号…も会社が潰れたんだっけ。そうだ、ぱしふぃっくびいなす号だ。二万六千トンの。どっちにしても『大船』だよ。どーんとこい、ってんだ」
向こうから歩いてくる人影をみずきが認め、「おーい」と声をかける。手を振る。やってきたのは、高校生と思しきカップルだ。男子は普通の学生服の夏服スタイルにスポーツバッグだが、女子の方は…。
スクール水着…ですかあ。とみなもは心の中で嘆息する。紺のスクール水着に足元はビーチサンダル。スイミングキャップにゴーグルまで装着してる。みずきから聞いてはいたが、閑静な住宅地を歩いているのを見ると、相当にへんてこだ。みずきも本来はこのスタイルが図書委員会の規則なんだそうだが、平然と無視し、いつものスケバンセーラー服なのが逆にありがたい。
「よお、えりちん」
「こんばんは、みずき姐さん」
えりちんと呼ばれたスク水少女は、キャップとゴーグルを外して挨拶する。日焼けした肌にボーイッシュな短髪の、明るくて健康そうな女の子だ。
「ご一緒にいらっしゃるのは、ご指導中の『妹』さんですか?」
「ちげーよ。妹弟子じゃなくて『侍』だ。博徳のタメで皆本みなも。今後よろしく頼むわ」
「女子の『侍』…。それはそれは。お見かけによらず、さぞかし凄腕の…」
ちゃうちゃう、ちゃいまんがな。見かけどおりの細腕で…と、心の中で両手をブンブン振って否定しているみなもに対し、えりは深々と頭を下げる。
「はじめまして。都立高島高校一年二組、図書委員幕下二枚目、桐野えりと申します。属性は、ご覧の通り、みずき姐さんと同じアクア。よろしくお願いいたします」
「は、はい。博徳学園高等部二年A組の皆本みなもです。こちらこそよろしく」
「彼は、この春からわたしの『侍』をやってもらっている、クラスメートの岡田将吾君。同様によろしくお願い申し上げます」
「岡田っす。ラグビー部一年でまだ補欠っす」
ぺこりと頭を下げる。
「はい、こちらこそ」
と、みなも。
「どうだい、今晩の様子は?」
みずきがえりに尋ねる。
「坂下から相生町はグリーン。DQ素も検知されていません」
「そっか」
「だけど、一昨日の晩、四葉のジョナサン付近でDQ獣の目撃情報が。ラット級が一体とのことで、大したことはないと思いますが、ご注意ください」
「了解。えりちんも気をつけろよ。じゃな」
情報交換を済ませて、えり&将吾と別れた、みずきとみなもは、板橋区屈指の大規模マンション街である、中台サンシティのまん中を抜ける谷間道を下っていく。都内でありながら、鬱蒼と茂った木々に囲まれた、渓谷のようなたたずまいの道だ。そこを抜けると首都高五号線下の道に出る。左に曲がると、相生陸橋を通過して、みなもの家である天諏訪神社近辺、さらに先に行くと博徳学園だ。
「前から思ってたんだけどさ、みずきちゃん、このあたりって何かいつも暗くて湿っぽいよね。崖下で、さらに上に高速道路で蓋されてて、日当たりも悪くてさ」
「ここはな、ミナミナ。暗渠なんだ」
「暗渠って、みずきちゃんが前に教えてくれた『元は川だった場所』ってことね」
「そう。出井川って言って、元々は相当に大きな川だったんだぞ。何千年もの間、武蔵野台地を流れて、深い谷を刻んだ。この崖も、出井川が作ったんだ」
みずきは、サンシティの建つ高台を指さす。みなもたちが立つ首都高下の歩道から、二十メートル近い高さがある。垂直の崖はコンクリートでしっかりと固められている。
「反対の志村側はもっと高い。中世の戦国時代には、お城が築かれていたくらいだ。出井川に臨み、荒川流域の低地に向かって張り出した高台で、軍事的な要衝だったのさ」
「みずきちゃん、よく知ってるね。タモリみたいだね」
「まーなー。でも、明治以来、まわりの都市化が進んで、川の流れは細くなっていった。昭和の高度成長期には、周囲の生活排水が流れ込むドブ川になっちゃってさ。かわいそうに。で、トドメが高速道路だ。川の上なら用地買収の手間がいらないってんで、川を埋めて暗渠にして、上に高架の高速道をかぶせちまった、ってわけ。それから、もう五十年以上経つ」
