第二章「帝都府天諏訪神社」
私立博徳学園女子高校中学の高等部、二年A組は理想のクラス。担任の美山純子教諭(二五歳独身。イケメン婚約者あり)は、先生というよりも、優しくて頼りになる、みんなのお姉さん。クラス委員の石田きらら以下、三十名の女生徒は、姉妹のような温かい友愛で結ばれていて、学業、スポーツ、課外活動と、互いに助け合い、輝かしい未来へ向かって歩んでいく。
でも…と、皆本みなもは、昨日の事件を思い出す。
教室のドアを蹴り開けて、教壇に仁王立ちして「いじめ」を告発した、図書委員・哀川みずきの姿を。その後、教師以下、全員号泣のパニック状態になった教室のことも。
みずきを教室から連れ出し、保健室に送り届けたみなもは、みずきをベッドに座らせた。
「一時間目が終わるまでは、ここにいてくださいね。B組の菊地先生には『哀川さんは体調が悪いので保健室で休んでいます』って伝えておきますから」
「いや、でもよお」
「嫌でも、ですよ」
口調がキツくなりすぎないように気をつけながら、でもキッパリと命令する。
「分かったよ、皆本みなも。…ミナミナ」
誰が「ミナミナ」やねん!とみなもは心の中で毒づく。
「あの、悪かったよ。迷惑かけちまったな。ごめんなさい」
そう言って、みずきはベッドに突っ伏して、次の瞬間、眠り込んでしまった。くーくーと軽くいびきさえかいている。
「はあ…」
みなもはあきれたが、そのまま保健室を出る。
B組に行ってクラス担任の菊地良子先生と話して、それからA組に戻って…。はああ、大変だ。で、一時間目は美山先生の英語リーダーじゃない。こんなんで授業なんてできるのだろうか?
翌日の昼休み、クラス委員の石田きららが「ちょっといいかな」とみなもに声をかけてきた。生徒指導室で、二人だけで話をしたい、と。
指導室のドアを閉め、机をはさんで座る。二人っきりだ。三つ編みメガネの、いかにも優等生らしいきららが、今日は多分に緊張している様子をみなもは感じ取る。
「他のみんなも話したいって言ったんだけど、大勢で来たら皆本さんが困るだろうって、わたし一人にしてもらったの」
「昨日のことならもういいですよ。わたしより、みんなの方が大変だったんだし」
「いえ。ちゃんと話させて」
と、きららが話し始める。
「うちの学校は、幼稚園から大学までつながっていて、小学校や中学校から新しく入ってくる子はいても、転校生ってほとんどいないの。まして高校生の転校生は、皆本さんが初めてかもしれない」
「そうなんですか?」
「みんなにしてみれば、転校生なんて、テレビドラマやまんがでしか見たことがない。それも大阪からでしょ。皆本さんがいらっしゃる前から、どんな方かしら、と想像して話し合っていたのよ。でも、思ってたのと全然違ってて」
まあそうでしょう、とみなもは思う。いわゆる「大阪娘」「関西ギャル」のイメージは分かるし、現にそんなんばっかの中で何年も暮らしてきた。「そこ」じゃ、みなもも周囲に適当に合わせていた。でも「ここ」じゃ違う。
「言葉も普通…ごめんなさいね、わたしたちと変わらない、というくらいの意味で、大阪弁がどうこうということじゃないのよ」
いやいや、そこは期待するところでしょう。ナンバあたりの串揚げ屋の二度漬け禁止のウスターソースのようにツンと匂い立つコテコテの大阪弁を。
「だから、逆に何か特別な事情があるのかしら、なんて思ったりもして、みんな、皆本さんのことをすっごく意識していて、絶対に仲良くしなきゃって思っていて、でも」
そこで、きららは一度言葉を止めた後、一気に言い放つ。
