知人が浮気されたらしい
知人が浮気されたらしい。
急にそんな事を知らされ呼び出されたものだから、仕方なく私は彼に会うために領地を後にした。
「やあ、よく来てくれたね…」
そう口にする知人の態度には歓迎の意が感じ取れなかった。
彼はしばらく前に会った時からは考えられないような、亡者めいた顔をしていた。
すっかり淀んだその眼にはどこか私に縋るような色が見える。
ともあれ、そんな主人の内心がどうであれ使用人は普通せめて形だけでも歓迎してくれるものだが、執事が供してくれた茶は私にとって歓迎されているとは言い難かった。浮気が相当堪えたのか、屋敷へ入ってから女の使用人をまるで見かけていないのだ。
私は一定の下心を持ったただの男を自認している。せっかく暇を作って、ただでさえ憂鬱な気持ちで訪れたというのにせめて“華”がないというのはまったく失礼な事だ。と、までは言い過ぎかもしれないが、心中でくらい文句を言いたくもなる。
「妻が、浮気していたんだ…」
知っている
その相談という名の愚痴大会を開催したくて私を呼び出したのだろうに。
そんなわかりきった事を二度も三度も聞かされる身にもなってほしいものだ。
くすぶる怒りを抑えつつ、彼にさっさと愚痴を垂れるようやんわりと促す。
「…………。妻は、妻の実家の商会は金に困っていた…。我が家は得意先で、その関係で何度か私自身も商会に出入りしていた…。その折に妻と出会い、私はすっかり彼女に夢中になったんだ…」
ここまでは既知の情報である。
自分の頭の中を整理するためであろう、彼は私にとってわかりきった事を並べ始めた。こんな実りのない時間を強制されるために、妻への贈り物を吟味する時間が削られたかと思うと本当に腹立たしい。
内心をおくびにも出さず、不安げな彼の視線を受けて続きを促す。
「彼女には婚約者がいた…。それを知っていながら私は、父に頭を下げ、コネを使って彼女を妻にする事を望んだんだ…。結婚して身内になれば、借金を肩代わりすると言って…。我ながら最低だ…。金に困り、多くの従業員を抱え、王都の商品供給を一手に担う商会だ…。まして平民の一家に断る事などできない…」
その妻のかつての婚約者というのは長年相思相愛の仲であるらしい。
彼の妻より七つ、いや九つだったか、とにかく年下の男だとの事だ。隣同士の幼馴染で、小さい頃から近所でも評判の仲良し。将来は当然おしどり夫婦になるものだと皆が疑っていなかった。彼女が行き遅れにあたる年になっても独り身で居続けるたのは、彼が理由であることは考えるまでもない。その証拠に彼が父の仕事を受け継いだのを機に地元の神殿で婚約を交わしたのだ。当時の二人がどんなに幸せだったかなど想像もできないだろう。
だが、幸せは長くは続かなかった。
金は直接の理由ではない。
私の目の前の男のせいである。
「そうして妻を娶ってから、ずっと彼女は婚約者と関係を続けていたらしい…。私の子だと思っていたお腹の子も…彼の子だった…」
そうか。
まあそうだろうな。
そんな事は壁にでも言ってくれ。
私は君の家の壁じゃないぞ。
思うだけで言いはしないが。
「以前、私と結婚した事を後悔しているかどうか尋ねてみた事がある…。彼女は“していませんよ。だって大好きな人の子供を産めたんですもの”と答えたんだよ…。わかるかい? 彼女はずっと、彼女の心はずうっと婚約者に向いていて、はじめから私の事などまるで眼中になかったんだ!!」
そんな事はないだろう、と私は言った。
何やら否定の叫びをあげる彼の様子に余計な事を言ったかと後悔しつつ、心中で“眼中にないのではなく、視界に入れたくない害虫くらいには嫌われ、憎まれていただろう”と続けた。愛する人との未来を奪われ、あまつさえそんな男に体を貪る事を許さざるを得なかった彼女の激情はいかばかりであろうか。
