第1話:変わらない日常にスパイスを
―――― あれから6年が経った今日。同じ駅で助けてくれた君は、あの日私を助けてくれた人と重なって見えた。
―― とある冬の昼下がり―。
寒空の下を空本翔は喫茶ブローディアでのバイトへ向かう為に、息を切らし急いでいた。昨晩は雨が降って地面は濡れている。強く吹く風に寒さを感じながら空本はマフラーで顔の半分を隠し走った。
喫茶店に到着すると、丁度出てこようとする客のおばあさんの姿が見えた。
それに気付いた空本はドアを開けて、おばあさんが出てくるのを待った。するとおばあさんは空本の顔を見て嬉しそうに笑顔で言った。
「ありがとうねぇ」
「いえ。そこ段差あるんで気を付けてくださいね」
おばあさんは頷いてゆっくり出てくると、空本に小さくお辞儀をして歩いて行った。方面は店を正面にして右だ。
店に入るとお客さんは誰も居らず、バイトの先輩である糸上が店の奥でテーブルを片付けていた。茶色くて長い髪が特徴のお姉さん系だ。
「お疲れ様でーす」
糸上の姿を見つけた空本が声をかけると、彼女はこちらを見て返事をした。
「あら。今日は遅れなかったのね?」
空本はそれを聞いて、腕を組みながらドヤ顔で返した。
「まぁ《《僕》》だってやる時はやるんです」
「…いや…バイトは常に時間通りに来てくれないと…」
困り顔で笑いながらそう返した糸上は、空本を見て少し怪訝な表情をした。
「……ん?その紙袋って…空本君の?」
レジ前にあるお客さん用の荷物置き台に置かれた、小さな紙袋を指差しながらそう言った。
糸上の指差す方を見ると確かにそこには小さい紙袋が置かれていた。空本はそれを見つめながら少し考えて、口を開いた。
「……いえ…僕はなにも……」
そこまで言って1つあった心当たりを伝えた。
「あ…今出てかれた方のじゃないですか?」
糸上は手を1回叩き、驚いた表情をして言った。
「…そうだ!」
「お店に入ってきた時は持ってたかも…気付かなかった……」
「ちょっと追いかけて渡してくる!」
糸上が紙袋の方に近寄ろうとした。空本は手をパタパタと振りながらこう返した。
「いいですよ、僕が行ってきます。入口近いですし」
それを聞いた糸上は、申し訳なさそうに言った。
「いいの?来て早々ごめんね。よろしく」
「はーい」
空本は返事をして自分の荷物を持ったまま、紙袋を持つと急いでおばあさんを追いかけようと入り口の扉を思い切り開けた。
すると「わっ!」という驚いた声が聞こえた。
入り口には段差がある為、開けた扉と道路には隙間がある。その隙間から靴が見えた為、ドアの裏に誰かがいるのは明白だった。
しかし空本は急いでおり、反射的に顔も見ずに扉越しに「すいません」と一言だけ伝えて走り去った。
少し進んだところにある駐車場の前を、先程すれ違ったおばあさんがゆっくり歩いているのを見つけて安堵した。
空本は追いつくと、後ろから声をかけた。
「……あのー…」
「これ…お忘れ物じゃないです…?」
おばあさんはその声に反応し、振り向いてハッとした表情で言った。
「まぁ…ごめんね、私のよ。どうもありがとうねぇ」
「じいさんと一緒に食べようと思ってたパンが入ってるのに、忘れちゃって……」
「最近忘れ物が多くて……駄目ね…」
空本はそう言うおばあさんの表情を少し寂しそうな、落ち込んだような感じに捉えた。
「いえ、そんなことないですよ」
「僕もよく学校で忘れ物をして怒られます」
空本の返しに、おばあさんは少し表情が明るくなった。
「ほんっとに助かったわ~、ありがとうねぇ」
おばあちゃん子である空本は、ほっこりと温かくなった気持ちになりながら伝えた。
「どういたしまして、またお待ちしてます」
「寒いんで気をつけてくださいね!」
おばあさんはにっこりと笑い、手を挙げて3回ほど振りながら言った。