「そんなわたしたちの間に、皆本さんに対する何か『悪いもの』があったのかもしれない」
「いえ、そんな『悪いもの』なんて別にあるわけが…」
と言いつつ、みなもは、きららの感性の鋭さに感心する。自分の善意を信じて疑わない人間たちの中にこそ、鋭利な刃がひそんでいることもある。
きららは話し続ける。
「哀川さんって人は、図書委員ってことは別にしても、校則は守らないし、みんなと仲良くしないし、ときどき暴力的で、わたしは正直、怖くてしょうがないんだけど、でも悪い人じゃないの」
クラス委員様が、あのスケバンを評価する? 「悪い人じゃない」って? みなもは驚くが、声にも顔にも出さない。
「だから、わたしたちは気づいていないけど、わたしたちの中にある『悪いもの』に、哀川さんは敏感に気づいて、それであんなことをしたんじゃないか、とも思うの。いえ、これはみんなが思ってることじゃなくて、わたし一人の考えてることなんだけど」
「それは、ちょっと考えすぎなんじゃないですか。わたし、五月に転校してきてからもう一か月以上になりますけど、学校で何か困ったり、嫌な思いしたことなんて、一度もありませんよ。強いて言うなら、昨日のアレが特別で」
「そう? ならいいんだけど」
きららは、ほっと小さくため息をつく。
「それでね、哀川さんのことなんだけど、彼女も皆本さんのことを気にかけていて、心配してるんだと思うの。昨日のことはショックだったと思うけど、悪くとらないであげて。クラスは違うけど、同じ博徳学園の仲間として、許してあげてほしいの」
ここまで言いますか、とみなもは心の中で舌を巻く。あなた、本当に現代日本の女子高校生? 聖なんとか様とか、マザーなんたら様 の生まれ変わりじゃないの?
「それは、まあ、努力します。わたしもスケバンは苦手なんですが」
「スケバン…だなんて…」
あらまあ、と、きららは目を見開いた後、くすり、と笑う。
それで、話し合いはお開きとなった。
私立博徳学園女子高校中学がある高島平一丁目から、西台二丁目のみなもの家までは徒歩十分ほどだ。
みなもが校門を出てちょっと歩いたところで、後ろから誰かが早足で近づいてきたのを感じた。みなもが振り向くと、予想していた通り、哀川みずきだった。昭和スケバン然とした、着崩したセーラー服スタイルで、右手に紺色のスポーツバッグを下げている。
外光の下であらためてみずきを眺めると、色白で、意外なほどに整った、きれいな顔立ちであることに、みなもは気づく。ぼさぼさの髪をちゃんとセットして、軽くメイクするだけで「セブンティーン」の読者モデルくらい軽くつとまるんじゃないの? いや、もっと大人向けの「キャンキャン」でも。背、高いし。…姿勢の悪さと目つきの怖さを何とかしなきゃだろうけど。
「あのさ、ミナミナ。一緒に帰っていいかな? あたし、今日はこれからバイトなんだ」
まーた「ミナミナ」ですか、とみなもは思うが口には出さない。
「別にいいですけど。でも何で、わたしと一緒に帰るんですか?」
「ミナミナの家に行くからさ」
「バイト行くんじゃないんですか?」
「んー」と、みずきは頭をぼりぼりかく。
「説明するにはちょっとややこしくてさ。ま、行けばわかるよ」
先に立って、すたすたと歩いていく。
首都高五号線の下の道を歩き、蓮根の大歩道橋を渡ったところに「功夫湯」という銭湯がある。その手前を右に入って、銭湯の裏手に出る。そこから右に入る細い路地がある。クルマはもちろん、自転車も入れないほどの細い路地だ。歩行者がすれちがうのにギリギリというくらいの細さ。
「そこを右に…」とみなもが言うより早く、みずきは迷わず路地へと入っていく。