「彼女はね、出て行ったよ。当然に。相当入念に計画していたんだろうね、婚約者と。保養地へ出かけた際だ。事故を装って身をくらましたんだ…。そのための連絡も、ずっと取り合っていたんだよ…。僕は間抜けにも気付かないでいたけどね…。なあ、君。僕はどこで間違えた? 何がいけなかったんだ? こんな事になるなら、人を好きになっちゃいけなかったのか?」
質問の体をしてはいるがその実自分の考えを肯定してほしいだけの彼の物言いに私はいい加減いらいらしていた。だから、相手を怒らせて追い出させるよう仕向けてやる、と考えた。
私は、“愛がなかったからいけなかった”と答えた。
「愛!? 愛だって!? 愛ならあった!! 愛していた!! 今も愛してる!! なあ、真面目に答えてくれ!!」
そういう相手の非を決め付けた考えを口に出すから、上がる事のありえない好感度をさらに下げたのだろう。ああ、私は至って真面目に答えたとも。愛があるのならば、金だけポンと出しておしまいにすればよかったのだ。
「金を出す事が、愛…!?」
この場合では、と注釈が付くが。…君は愛しているとうそぶきつつ、そのくせ結婚という見返りを求めた。恋愛、親愛、友愛、師弟愛。愛情には色々あるが、そのことごとくに共通しているのは無償であるという事だ。見返りを求めず相手に尽くし与えるからこその愛。どんな形でさえ愛に見返りを求めたらそれは愛ではない。その時点でどす汚れた欲望でしかなくなるのだ。
「そんな…。それじゃ君は、金だけ与えた後は、指をくわえて彼女を諦めていればよかったと僕に言うのか…?」
さらに言えば彼女と、彼女の愛する人の幸福を願って、ね。ああ、将来産まれるであろう二人の子供の幸福も願う必要があるな、いや、もう生まれていたのだったか。
「それじゃ…それじゃそう言う君は。君の奥方は、どうなる…」
もちろん浮気くらい当然の権利だろうに。元々政略結婚だったから、むしろ私がお邪魔虫くらいの気持ちでいたよ。私は本気で愛していたが、彼女にとってはそうではなかったというまったくありふれた事だ。今では情と義理くらいは持ってもらえたがね。なにせ子供たちの半分は私の子だ。嫌いなだけの男との子に腹を許すなど、なんとありがたい事だろう。もちろん子供たちは分け隔てなく愛しているよ。同じ屋敷に住んでいるだけのおじさんになついてくれない子もいるがね。それを不満に思っては、それこそ愛が愛でなくなってしまうじゃあないか。
「君は…狂ってる…」
おい、失礼すぎやしないか。せっかく愚痴を聞きに来てやった男に対して。
人の女を奪う男が言えた義理かね。
とうとう頭にきた私はそれだけ吐き捨てると屋敷を後にした。
道すがら見つけた露天売りのコーヒーを流し込んで怒りを抑える。
せっかく王都に来たのだからと気分を切り替え、妻への贈り物を見て回る事にした。
ふと、新色の口紅ありとの広告が目に入る。
妻の好きな色だ。密会への装いにもちょうどいいだろう。だが私がそれを用立てては気色が悪いと思われるかもしれない。
ところで、愛し合う二人は無事逃げおおせたらしい。ようやく結ばれた二人とその子の顛末を知り私は安堵した。
というのも街はその噂でもちきりだったからだ。追手は放たれる事もなく、二人の親類がどうこうされる事もない。そんな事をすれば“買った”女に逃げられた間抜けな貴族が傷口を広げるだけになるからだ。噂では国王陛下ですら横暴な婚姻を強いる物へのいい見せしめになるとして笑ったという。
軽やかな気持ちになり、私は店へと入っていった。
私はうんうんと唸り、結局ガラスの小さな猫の置き物という実用に困るものを買った。こういうところが気の利かない男と評されてしまう所以だろうか。妻が微笑みと共にこぼす文句を思い出しながら、私は帰路に就いた。