「そうだったの」
「でもな、ミナミナ。川ってのは、そう簡単には無くならない。小賢しい人間どもに埋められ、水脈を断たれたとしても、川が流れた時代の記憶…水の記憶が土地に残っている限り、川はいつか、必ず復活する。アイハブアドリーム。それがあたしの夢なんだ。夢、そして野望。そのためには、何としても天諏訪神社を…」
夢見るように瞳を輝かせながら、みずきは語り続ける。
「うちの神社をゲットするの?」
みなもが突っ込んだところで、みずきは「うわっ」と声を上げる。
「あたし、口に出して言ってた? どこまで聞いた、ミナミナ」
「何か、みずきちゃんの野望の王国を実現するために、おばあちゃんを打倒して、天諏訪神社を我が物にする…とか」
みなもは話を盛り上げて、適当に脚色する。
「そこまで言った? あたしってば、そこまで言っちまった?」
「本気なの? あきれた」
えへんえへん、とみずきは咳払いする。
「まあ、ババアとは当面は国共合作的な協力関係でやってくつもりだけどさ…今の話はババアにはないしょにして! お願い、ミナミナ」
みずきはみなもに向かって合掌する。
「言わないけど、多分気がついてると思うよ。おばあちゃん、鋭いから」
と、みずきが足を止める。
「どうしたの?」
「二時方向五十メートル。DQ獣だ」
と、みなもがそちらを見ると、高架下のナトリウム灯の影から、ネズミくらいの大きさの、真っ黒な小動物が這い出してきた。一匹、二匹、…五匹もいる。
みなもは、空気の中に鉄が酸で焼かれるような、金属臭の嫌な匂いが漂っているのを感じる。ちょっと嗅いだつもりが吸い込んでしまう。とたんに頭がずきずき痛む。目の前が何だかゆらゆらする。足がふらつき、膝が崩れそうになる。
「しまった、こちらが風下か」
みずきはみなもの身体を支え、肩を抱いて、ちょっと離れたところにある歩道橋の階段を登らせる。途中まで登ったところで階段に腰を降ろさせる。
「DQ素だ。地面の低いところを流れてきたのを吸い込んだな。今、治してやる」
みずきはスポーツバッグから五百ミリリットル入りのペットボトルを取り出し、中の水をみなもの頭にかけてやる。みなもは、青い、冷たい霧のようなものが自分の身体を薄く覆っていくのを感じる。次にみずきはペットボトルをみなもの口にあててやる。
「いっきに飲み込まなくていい。口にふくんで、喉になじませるようにして…」
みなもが水を少し飲むと、激しかった頭痛が軽くなる。視界が回復して、すぐ目の前にみずきがしゃがみこんでいるのが分かる。
「正気に戻ったか、ミナミナ。大丈夫、ほんの軽いDQ素中毒だ」
「みずきちゃん、わたし…」
「ミナミナはここにいろ。水は飲めるだけ飲んでろ」
みずきはみなもにペットボトルを渡し、スポーツバッグから新たにボトルを一本取り出す。歩道橋の階段下に立って、周囲を確認する。
「正面二十メートルにラット級五体。で、左右と後ろから二体、いや、三体ずつか。図書委員の戦術教典通りの、包囲陣形の、ど真ん中じゃんよ」
みずきたちを包囲しているのは、闇が凝って固まったような、真っ黒な小さな四足獣どもだ。頭もただ黒いだけで目も口も無い。その一匹が、ゆっくりとコマのように回転し始める。続いて、隣りの一匹、さらに隣りも。回転がどんどん早くなっていき、きいいいんという風切り音が、高速道の高架に共鳴する。
「やるっきゃねえってか」
みずきはペットボトルの水を頭からかぶる。
「あるま・あくあ」
みずきがリンガ・ビブリアを唱えると、水は青いスライムのような物体に変わり、みずきの身体を覆う。アクアの図書委員の肉体を防御する「水の鎧」だ。
きいん!と風切り音が高くなり、DQ獣の一体が弾かれたように宙を飛び、まっすぐみずきに向かってくる。みずきは右手で払いのける。獣は地面に落下し、パワーショベルで削っったように、アスファルトが裂けてめくれ上がる。DQ獣は再度回転を始める。