哀川さん、わたしんちのこと知ってるんだ。じゃあ「バイト」ってもしかして…。みなもはみずきの後を追いかける。
「狭くて歩きにくいでしょ。なんでこんな道つくったんだろ?」
「道じゃない。川なんだ」
「川?」
「川に蓋をして、上を歩けるようにしたんだ。今でも下を水が流れている。音が聞こえないかい?」
「そういえば…」
かすかに、水が流れる音が聞こえるように、みなもは感じた。
「暗渠って言うんだよ」
「アンキョ?」
どんな字を書くんだろう、とみなもは思う。難しい字のような気がする。そんな難しい言葉が、この昭和スケバン女の口からさらっと出てくるなんて。
五十メートルほどの路地を抜けると、古い鳥居が立っている。鳥居には額がかけてあり「帝都府天諏訪神社」と、かすれかけた墨文字で書いてあるのが、かろうじて読み取れる。
鳥居の先は、入口の狭さを思えば、予想外にかなり広い敷地で、そのまま神社の境内だ。西台の台地に入り込んだ谷の一番奥で、四方が崖になっている。崖上の隣家とは十メートル以上の高低差がある。境内には、クスノキやスダジイの巨木が十数本。鬱蒼と繁っていて、その葉陰が頭上を覆っている。初夏の陽光が明るく、クルマの行き交いも多い外とはうって変わって、境内全体が、ひんやりと薄暗く静まり返っている。鳥居の正面に神社の本殿があり、右側に社務所がある。どちらも築五十年以上の古さだ。
「この神社がわたしの家…って、当然知ってるんですよね?」
「よおおおっく知ってるよ。神社も、ババアもさあ」
「誰がババアじゃ!」と裂帛の叱声が響く。
白の小袖に緋袴の、巫女装束の老婆だ。天諏訪神社の宮司で、その名は皆本勝代。小柄で、身長百五十センチのみなもより、さらに低い。真っ白な髪を細く切った和紙で丈長に結っている。年齢は…七十はとうに越しているようだが、その先の何歳と言われても納得するだろう。声同様に心身もカクシャクたるもので、右手の竹箒で、手槍を突き出すように、びっとみずきをさしている。
「おばあちゃん!」と、みなも。
「おやおや、おババさま。コンチお日柄も良く、神経痛もシャク出ずに、お元気なようで、ようございましたねえ。つか、声でけーし」
みずきは、落語家やタイコモチのようにおどけてみせる。
「ふん! このスケバンが。うちの大事な可愛い孫に悪さしたら承知せんぞ」
「してない、してない。それどころか、女子校特有の、深刻ないじめ問題を解決差し上げたところでございましてねえ」
それって違うよ、哀川さん。まるっきり違う、とみなもは心の中で突っ込むが、声には出さない。
みずきは、慣れた様子でみなもの部屋に入る。八畳の和室で、勉強机と本棚と小さなクローゼットが置かれている。
「ちょっと失礼するね。ミナミナが来る前は、ここがバイトの控え室だったんだ」
「バイトって、うちの神社の巫女さんだったのね」
「そゆこと」
「社務所で絵馬やお札売ったりするの? でも、言ったら何だけど、うちの神社って寂れまくってて、参拝する人なんてまったくいないから、哀川さんに来てもらっても仕事にならないかも」
などと言う、みなもに背中を向けて、みずきはセーラー服を脱ぐ。その右肩に、CDぐらいの大きさのカラフルなタトゥーが彫られている。タツノオトシゴをモチーフにしたタトゥーだ。
「イレズミですかあ!」と、みなもが声には出さずに、びっくりしてる間に、みずきはブラもショーツも脱いで素っ裸になる。みなもが見ているのを、まったく気にする様子がない。色白のスレンダーで、手足がすっと長くて、腰高で、かつ胸もお尻も十二分に張り切っている。日本人離れした肢体である。スポーツバッグの中から、勝代と同じ巫女装束を出して、身につける。長い黒髪をヘアゴムでまとめる。
