ノア デ ステファーノの歩み
「さてと!!」
大きな声で笑っていたちるは、もう満足したのか再び元の席へと腰を下ろし僅かに微笑みながら俺の方を向いた。
その表情はなんだかいつもより少しだけ大人っぽく綺麗だった。
「今日はありがとうのぅ。 わざわざ街まで買いに行ってくれて」
「急にどうした? そんな大変な事じゃ無いよ。 確かに少し遠かったけど俺も買いたい物もあったしな」
「距離の問題では無い。 我の話を聞いている時もそして今もじゃが、お主ずっと張り詰めている感じがするぞ?
やっぱり久々の街だった事もあって色々大変だったのでは無いか、我が言った事だったとは言え、やはり相当の不安があったのだろう。
その……大丈夫だったのか?」
ちるは心配そうに俺の顔を覗き込みながら言った。
その言葉を聞いた瞬間、自分の身体が僅かに震えたのを感じる。そしてその震えは自分で抑えようと意識しても簡単に止まるものでは無かった。
同時にちるの指摘に俺は素直に驚いていた。
俺自身いつもと変わらない様に振舞ってきたからだ。 まさかこんな簡単に見破れているとは考えていなかった。
久々の他人との会話、いや、会話に限らず知らない誰かが自分の隣をすれ違う。そんな日が来ると思っていなかったから……今日は俺の人生の中で大きな転換期のその始まり日になるだろう。
だからちるの言う通り家に着いてからもどこか浮き足立っている様な感覚を感じていた。
「流石ちるだな。
いつもと変わらない様に振る舞ったつもりだったんだが??」
「全然違うぞ、我を誰だと思っておる! いや、我が何者であったとしても関係ない。 我とお主の付き合いじゃぞ?
わかるに決まっておろうが。 で、どうだったのじゃ?」
ちるはもう一度優しく微笑む。
本当にちるには敵わないな。
「そうかぁ……街はさ、凄い所だった。 昔と街並みは変わってなかったからそんなに変化は無いのかなと思ったんだけど、人は倍ぐらいに増えている感じがしてさ、道行く人達は皆なにか忙しそうにしていた。 でも、その中でも一体なにをそんなに急いでいるんだって人もいてさ。
とにかく色々な人がいたんだ!! そうだ!
さっき作った肉じゃがもさ、レシピ聞いたって言っただろ?
全く話した事もない人だったのにさ、凄い丁寧に教えてくれたんだよなー。 ほら! これ見てくれよ、紙にまで書いてくれたんだぜ?
本当に優しい人だったよ、次もまた美味しい料理を教えてやるって言ってくれたしな。 それにさ!!」
今日あった出来事を吐き出す様にちるに話した。
久しぶりに見た街並み、人や建物に動物、一つ一つ思い出せる事の全てを。
途中同じ話や支離滅裂な所もあったかも知れないけど、ちるは優しく頷きながら俺の話を静かに聞いてくれていた。
「でさ、最初に話しかけてくれた記念すべき人は女の人だったんだけどさ、その女の人がさ、あのさ、えっと、その女の子がな……その」
俺は急に続きが言えなくなった。
目からは涙が溢れ出ていたし声も次第に詰まり初めてた。 こんな事初めてで自分でも何がなんだかわからなかったけど、とにかくその先がどうしても言えなかった。
「お主は頑張ったぞ。 今日のお主は本当に頑張ったのじゃ」
ちるは俺の目の前まで歩き出し、俺の頭を自分の胸へ引き寄せながら優しく何度も繰り返しながらその言葉を俺に言ってくれていた。