きいん!きいん!と次々にDQ獣が襲いかかってくるのを、みずきはサイドステップ、バックステップで交わし、避けきれないものは平手で払いのける。
「イグナなら、こんなネズミども、簡単に焼き殺せるんだが、専守防衛のアクアにとっちゃしんどいところ。でも、あたしは並のアクアとはひと味違うぞ」
みずきはペットボトルの水を口に含み、ぷーっと霧にして吹き出す。
「ねぶら・あくあ」
青い霧がみずきの周囲に立ち込め、DQ獣どもの動きが一瞬止まる。
「とろんば・でら・まーら」
みずきが叫ぶと、霧は渦を巻き、みずきを中心にして竜巻のように激しく回転する。DQ獣たちは渦に飲み込まれて、宙に浮き、ドラム式洗濯機の中の洗濯物のように、ぐるぐると回転する。
「仕上げはこれ。いえろ・でら・しえら」
みずきのリンガ・ビブリアで、竜巻が瞬時に真っ白に凍りつく。水が氷の粒になって、DQ獣たちを覆い尽くす。バタバタと地面に落ちて、そのまま動かない。
「うまくいったか?」
みずきがDQ獣の一体を確認すると、ネズミ大の黒い身体に霜が凍りついてまだらに白くなっている。軽く蹴ってやると、そのままころり、とアスファルトの上に転がる。かちんこちんに凍りついている。
「みずきちゃん、大丈夫?」
みなもが声をかける。
「おお、ミナミナ。回復したか。よく効くだろう。ただの水じゃない。天諏訪神社に湧く真名井の霊水。あたしのバイト代さ」
みずきは首都高下の道路公団清掃事務所にあった、掃除用の熊手を拝借してくる。凍りついたDQ獣どもを熊手で引きずって、一箇所にまとめる。
「直接触るとエンガチョで、汚染されるからな。凍ってるうちは無害なんだ。溶け出す前に処理しちまえばオケー、と」
みずきはスマホを取り出して、図書委員会に電話する。現在地とDQ獣のランクと数を報告する。
「ラット級じゃ大したポイントにならないんだが、こんだけ数があれば、報奨もちょっとは期待できるかな」
「哀川先輩! みずきお姉さま!」
みずきを呼ぶ声がして、男女のカップルが駆け寄ってくる。女性は、これまた異様な風体だ。灰色のフード付きローブで全身を覆っていて、足元は裸足だ。男性の方は身長およそ一九〇センチ、推定体重一〇〇キロ以上の大男でジャージ姿。ゴルフバッグを背負っている。
「みずきお姉さま、お久しぶりです」
女性がローブのフードを脱ぐ。現れたのは、鮮やかな赤毛で、アメリカ原住民のような赤い肌の少女だ。その身体から放射される熱線を、みなもは感じる。初めて見るけど、これがイグナの図書委員だ。マナの力で「変身」してるんだ。体温が五百度くらいになってる、とか。同行の大きな男の人は『侍』ね。プロレスラーかしら?
「ああ、緋柱烈花か。何でこんなとこに? おめえの担当エリアは高島平だろ?」
と、みずきが指摘する。
「お姉さまの電話を盗聴したんですよ」
烈花と呼ばれた少女は、しれっと常識を超えた発言をする。
「で、ヘルプに参上した、と。DQ獣はあそこですね。わたしの『炎』で処理して差し上げようと」
「回収車呼んだから大丈夫だよ。こんなところで焼いたら危ないだろ」
「今は七月中旬。板橋区の現在の気温は三〇度。回収車が来るまでにDQ獣が溶けたなら、それこそ危ない事態に。わたしはまだ中三とは言え、番付は十両十七枚目。十両十五枚目のお姉さまとはほぼ同格。そのわたしの申し出ならば、お姉さまにおかれましも、それなりに尊重していただきたく思うのですが?」
言葉は丁寧だが、相当に差し出がましい。みなもは正直「どうかと思う」が、口には出さない。
「ふん。だったらやってみれば。でも、火力は十分に絞れよ」
と、みずき。
「カルロス!」と烈花は侍に命じる。「七番アイアン」
「ういっす、お嬢」
レスラーがゴルフバッグからクラブを一本取り出し、烈花に手渡す。
「年上を呼び捨てかよ。おまけに『お嬢』だと?」
みずきが低くつぶやく。
「ぺろた・いぐな」