「装束完備! 続いてマナチャージ!」
みずきはスポーツバッグから文庫本を取り出す。角川文庫版「古事記」だ。古い本で相当に読み込まれた感じだ。
みずきは正座して、両手で「古事記」を挟み、胸の前で合掌して目をつぶる。意識を本に集中する。ぼおっと青い光が文庫本から発せられ、やがてテニスボールくらいの大きさの、青い光の玉となって空中に浮かぶ。
「すぷらっしゅ!」
光の玉が輝いて、次の瞬間、みずきの両手に吸い込まれて消える。
みなもは言葉もなく見守っている。これが図書委員の異能。初めて見た。青い光の玉ってことは、属性はアクア。水を武器にする図書委員なのね。大阪時代に知った、図書委員についての断片的な知識が、みなもの脳裏をかすめていく。だけど、実際に見るとすごい不思議。手品…いえ、魔法みたい。
「チャージ完了! さあ、仕事だぞ!」
みずきは濡れ縁から庭に出る。裸足のまま、すたすたと歩いていく。
庭の片隅、崖下に小さな池がある。池の底から透明な水がこんこんと泉となって湧き上がっているのが見える。池の周りは溶岩のような黒い岩で囲まれ、しめ縄が張られている。
勝代とみなもが見守る中、みずきは柄杓を使って、池の水を汲み、作法通りに身を清めていく。まずは左手、次に右手、そして水を口に含んですすぐ。
地面に座り。池に向かって深々とお辞儀する。
「土下座じゃん」と、みなもは思う。どうりで、昨日の教室での土下座スタイルもサマになってたわけだ。
みずきは「ケロリン」と印刷された黄色いプラスチック製の容器に池の水を汲み、頭からざっぷりとかぶる。これって洗面器じゃないの?と、みなもは意外に思う。みずきは二度、三度と繰り返し水をかぶり、全身を水で滲ませる。
「あるま・あくあ」
みずきがつぶやくと、濡れた身体全体が、ぼおっと青白い光を放つ。巫女衣装の上半身の素肌が透けて見える。右肩のタトゥーもハッキリと分かる。
「まあた、襦袢も腰巻もつけんと、この恥知らずが」と勝代が毒づく。
「腰巻なんてダセえもん、巻いてられますかって」と、みずきが応じる。
「袴履いてりゃ『見えない』んだから別にいいっしょ」
みずきは洗面器から、ごくごくごくと水を飲む。そして、ぷーっと霧にして一気に吐き出す。
「ねぶら・あくあ」
みずきが吐き出した水は、濃い青い霧となって、神社の敷地全体を覆う。気温がさらに下がり、大気が清涼なオーラに満たされたように、みなもは感じる。
みずきは再度、池に向かってお辞儀する。正座して、祓い串を両手にとって、身体の正面に捧げ持つ。
「板橋は西台の帝都府天諏訪の社の斎庭を厳の磐境と祝い定め、祓い清めて、綾に畏き真名井の神に、博徳学園図書委員十両十五枚目哀川みずきが恐み恐みてもうさく…」
朗々と祝詞を上げる。みなもは、ひたすらに感心して見守るだけだ。昭和スケバンなんてとんでもない。哀川さん、本物の巫女さんじゃん。それに…かっこいいよ。
儀式は十分ほどで終わった。
みずきは元のセーラー服に着替えて、ふだん、みなもが勝代と一緒に食事をとっている居間のテーブルの椅子に腰掛けている。みなもと勝代も同席している。
「仕事は終わった。後はソーマだ。ババア、キクマサピンとかでケチってんじゃねーぞ。最低でも純米酒をお願いしますですよ」
と言ってマグカップを差し出す。
「スケバンの分際で偉そうに。今日はこれだ。飲んでとっとと退散せい」
勝代は、日本酒の四合瓶から、みずきのマグカップに注ぐ。ラベルに「金枡」とある。