「うん、ありがとうね。またねー」
ゆっくり歩いて行くおばあさんの後ろ姿に、軽く会釈をして店へと戻った。
店へと戻る道中、空本はパンの件を前を向かずに下を向きながら思い出し、平和で優しい世界に肩まで浸って笑顔になった。
前を見て歩いていなかった為、電柱にぶつかった。
『痛覚と注意力のレベルが2上がった』
空本の耳には幻聴が聞こえた。
糸上がレジにある椅子に腰をかけてると空本が戻ってきたのに気付いた。
「渡せた?」
そう聞かれた空本は先程のおばあさんの笑顔をもう一度思い出し、顔に両手を当てて答えた。
「ええ。なんかもう…優しかった…ですね……」
「いや、むしろ尊い…尊かった……」
糸上は少し引きながら、不思議そうに聞いた。
「いや、優しいのは空本君じゃ…?」
「ま、でもとりあえず助かったわ、ありがとう」
笑顔で糸上はお礼を伝えた。
「いえいえ。そういやこの辺にパン屋さんってありましたっけ?」
空本はふと思った疑問を聞いてみた。
「…パン屋…?うーん…」
「…確か……何ヶ月か前に本屋の裏手に新しく出来てたような……。なんで?」
急なパンの質問に理由を考えながら答えた。
「あーいえ、さっき……」
空本がそう言いかけたところで横から声が聞こえた。
「お兄さん。これ落とし物だよ」
「…え?」
声のする方に体を向けると、青いショートヘアーを靡かせながら同じクラスの女子である林がクスクスと笑いながら立っていた。身長は163cmで丁度空本と10cm差の林は、空本を見上げながら声をかけてきた。
そしてその手には空本が勤務時に付けるネームプレートを持っていた。
空本は林と目が合ったが、すぐに逸らした。
そんな姿を見た糸上が、ふと思った疑問を声に出した。
「……ん…?2人とも顔見知りなの?」
それを聞いた林はニコッと笑い、言った。
「そうなんです。同じ高校で、クラスも一緒なんです」
そんな二人のやり取りを見ていた空本は、あまりの驚きに口に片手を軽くあてて考え事をしていた。
「(………なんで林さんがここに…。クラスの人にバイト先がばれると、店に遊びに来られたりとかされて面倒だから…電車で30分くらいかかるここでバイトをしているのに……)」
空本は糸上と林の会話を完全に遮断して、考え込んだ。そんな空本に林は少し笑みを浮かべながら一言言った。
「…えっと空本くん…聞いてる……?」
その問いかけに空本は振り向こうとはしなかった。
沈黙の続く空間から顔をヌッと覗かせた糸上が嬉しそうにニヤけながら聞いた。
「…あ〜……。空本君の前言ってた気になってる子ね?」
空本は首を傾げた。
2週間前の閉店作業時―。
レジ締めの作業をしている糸上の近くのテーブルに空本はパソコンを置いて、求人募集のチラシを作っていた。
モニターに必死に噛り付いて作業をする空本に糸上は何気なく質問を投げかけた。
「空本君はさ〜、好きな人とかいないの?」
「…え……?まぁ気になる人は………」
カタカタとタイピングをしながらボソッと返した。
「ほー…………へぇ……」
パソコンでの作業に頭がもっていかれ脳を経由せずに反射的にそう呟いた空本に、糸上は不敵な笑みを浮かべて、目を光らせた。その手にはボイスレコーダーが握られていた。
脳裏にその出来事がチラついた空本は頭を抱えた。
「(…あれだ……)」
空本は一旦白を切ろうと誤魔化してみた。
「何ですかそれ?本当に僕ですか?」
糸上は履いているジーパンのポケットに手を突っ込むと、ボイスレコーダーを取り出してチラっと見せては隠してを何度か繰り返してニヤりと笑った。
それを見た空本は戦々恐々とした。
弁解しなければ、と思い焦って言い返す。
「…気になる人…としか言ってないじゃないですか」
「ふっ…甘いわね。そして認めたわね。…気になるなんて好きみたいなもんじゃない?」
