スケジュール
まずい。
どう考えてもまずい。
あれには名前や住所などの個人情報がしっかりと書いてあるし、友達と撮った写真やペットの写真も沢山貼ってある。
それに今週末に行く映画のチケットまで挟んであるのだ。
無くす事など……有ってはならない。
芽衣子はバッグの中をひっ掻き回していた手を止め、宙の一点を睨んでぽつりと呟いた。
「……無い訳無いのよ」
そうだ、無い訳が無い。
学校を出た時は確かに有った。
帰り掛け、友人と試験休みに出掛ける約束をした際にスケジュールを確認したのだから。
芽衣子はその友人と別れた場所、校門前の交差点まで戻る事にした。
落としたとすれば、そこから今の地点迄のおよそ十分程の道程に違いないのだ。
******
校門に戻ると、そこから吐き出される生徒の数は先程よりもぐっと減っていた。
その僅かな人影の中に見知ったクラスメイトの顔を見つけ、芽衣子は近付いた。
「ねえ、この辺にあたしの手帳落ちてなかった?」
「手帳?」
「A6くらいでペンが挿せるやつなんだけど……」
「あ、それなら」
クラスメイトは校門のすぐ前に有る交差点の方を指差した。
「あの辺ね。ありがとう」
芽衣子は挨拶もそこそこに、交差点へと急いで駆け出した。
そして信号機の根元に落ちている小さな手帳を見つけた。
「え……これ……?」
それは形こそ似ていたが、芽衣子の手帳ではなかった。
誰かが自分と同じ様に落としたものか、美しい青のカバーが掛かった手帳だった。
ふと道路の向こう側を見ると、また別の見慣れたクラスメイトの後ろ姿が目に入った。
もしかしたらこれは彼女が落とした手帳かもしれない。
芽衣子は青い手帳を持ち、小走りで横断歩道を渡った。
「待って!」
「あれ、芽衣子? どうしたの?」
「これ」
振り向いた友人に手帳を見せる。
「あんたのじゃない? 今そこで拾ったんだけど」
手帳を見るなりクラスメイトは驚いた表情で声を上げた。
「嘘! やだ、それあたしの!」
芽衣子から手帳を受け取ったクラスメイトは素早く中を確認すると、困った様なほっとした様な、それでいて酷く焦った様な複雑な顔になった。
「全然気付かなかった。芽衣子、ありがとね」
クラスメイトは芽衣子の肩に手を置いて何度も礼を言った。
その様子に喜びながらも、芽衣子の頭の中は自分の手帳の事で一杯だった。
「あのさ、実はあたしも手帳落としちゃったんだよね。どっかで見てない?」
「え、そうなの? やばいじゃん」
クラスメイトは心底心配そうな顔で芽衣子を見た。
たった今手帳を落とすという同じ境遇を味わっただけに、芽衣子の気持ちがよく解るのだろう。
「ごめん……知らないわ」
「そう……」
クラスメイトの言葉に、芽衣子は絶望しそうになった。
しかし次の瞬間、視界の隅に何かが入った。
「ちょっとごめん!」
「あっ、芽衣子?」
弾かれた様に、芽衣子は一目散に次の交差点へと向かった。
あそこに何かが落ちている。
あれは……。
その時突如として大きな金切り音が鳴り響き、芽衣子ははっとした。
「すみません」
傍らを見ると、自転車に跨ったサラリーマン風の若い男が芽衣子のすぐ隣に居た。
「あ、すみません……」
咄嗟に芽衣子も謝る。
つい周りを見る事を失念してしまった様だ。
男はそのまま自転車を押して横断歩道を渡ると、信号機の根元に落ちていたものを拾い上げた。
「あ!」
それは自分が落とした手帳だ。
そう言おうとして口を開き掛けたが、寸での所で飲み込んだ。
よくよく見れば、それは芽衣子の手帳とはカバーの色が違っていたのだ。
男はぱらぱらとページを捲って軽く中身を確認すると、綺麗な黄色のカバーに付いた埃を払い、大事そうにその手帳を鞄に仕舞った。
どうやらあれは彼が落とした手帳だったらしい。
だとすれば、自分の手帳は一体どこにあるというのだろう。
今度こそ絶望感で一杯になった芽衣子は、自転車に乗った男の背をぼんやりと見送った。
男は大きな交差点に差し掛かり、そのまま流れる様に右折して姿を消した。
その時。
車が行き交う道路の向こう側。
交差点の信号機の根元に。
その一点に、芽衣子の視線は釘付けになった。
……見つけた。
足元も見ずに芽衣子は走り出す。
もうそれしか目には入らなかった。
やっと、やっと見つけた。
自分の手帳。
青でも黄色でもない、鮮やかな赤のカバーが掛かった、大切な手帳。
今度こそ間違いない。
しかし芽衣子の疾走は突然遮られた。
自転車のものとは全く異なるブレーキ音。
今迄聞いた事が無い様な重々しい音と身体中を打ちのめす衝撃。
芽衣子は空に投げ出され、固い路面に叩きつけられた。
信じられない程の激痛が全身を駆け巡る。
いや、そんな事よりも。
辺りに悲鳴とどよめきが沸き起こる。
身体のどこからか、生温かいものがじわりと流れ出て行く。
そんな事はどうでも良い。
それより手帳は。
手帳……。
眼球だけを動かして周囲を見回すと、信号機の根元が見えた。
嗚呼、有った。
あれが自分の手帳だ。
ようやく見つけた、真っ赤なカバーの手帳。
手帳を拾い上げようと、ゆっくり右手を伸ばす。
交差点には人集りが出来ており、騒然としている。
遠くからは救急車とパトカーのサイレンがどんどん近付いて来る。
もう少し。
もう少しで手帳に手が届く……。
だが、手帳と同じ色に染まった芽衣子の手はそこで力を失い、ぱたりとアスファルトの上に落ちた。
彼女の手に手帳が戻る事は二度と無かった。
お読み頂きありがとうございます。
ご感想、評価等を頂ければ幸いです。