「これはこれは、一度潰れたものの見事に復活した、新潟は新発田の銘酒『金枡』じゃありやせんか。ごちでありんす」
ごくごくと一気に飲み干す。
「もういっちょう!」
二杯目、三杯目もイッキ飲みで、たちまち四合瓶を空にする。ぷはーっと息を吐く。みずきの身体から、青いオーラが立ち上り、宙にゆらいで、消えていく。
「あの、哀川さん」
みなもが、おそるおそる、という感じで口を挟む。
「何よ?」
「高校生が堂々とお酒を飲むというのは、いかがなものかと」
「酒じゃなくてソーマ。んー、これまた説明がめんどうだねえ。ババア、フォロー夜露死苦」
ふん!と勝代。
「みなもも図書委員については知っているだろう。大阪じゃ、ちょっと様子が違うようだがね」
「清く正しく美しく、ですよ。お酒なんてとんでもない」
「同じことだよ。東京ほど露骨じゃないだけで。
図書委員は、古い本からマナを引き出す。マナ自体は安定したエネルギーだ。それを、みずきのようなアクアの図書委員は「水」の力に、イグナの図書委員は「火」の力に荒ぶらせる。仕事が終わった後で、そのエネルギーを再び安定したものにするために必要なのが、ソーマなのさ」
「消毒用アルコールでもいいんだぞ。糞不味いけど」
と、みずきがフォローする。
「でも、それじゃあんまりなんで、少しは『良いもの』をいただくわけだ。大阪じゃ、お上品にも一本五千円以上するシャンパンを抜いてるって聞いたことがある。あたしら板橋の図書委員は、純米酒がぎりぎりのゼータクってわけさね」
「そうそう、ぜいたくにもほどがある」
勝代は二本目の四合瓶を開け、みずきのマグカップに注いでやる。
「んだけどババアよお、あたしゃ結構マジに心配してたんだぞ」
ソーマでリラックスしたみずきが勝代に話しかける。
「心配とは何だ、スケバン?」
「孫が来た、とかさあ。ババア『自称処女』だろうが。こどもも産んでねえのに何で孫がいるんだよ?」
「ああそれは」と、みなも。
「わたしは、おばあちゃんの弟の孫なの。わたしからはおばあちゃんは『大伯母』、おばあちゃんからわたしは『又姪』って言うのよ」
「つまり、孫じゃないけど、孫みたいなもん、ってわけだな。ちゃんと血縁の。だったらまあ安心だ。あたしゃまた、どこぞから身寄りの無い女の子を金で買ってきて、水魔神の生贄にしようってんじゃないか、って勘ぐってさあ。ババア、『人権』って分かるかな?」
「このスケバンが、わたしを鬼婆か何かだと思ってたんかい? それに水魔神とは何じゃ、魔神とは。バチが当たるぞ」
「鬼婆とは思わんけどさあ、『処女』は嘘だろう?」
「嘘な訳あるかい。殿方とのお付き合いはあったさ。こう見えても若い頃はモテモテだったからのお。神社目当てに接近してきたイケメンも多数おった。だが、操は失っておらん」
「…そこまでのカムアウトは要求してないって。ちなみに『ゴム付けてりゃノーカン』なんて生臭い話は聞きたくないからな」
「馬鹿言うな! で、そういうお前に男はいるんか?」
「いません。手ェ握ったこともねえよ。正真正銘の処女でがんす」
「男が欲しいか?」
「要らんです。でも、ミナミナがそばにいてくれるのなら、あたしの嫁になってくれるのなら、それでいいかも」
「死ね。昭和のスケバンとして、てめえがふさわしい時代に戻って、すぐに死ね。ショーケンリスペクトして、チンピラやくざに腹刺されて『なんじゃこりゃー』とか言いつつ殉職しろ」
みなもは、二人のやりとりを聞いてて、なんだか楽しくなる。言葉はすっごく乱暴だけど、仲良しな感じ。大阪も、南のほうの和泉とか岸和田とかの、年配の人たちがこんな感じだった。「ワレ!」とか「やんけ!」とか喧嘩みたいに怒鳴り合ってるんだけど、すっごく仲良しなの。