ドヤ顔同士の対決だ。林はジッと眺めていた。
先にそのドヤ顔均衡を破ったのは空本だった。
「……違う意味で気になるだけですよ」
「……ふーん…………」
取り乱すとややこしくなることを悟った空本は冷静に糸上を見つめながら否定した。
その横で二人のやり取りを見ていた林はジト目で空本を見つめていた。空本はすぐにその視線に気づき、二人は目が合うとお互いにすぐ逸らした。
そして空本は林を店外に追い出そうとしながら言った。
「…とりあえず……今からバイトだから」
林は困った顔をして、空本に押されながら言う。
「い、いや、あの……」
空本は林の言い分を聞かずに押し続けた。
「ま…まぁ話は学校でまた聞くからさ……」
扉付近まで押された林はクルッと振り返り、困った表情で言った。
「いや…面接に来たんだけど……?」
糸上はその光景を手を叩きながら笑い、見ていた。
「(…嘘だろ……)」
空本は困ってる自分を見て笑っている糸上と、この現状の元凶である林に対してその言葉しか出なかった。
右手を口に当てながら考えた。
「(……面接に来たって言ってたよな……。いや……もしかしたら…〝面接〟じゃなくて〝殲滅〟って言ったのかな……一種のアナグラム的な……〝めんせつ〟って入れ替えると〝せんめつ〟だし。いや…でも……殲滅は殲滅で問題か…。《《俺》》たちがやられちゃうし…。じゃあ〝演説〟か……?選挙にでも出馬するのか…?そもそもなんで選挙に出馬って言うんだろう…?人間なのに。……他にありそうなのは〝伝説〟とか〝連結〟。いや…連結は少し卑猥か……。待てよ...〝献血〟だ…。なんて優しいんだ林さん……。分かるよ、人間は皆助け合いだ。行こう、献血!……いやいや話が逸れてる。ここは僕たちが住む町から電車で30分の場所…。100歩譲ってこの町だとしても、他にも働くとこあるだろうになぜここへ…?ここに面接に来るわけがない。これは俺の聞き間違いだ……!)」
空本が超長考モードから解き放たれると、一言言った。
「…殲滅?」
「え…?こわ……」
林は突然出てきた日常で使用されることの無い二字熟語ランキングTOP30に入りそうな言葉が平然と空本の口から出てきた事に引いた。
因みに林的日常で使用されることの無い二字熟語ランキングTOP30の堂々1位は『誤謬』だ。平仮名で書くともはや擬音にしか見えない為だ。ごびゅう。
しかし、そのランキングは語彙に自信が無い林の独自見解のものだ。正しい知識を持っている人からするとこのランキングは誤謬を犯しているように見えるかもしれない。あれ、今使ったな。
当然のように場は沈黙に包まれた。すると糸上が大爆笑しながら言った。
「面白いね2人とも」
「「笑わないでください」」
空本と林の二人からツッコミが入った。
笑い涙を拭きながら糸上は続けた。
「ごめんごめん。空本君聞いてなかったんだね。あたしは少し前にマスターから聞いてたのよ。空本君と同じ学校の子が面接に来るって」
「なにそれ先に言えよ!」
「(先に言ってくださいよ…)」
空本は内心思ったことは言わずに丁寧な言い回しに言い換えた。
「逆じゃない?」
糸上が空想のナレーションを汲み取りツッコミを入れた。
「で、その肝心のマスターはどちらに…?」
マスターを問い詰めようと居場所を聞いたが糸上からの返事で落胆した。
「今日は高熱で休みよ」
「もう…」
残念そうにする空本は尋ねた。
「まあでも、高熱は心配ですね。何度くらいなんですかね…」
「37.2℃って言ってたわよ」
「いや微熱中の微熱!」
ツッコミを入れた空本に糸上が追加で言った。
「…あー、あと…」
「空本君に面接お願いしてたのよね…何でか分かんないけど」
不思議そうに首を傾げ空本は聞いた。
「……?」
「…な…なぜ……?」
「さあ、マスターなりの気遣いじゃないかしら?