他の誰にも勿論自分の母親にもこんな事をしてもらった記憶が無かったから、初めは恥ずかしさと驚きが入り混じった変な感覚だったがそんな気持ちも次第に俺の心の中に溶けて無くなり、ちるの優しさとほのかに甘いお菓子の匂いを感じていた。
きっとこの涙は暫くは止まらないだろう。 今までの十六年間こんなに誰かを頼り、誰かの優しさを感じた事は無かった。 水の入ったコップが割れる時と同じ様に俺が貯めていたものが全部流れ出ている気さえした。
未だに嗚咽が止まらなかったけど、俺には今どうしてもちるに伝えたい事がある。
俺は声を振り絞り自分でもなんて小さく弱々しいんだと思いながらもちるに向けて言葉を投げる。
「ちる。 ありがとう。 俺を、俺をこの世界に引き戻してくれて」
「我は何もしておらんよ。 きっかけを与えたに過ぎぬ、一歩を踏み出したのは紛れも無くお主で有り、自分の世界を変える事が出来たのも紛れも無くお主自身の力じゃぞ」
「ありがとうちる……本当にありがとう」
ちるはそれ以上何も言わず俺の頭を優しく撫でてくれた。
格好悪いと自分でも分かっていたが、どうする事もできず俺はそのままちるの胸の中で子供の様に同じ言葉を弱々しく繰り返していた。
「さてと……えーと、元気になったかのぅ??」
「あぁ……うん。 その迷惑かけたな」
「いやいや、全然大丈夫じゃ。 我もその迷惑かけたのぅ……」
「……」
「……」
それから暫くして俺とちるの間には何とも言えない微妙な空気が流れていた。
互いに泣きあったんだし当然と言えば当然なんだけど。
「じ、じゃあそろそろ寝るかのぅ??」
いつもは勝手に寝ているのに、この雰囲気に耐えられ無くなったのかちるは珍しく自ら提案した。
「そ、そうだな。 今日は色々あったし流石にちょっと疲れたかな。 少し早いけど今日はもう寝るか。
それにしてもちるが寝るのを提案するなんて珍しいな」
「……珍しい??」
ちるの声に少し怒りが含まれている事に俺はすぐに気付いた。
同時に余計な事を言ってしまったと後悔した。
「まぁ今日はお主の可愛い可愛い泣き顔を見れたからのぅ!! あの弱々しさは年相応の何処にでもいる子供の様じゃったぞ?? いつもしているすました顔よりよっぽど良かったのではないか??」
あまりの言い草に俺は少し腹が立ち売り言葉に買い言葉で応戦した。
「まぁ確かに可愛い泣き顔だったなー。 鼻もたれてたし、三百年生きてる神様とは思えなかったな! まるで少女、いや幼女みたいだったしな!!」
「なっー!! お主我の見た目の事を馬鹿にしたな!! それは許されんぞ!!いつも言っておろうに!!
人の見た目を馬鹿にしてはいけませんと!!」
「先に泣き顔を馬鹿にした奴に言われたくはないな!! 後どら焼きをケチる奴にもな!!」
「かぁー、どら焼きの事をここで出してくるとは!! あれはお主が未熟だっただけの事で我には関係ないじゃろ!! 自分の能力の無さを嘆くならともかくそれを我のせいにするとは、お主は大人ぶっておっても中身はガキのままじゃな!!」
「あーやっぱりわざとだったのか!!
はぁー、神様の癖に意地汚いんだなぁ。 これには世界の人々も幻滅だな」
「あれはお主相手だからやっただけじゃ! 他の者の前では相応の振る舞いをするわい!
そこまで言うなら我も言わしてもらうぞ!! お主な、これをみろ! このシミを!