みなもは、みずきにお相伴してる、お酒…ソーマ代わりのコカコーラをお代りする。
こんなに賑やかな食卓を囲むなんて、何年ぶりだろう? パパとママがいなくなってから、もう七年。いえ、八年。大阪の此花区千鳥橋のおじさんおばさんの家を出てから、もうすぐ一年…。
みんな、とってもいい人ばかりだった。だけど、いい人ばかりの中で、嫌なことが起きることもある。その「嫌なこと」は自分の中にしまいこんで、心の奥底の深い深い井戸の中に放り込んで、忘れてしまわなきゃいけない。
(でも、井戸の水が溢れ、流れ出すこともある)
ふと思ったそんなことも、みなもは心に封じ込める。と、みずきと目が合う。マグカップを空にして「ぷはー」とか言っている。
「なんだ、ミナミナ。おめえもソーマ欲しいんか? 飲め飲め飲んじまえ。法律が禁じてもあたしが許す」
「ばーか」
と、みなもは返して、にっこりと微笑む。
哀川みずきと皆本みなもが神社を出た頃は、もう七時を回ってた。「どうせなら晩御飯も食べていけば」と、みなもは勧めたのだが、「いや、もう十分にいただいたから」とみずきは固辞した。実際「金桝」の四合瓶を三本空けている。息が酒臭いが、酔った様子は全然ない。
みずきは二リットル入りのペットボトル二本に池の水を汲み入れ、スポーツバッグに仕舞う。
「これがバイト代なのさ」
「お水が? お金貰ってないの?」
「金じゃとても買えないくらいの…まあ、そのうち説明するよ」
板橋本町駅から徒歩数分の家まで、地下鉄三田線に乗るというみずきを、みなもは最寄りの蓮根駅まで送っていく。
「哀川さん、さあ、わたしのことミナミナって呼ぶけど…」
「嫌か? だったら呼ばない。絶対に」
「ううん、いいの。わたし、皆本になったのは、おばあちゃんの養女になったからで、それまでは渡辺みなも、って名前だったんだ。『ミナモトミナモ』って何よ? 漫才師の芸名みたいじゃない、って正直ちょっと嫌だったんだけど、哀川さんにミナミナって呼ばれると、それも悪くないかなって」
「そうだよ。可愛いじゃん、ミナミナって」
「わたしも哀川さんのこと、下の名前で呼んでいい?」
「いいよ、みずきで」
「呼び捨てじゃなく、みずきちゃん、って」
「なんか、ちょっとくすぐったいな」
「わたし、今の学校で、下の名前で呼び合う友達って一人もいないの」
「ん? 何か、それってやっぱ…」
「いじめじゃない! 違うのよ。何ていうか、転校生のわたしに、みんな親切で優しくて気を使ってくれるんだけど、わたしの方が目に見えない『壁』を作ってるみたいで。でも…みずきちゃん、はは、『みずきちゃん』って呼んじゃった。みずきちゃんは、そんな壁はものともせずに踏み込んできてくれて」
「ガサツでごめんな。あたしってば、生まれた時にデリカシーって奴を母親の子宮に置き忘れてきたらしくってさあ」
「ううん、うれしいの。ありがとう、みずきちゃん」
みなもはみずきの右手を両手でぎゅっと握る。みずきは左手をそこに重ねる。
「これってなんか、あたしら友達…みたいな?」
「みたい、じゃなくて、友達」
駅の改札で、ばいばーい、と手を振ってみずきと別れる。家に戻るみなもの心に暖かいものが灯り続けている。
今日はいい日だった、とみなもは思う。友達ができた。
いつの日か、裏切られ、別れることになるとしても、今日のことは忘れない。
たとえ裏切られても。
心を引き裂かれるような思いで別れることになっても。
忘れない。
一生。