事情は掴めていない糸上はこう答えるしかなかった。
「(さっき笑ってたし…この人絶対何か言ったな…)」
「わかりました。やります…」
空本は戸惑いながらも、その感情を表に出すことはせず、返した。
そんな空本と糸上のやり取りを、林は横で黙って眺めていた。
続けて糸上は腕を組み、壁にもたれながら笑って言った。
「まぁ面接っていうかさー、この前1人辞めて人足りてないし、絶対合格なんだけどね〜」
「なんでそんなヘラヘラしてるんですか…(糸上さんこんな感じだっけ…)」
林はそれを聞き少し嬉しそうに呟いた。
「あ、そうなんですね」
頭を抱えながら空本は、林を奥のテーブルへと案内した。
店の一番奥にあるテーブルに2人で座り、面接官っぽく手を組みながら空本がボソっと俯きながら呟いた。
「不採用です」
林はムッとした表情をした。すると糸上がグラスに入ったお茶を二つトレイに載せて持ってきた。
お茶を二人の前に置きながら空本に言った。
「面接官さんサイテー」
すると店の入り口の鈴が鳴り、お客さんが2人入ってきた。糸上は業務へと戻っていった。
「(ようやくいなくなった…)」
少しの沈黙の後、林が聞きにくそうに聞いてきた。
「…私がここで働くのそんなに嫌……だったかな……?」
空本は内心では否定した。
「(べ...別にそんな)」
「ご…ごめんね…ここで働いてるの知らなくて…別のところ……探すから」
「(ち…違う…)」
少し寂しげに笑いながら彼女の口からこぼれた。席を立ち上がると、俯いてる空本の横を通り過ぎようとした。
「(…今の俺は…林さんには避けているように見えるか…)」
空本は帰ろうとする林の服の袖を、軽く掴んだ。
「え……?」
驚いた林を見て慌てて手を離した。そんな林の後ろに映る窓の外では雪が降っていた。
店内では先程入ってきた2名の客と糸上が楽しげに会話をしていた。雪の降る静かな外の世界と正反対に賑やかな店内で空本は小さく言う。
「…嫌……とかじゃないんだ…本当に………」
「ここ隣町だしさ……2人で駅とか一緒に行ってたら………」
「……あの、なんていうか…。噂とかになったら……林さんに迷惑かかるんじゃないかなって……」
空本は思ってることを伝えた。
林はそれを聞き小さく笑みを浮かべながら心の中で思った。
「(…最初からそう言えばいいのに……興味無いのかと思っちゃうよ……)」
黙ってる林に空本は困りながらお茶を飲んでいると、林は平然と何もなかったように言った。
「違うことは違うって言えばいいじゃん」
「…恥ずかしがることじゃ無いと思うよ……」
そこで区切ると、少し息を吸って続けた。
「…それに……」
「別に迷惑じゃないよ…」
普段学校では誰にも見せない明るくあざとい表情の彼女に空本は顔を逸らし、たじろぎながら言った。
「よ…よろしく……」
そんな空本を見て少しニヤっと笑うとこう付け加えた。
「てか、空本君。二人で駅に一緒に行ってたらって、一緒に行く気満々じゃん」
それを聞いた空本は顔を赤くし、こう言い放った。
「やっぱ不合格で…!」
林はそれを聞いて笑っていた。そんな姿を微笑ましく糸上は眺めていた。