お主が泣き止まぬから我の大事な一丁羅にシミができたではないか! どうしてくれるんじゃ!!」
「あんなに優しいと思ったのにそんな事の心配してたのか! そんなの洗えば綺麗に落ちるだろ!! あっもしかして洗い方知らないのか?? どおりでちょっと変な匂いがしたわけだ」
「むきゃー! お主今我を、ちるの事を臭いって言ったな!! 臭くないもん! 絶対変な匂いなんてしてないもん!! 女の子に対して臭いなんてノアはデリカシーない!!」
いつも偉そうな口調を忘れてちるが反論する。 結局その後数分間俺達は互いに不満を言い合う事になった。
「「はぁはぁ」」
お互い言いたい事を言い合ったのち、息を切らしながら向かい合う。
「ふ、ふふふ」
「は、ははは」
目を合わせると自然と笑みがこぼれ気付けば今度はお互いに大声で笑いあっていた。
「ふふ、ノアがこんな風に声を荒らげるなんて初めて会った時以来かもね、でも臭いは良くないもん!! 本当に臭くないもん! ……臭くないよね??」
「ちるこそ舐められない為に使っている口調が元に戻ってるぞ。 まぁそもそも臭いとは俺は言ってないけどな。 ……甘い匂いがしたよ」
そう言うとちるは真っ赤に顔を染め上げ俺から目を逸らした。
「も、もう匂いの話はやめ!! 口調は……今日はもう良い! なんだが疲れちゃったから!!」
「はいはい、まぁ服は俺が明日洗っとくよ」
「当然! ちゃんと丁寧に洗う事! あと、言い合ったらお腹が空いた! 何かないの??」
お腹に手を当て不満げに俺を見つめる。
それにしてもこっちの話し方は見た目と相俟って本当に生意気な幼女にしか見えないな。
「あー、さっきの話で思い出したけど、どら焼きな。 まだ残りあるんだ! 明日食べようと思っていたけど今食べようか??」
「どら焼き! まだあるの? 食べる、今すぐ食べるわ! さっきは私が大目に食べたから今回はきちんと半分にしましょう!」
半分にしたら結局俺の方が少ないけど、今回のは本気で言っているみたいだし良しとしようか。
俺は冷蔵庫からどら焼きを取り出しちるの元へ持っていった。
「わー、まだこんなにあったのね! 嬉しいなぁいただきます!」
そう言ってちる両手でどら焼きを掴み食べ始めた。
俺も一緒になって食べる。 さっきよりも少しだけ美味しく感じられるのは、きっと一緒に食べているからなのだろう。
満足そうにしているちるを横目に俺はさりげ無く尋ねた。
「なぁ、ちるはさ。 いつまでここに居るとか決めているのか??」
「んぁ? いつまで? 考えた事ないわ! 暫くはずっとここにいる予定! そんな事より今ははどら焼きを楽しむ事! そうでなければどら焼きに失礼だから!!」
ちるは意に返さずに即答した。
俺はその答えが今までの何より嬉しくて、後は特に何も考えずにちるの言う通りにどら焼きを楽しんだ。
食べ終わった後はお互いにたわいの無い話をして気が付けばちるは先に眠っていた。
俺もそのまま横になりちるの寝顔を見つめる。
願わくばこのままちると一緒に生きていきたい。 そう強く思いながら俺もその場で目を瞑り眠った。
だけど結局俺の最後の願いが叶う事は無かった。
朝、俺が目覚めるとそこにちるの姿は無かったのだ。
出会ってちょうど一年がたった今日を境にちるは俺の前から忽然と姿を消した。
俺はちるが行きそうな場所や、初めて出会った場所、とにかく探し回ったが結局、ちるを見つける事は出来なかった。
それから一ヶ月程たった後、俺は旅に出る事を決意した。
ちるが急に俺の前から姿を消した理由はわからない、もしかしたらあの日、俺が一歩を踏み出した瞬間から俺の前から居なくなる事をちるは決めていたのかも知れない。
そして今も何処かで俺と同じ様に苦しんでいる人を助けているのかも知れない。
いや、きっと俺には想像出来ない事をしているのだろう。
寂しいけど心配はしていない。
ちるは神様だ、俺の近くから居なくなったとしてもこの世界から居なくなるなんて事は無いのだから。
いつかきっとまた出会える日が来る。 何年先になるか分からないけど、その時に俺はちるに恥じない男になっていたい。
今までの様に自分の殻に閉じ篭って生活してちゃいけない。
そう思い直し俺は四年間住んだ自分の家を出て行き、世界中を見て回ろうと決めた。
ちるが俺にしてくれた様に俺も誰かの役に立ちたい、それが俺がちるに返せる精一杯の恩返しになるんじゃ無いかと思ったから。
俺はちるに向けて書いた手紙を部屋に残し家を出た。
不思議と不安は無い、今の俺ならきっと今までとは違う何かが出来るはずだ。
俺の行く先を陽の光が木々を躱しながら照らす。
その道を根拠の無い自信を持って一歩一歩進む。 俺にはまだちる言わなきゃいけない言葉がある。
それを伝えるまで俺はこの歩みを止める事はしないだろう。