烈花がリンガ・ビブリアを唱えると、ぼっと音がして空中にオレンジ色の炎が出現する。烈花が念をこめると、炎はゴルフボール大の火球に収縮して、すうっと地面にむけて降りていく。烈花はゴルフクラブを振り上げて、思いっきりショットする。火球はぽーんと放物線を描いて、DQ獣の集積に向かって落下する。いや、違う。ちょっと距離が遠い。
地面に落下した火球は、ぼおおんと派手な音を立てて炸裂する。その炎がDQ獣を焼き尽くす。じゅうううっと鉄が焼けるような音がして、黒煙が上がる。それだけじゃない。その先に立っていた街路樹複数にも炎が到達し、ぶわっと燃え上がる。
「言わんこっちゃない、馬鹿め」
みずきはスポーツバッグの中からペットボトルを取り出す。ごくごくごくと全部飲み込んで一気にぷーっと 吐き出す。
「ねぶら・あくあ・とろんば!」
みずきが吐き出した水は、小さな青い嵐となって、街路樹に吹き付ける。たちまちのうちに鎮火する。
「だから言っただろう、バカ烈花!」
みずきが振り向くと、烈花はゴルフクラブで侍を打擲している。
「この抜け作! わたしは七番って言ったよね? 何で五番出したんだ。おかげで、お姉さまの前で大恥をかいたじゃないか!」
二度、三度と打ち据えるところに、みずきはすたすたと歩み寄って、その手からグラブを奪い取る。ぽいっと放り投げて、右手を振り上げ、烈花に強烈なビンタを見舞う。
「てめえのミスを『下』のせいにするな。最低だぞ!」
「え、何、お姉さま、お姉さまがわたしをぶった? わたしを、お姉さまが…」
烈花は呆然としている。侍のカルロスがみずきの前に立つ。
「あ、あの、哀川のお嬢。おいらは別に大丈夫で。いつものことなんで…」
そのカルロスの額に、古傷が複数刻まれているのに気づいて、みずきが逆上する。
「烈花、てめえ、いつもこんな調子なんか!」
烈花の瞳に憎しみの炎が宿る。
「お姉さまと言えども、こんな仕打ち、許せない!」
ぼおっと、テニスボール大の火球が烈花の前に出現する。
「ふざけんな、バカ烈花!」
みずきは言い捨てて、両手で火球をばあんと叩く。カッと強い光が差して火球が消滅する。相撲四十八手の「猫だまし」の強烈版だ。スタングレネードのような光と音で瞬間、視力聴覚を失った烈花の顔面に、みずきは全力の右ストレートを叩き込む。「ぐはっ」と烈花の身体が宙に浮き、数メートル向こうの地面に叩きつけられる。
「ぬえぶろ・あくあ!」
みずきがリンガ・ビブリアを唱えると、街路樹を鎮火して、なおも余力の「水」が、空中に集結して濃密な雲になる。真っ黒な黒雲に成長して、烈花の頭上を覆う。バチバチッと空電が走り、烈花の足元、数十センチのところに落雷する。ぴしゃーんと凄い音がする。
「ひいっ!」と烈花は悲鳴を上げる。
次の瞬間、黒雲はスコールとなって、烈花に降り注ぐ。じゅーっと蒸気が上がって、烈花のイグナの身体から「火」の力が奪い取られる。
地面に小さな水たまりができて、そこに灰色ローブの少女が倒れ伏している。身長が十センチほど縮んで、赤かった肌は白く、鮮やかな赤毛も黒髪に変わっている。強制的にマナを抜かれたショックで完全に気を失っている。
みずきは烈花の身体を抱き起こし、動悸と呼吸が正常なのを確認する。
「カルロス!」と、烈花の侍を呼ぶ。
「はい! 哀川のお嬢」
事態を呆然と見守っていたカルロスが、弾かれたようにみずきの元に駆け寄る。
「その『お嬢』ってのは禁止な。小娘を甘やかしてんじゃねーよ」
みずきが叱責する。
「烈花は気絶してるが、ケガも何もしてない。手数かけてすまんが、ヤサまで届けておくれ」
「はい、哀川の…みずきさん」
「おめえもな、カルロス赤塚。いたばしプロレスのホープだろ。ガタイ十二分のいい男なんだから、こんな小娘のワガママに唯々諾々と従ってんじゃねーよ。侍は図書委員のパートナー。立場は『下』だとしても、召使いじゃねーし、まして奴隷じゃねえ。烈花が無理言ったら『それは違う』とキッパリ否定してやれ。それでも四の五の抜かすようなら、張り手の一発二発もかまして、目ぇ覚まさせてやれ。それこそが真の『侍』の道だ。分かったか!」
「は、はい! みずきさん」
…て、みずきちゃんが言うのも、ある意味、相当レベルの無理筋の「命令」だよね、とみなもは思うが、口には出さない。
「来月のグリーンホールの定期戦、期待してるぞ。がんばれよ」
ちょっとだけ優しい声で、みずきがカルロスを激励する。
カルロスは、烈花を背中に背負って、ぺこぺこと頭を下げて、去っていく。
「あたしはさ、弱い者いじめとか暴力を見ると、がまんできないんだ」
おいおい、あんたのビンタやグーパンチは暴力と違うのか? それに、烈花ってイグナの子の方が、みずきちゃんより確実に「弱い」よね。と、みなも心の中で突っ込む。で、言葉を選んでみずきに伝える。
「みずきちゃん、いくらなんでも雷を落とすなんて、やり過ぎだよ」
こういうのこそが、わたしの「仕事」なんだ。わたしはみずきちゃんの友達ってだけじゃなく「侍」…パートナーなんだから。
「ちゃんとギリギリ外したぞ」
「当たり前だよ。相手はまだ中学生でしょ。かわいそうじゃないの」
「ミナミナさあ、あたしは烈花のことは前からよく知ってるつもりだけど『かわいそう』なんてタマじゃねえんだよ。多少出世が早いからって増長しやがってさ。誰かがガツンとやってやんなきゃ、逆にダメになっちまうんだよ、ああいう手合いは。
だけどまあ、姉弟子の…板山玲子が家庭の事情でスランプだったところに、烈花が追い抜いて、先に十両なっちまったもんで、それもあって、あんなになっちまったんだよな」
「そうなの?」
「新人にとっては、尊敬する姉弟子こそが『ああなりたい』という目標なんだ。それが修業の何よりもの励みで、がんばろうっていう動機づけなのに、早い時期に追い越しちまったら…なあ」
はああ、とみずきは嘆息する。
「それに、あいつが侍をしばいた気持ちも、分からんわけじゃなくてさ。あたしらアクアにとっちゃ、万事が適当で、水の一リットルも一〇リットルも、そんなに変わるもんじゃないけど、烈花みたいなイグナにとっちゃ、爆薬一キロと一〇キロの違いなわけだ。ちょっとしたミスで『フレンドリーファイア』もあり得るわけで」
「友情の炎?」
「ちげーよ。誤爆だよ。味方の頭上に火の玉を投下しちまうってこと。味方を焼き殺すかもしれないって、その可能性だけで、胃がキリキリ痛むほどのストレスがあるんだって、イグナの先輩に聞いたことがある」
「ああ! しっかし『水』の無駄遣いも痛かったよな。バカ烈花の鎮火で余分にボトル一本。一晩でボトル三本だなんて」
みずきが愚痴る。
「みずきちゃん。うちの泉の水なんて、いくらでも汲んできてあげる。約束するよ。そもそも、バイト代が水だなんておかしいよ」
「でも、超貴重な霊水で神社の神事にしか使わない。使う時には二礼二拍手一礼が必須ってババアが言ってんだぞ」
「それは嘘」と、みなも。
「おばあちゃんが祝詞あげてた頃は、ほとんど枯れかけてたんだって。その頃は確かに『貴重』だったかもしれない。でも、みずきちゃんがバイトに来てくれるようになったら、ガンガン湧くようになったって。おばあちゃんは『やっぱ水神様も若い娘の方がいいのかねえ』なんて喜んでて。水道屋さん呼んで工事してもらって。今うちで使ってるお水、ぜんぶ泉の湧き水。お炊事も、お洗濯も、お風呂も、トイレ流すのも」
「あんのゴーツクババア!」
ぶち切れるみずき。
「泉のお水、とってもおいしいのよ。スーパーで特売の安いお米でも、うちで炊くと最上等の魚沼産コシヒカリよりおいしいご飯になる。みずきちゃんも今度うちにご飯食べに来てよ。わたしがお料理作ってご馳走する。何が好きか教えて」
「え?」
「わたし、チキンサラダとか得意だよ」
「んー、じゃあ、マルセイユ風ブイヤベース」
「ブイヤベース?」
「魚介類たっぷり入れたスープ。おいしいんだぞ。あたしが材料仕入れて持ってくからさ、ミナミナ、いっしょに作ろう。あの水で作ったら最高だよ。二人で食べよう。ババアも食うっつうならしっかり金を取る。テーブルチャージと消費税も」
「ばーか。でも楽しそうだよね」
ふふっ、と笑い合うみずきとみなも。